教養課程の授業 西洋史

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 6月トピックス】

◆西洋史(アメリカ史)の先生

女性の先生だった。ファーストネームは「邦子」さん。

姓は山口だったか。

いや、違うような気もする。

名前を調べようとしたが、当時のシラバスは大学に聞いても判らず、文部省に問い合わせても残っていなかった。

◆小柄な邦子先生

夫婦で山大の教壇に立たれており、御主人の方はえらく背が高い先生で、やはり教養課程で教えておられた。

ご主人に比べ、「邦子」先生はえらく小柄。

踵の高い赤のピンヒールに白いスーツ姿がお気に入りの装いだった。

髪には強めのパーマが掛かっており、色白の顔に、真っ赤な濃い口紅が強いアクセントとなっていた。

大教室での授業であっただけに、小柄なお姿が、ますます小さくみえる。

そんなことを計算に入れてのヒール丈の高い靴だったのかもしれない。

◆重い歴史

授業の中身はアメリカ東海岸に着いた英ピルグリムファーザーズを出発点に、西海岸に至るまでのアメリカ「開拓」史で、アメリカ先住民をどのように扱ったのかを含めた講義であった。

当時の私は高校を出たばかり。高校では習わなかった歴史の総体。汚れた醜い史実、隠された史実を織り込んだ総体としての歴史を学ぶことのできた刺激的な授業であった。

高校では表面的な事実、勝者による記述がもとになった「歴史」の暗記が中心であったが、多様な視点、逆の視点に敗者の視点を織り込んだ歴史の授業。

大学ならではの授業だ。

大学に入学し、大学という新たな次元の学び場を得た。

大学で新たなことを学ぶスタート台に立ったことを実感できた新鮮な授業であった。

またあの当時、ジャーナリスト本田勝一が流行っていた。

高校の同窓生U君が、本田勝一を熱く語っていたことを思い出す。

(学23期kz)

総会に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年6月 トピックス】

◆以前は高輪の和疆館で開催されていた東京支部の総会。しかし、同館が閉鎖されたため、このところ会場は市ヶ谷の私学会館アルカディアで開催されている。市ヶ谷駅から近く、かなり便利だ。

◆今回の会合は山口大学建学の祖・上田鳳陽先生のご子孫にお目にかかれるという触れ込みだ。

会が始まると、司会は女性。

ん…

しかも同窓生との自己紹介があった。

女性が語るとやはり会場が華やぐ。

この手の同窓会で女性が司会者とは粋な人選ではないか。

司会者としてプロを雇うと、女性が司会者となることが多い。プロだけに、ある程度の出費も覚悟する必要があるが、今回総会の司会者は同窓生というのがありがたい。

◆大学からは有村経済学部長をお迎えしご挨拶頂いた。
最近は少子化あり、地元の官民挙げての地元就職熱の高まりもありで、なかなか東京には若者が来ていないのかと思いきや、卒業生320名程度の卒業生のうち、東京圏には何と56名が来ているとの報告があった。
私も今春卒業し東京の金融機関に就職した新人とつい最近、またまたLINE交換できた。

ピカピカの新入社員だ。

ためしに彼に総会への参加の声掛けをしてみたが、当日は友人が上京し鎌倉を案内するとのことで、総会への参加は叶わず。

最近の学内事情を伺い、ビールを酌み交わそうとしたが、残念!


◆ゲストスピーカーの鳳陽先生のご子孫・上田慶太さんのご挨拶。

上田さんからは先祖の名が受け継がれ、その名を冠した会が今でも存在していることを嬉しく思っており、鳳陽の名を残し続いて頂いた山口大学と鳳陽会に感謝しているとのこと。

ありがたいご挨拶を頂いた。

◆懇親会の途中で、起業家の七村さん(27期、山大理事)からもご挨拶があり、総会で東京支部の財政逼迫の話が出たことを受けて、寄付の申し出があった。

母校愛へのありがたい申し出、誠に心強い。

これまたありがたい話だ。


◆恒例のジャンケン大会
「日頃飲めない山口の高級銘酒」をゲットできるジャンケン大会。

勝ち残った方は、先ず東洋美人の大吟醸、「東洋の女神」に真っ先に手が延びる。一番人気だ。

ネットで検索すると価格は5500円と出ている。

…ということは、ゲットできれば、出席会費の5000円を賄い、お釣りが出ることに…


同じく景品で出ていた貴の大吟醸「ドメーヌ貴」も旨そう上手そうだったな。
五橋の大吟醸も並んでいた。その昔、学内時代は五橋の2級酒しか飲んだことはなく、大吟醸の五橋を試し飲みしたかったのだが。


◆今回の参加者は3期、4期の大先輩から、新卒2年目の若者まで。
山大他学部の同窓生も参加して頂いた。理学部同窓生代表深谷女史。お父様が山大経済を出ておられ、鳳陽会の先輩とのこと。おもしろい。

また、人文学部代表の阪本さんも参加。

深谷女史、阪本氏ともに、東京支部のイベント、歴史散策の長州歴史ウォークに参加頂いており、面識がある。学部を超えた友情参加はありがたい。

◆大阪支部の羽根支部長、宇部・山陽小野田支部の床本支部長も参加された。お二人は29の同期生。
学生歌斉唱では登壇して頂き、懐かしの歌を共に肩を組んで歌って頂いた。これまたありがたい!

この学生歌、いつ頃作られたのだろう。
若い方々はよく知っていると思いきや、そうでもないようだ。
鳳陽寮の寮歌は知らなくても、学生歌は知っていると思いきや、そうでもないのには驚いた。

鳳陽寮歌、山都逍遥歌のリーダーはお馴染みの木村先輩だが、学生歌のリーダーはメンネルコールに在籍された町田さんとのこと。

◆二次会はすぐ近くの居酒屋で、総合司会の方、景品プレゼンターの方の慰労会。

この中で近く、医学界で権威のあるNIH(アメリカ国立衛生研究所)に旅立つ、経済卒業生で医学も学んだダブルメジャー、50期の飯泉さん(筑波大)の壮行会の場ともなった。

二次会には来賓の方にもお越しいただいたのは誠にありがたい。

一次会の総会で語り尽くせなかった話題、言葉を交わせなかった先輩・同僚と賑やかなひとときが続いた。

(経済卒 飯野進 仮名)

写真は事務局から提供頂いた。

令和6年度鳳陽会東京支部総会・懇親会 報告

令和6年6月1日、アルカディア市ヶ谷にて令和6年度鳳陽会東京支部総会・懇親会が開催されました。台風1号による天気が心配されましたが当日は徐々に曇りから晴れへと天候にも恵まれました。
 大学3期から大学71期まで64名の支部会員ほか、学祖上田鳳陽先生のご子孫上田慶太さん、山口大学経済学部長有村貞則さん、鴻理会(理学部)深谷純子さん、鴻文会(文学部)阪本良太さん、大阪支部長羽根彰さん、宇部・山陽小野田支部長床本隆夫さんのゲスト6名計70名の参加となりました。
 まずここ1年になくなられた会員への黙祷。続いて大学49期大加瀬裕美さんの司会、大学23期塩塚保支部長の議長、大学23期葛見雅之事務局長の議案説明により議事が進行されます。1号から5号までの財務・人事案が審議され、いずれも満場一致拍手をもって承認されました。今回にて監事大学21期原田仁さんが退任され大学22期中尾康彦さんが監事に就任されました。
 総会の最後に塩塚支部長より、東京支部の財政状態は危機状態にあり、今秋会報発送に併せて会員各位に特別寄付をお願いする旨の話がありました。
 過去先輩諸氏が(株)鳳陽を精算し株式権利放棄・資産を売却するなどして捻出寄付された資金も残り少なくなりました。東京支部維持のため会員各位のご協力をお願いします。


 懇親会を前に有村貞則経済学部長のご挨拶、上田鳳陽先生のご子孫上田慶太さん他ゲスト4名の紹介があり、懇親会は大学21期松永昭博鳳陽会本部理事長のご挨拶、乾杯の音頭で開始され、用意されたお弁当を味わい、ビ-ル、日本酒、ワイン他お酒を飲みながら暫く懇親が続きました。
 懇親会にて旧交を温めるなか、若手会員の紹介挨拶、ゲストの自己紹介と続いていきます。
 いよいよ恒例のじゃんけん大会。用意された東洋美人・山頭火・五橋等山口の高級銘酒、山口の銘菓の争奪戦の開始です。各テ-ブル毎に勝者を決め、各勝者が塩塚支部長との対決にて順位を決め順次好きな銘酒又は銘菓を獲得していきました。続いて敗者復活戦。松永理事長提供の新潟の銘酒鶴齢の争奪戦と続きました。
 いよいよフィナ-レ。まずは学23期町田秀雄さん指導のもと山口大学学生歌を全員で熱唱。
 トリは、学11期木村進リーダーの登場。木村リーダーの檄に全員で呼応、寮歌・山都逍遙歌を肩を組み熱唱。大変盛り上がりました。
 お別れを前に集合写真をとり、来年の再会、東京支部の発展を願って一本締めで散会となりました。
 

 来年は5月24日(土)、今年と同じくアルカディア市ヶ谷にて鳳陽会全国総会を予定しています。同期、ゼミ、クラブなど先輩後輩に呼びかけ皆様のご来場を期待しています。大いに思い出を語り、近況を語り会いましょう。

ここからは写真とともに、鳳陽会東京支部総会・懇親会の様子をお伝えします。

 参加者集合写真

70名の参加者。 ゲスト6名と大学3期から大学71期までの64名

鳳陽会東京支部総会の様子

総会受付の皆さん
総会議案
司会の大学49期大加瀬裕美さん(右)           議案説明の大学23期葛見雅之事務局長(左)
議長 大学23期塩塚保支部長
総会議事会員風景

懇親会の様子

有村経済学部長ご挨拶
松永理事長 懇親会乾杯の音頭
懇親会会場風景
大学27期七村守さん セプテーニ・ホ-ルディングを創業  山口大学に「七村奨学金」を創設
大学50期飯泉天志さん 経済から医学の道へ      放射線腫瘍学の権威 今夏世界一の米研究機関勤務予定
鴻理会 深谷純子さん
鴻文会 阪本良太さん
今年で常任幹事を退任大学16期秋本尚志さん(右)    と大学17期鹿毛明さん(左)

羽根彰 大阪支部長
床本隆夫 宇部・山陽小野田支部長

じゃんけん大会

テ-ブル別予選の会場風景
テ-ブル予選
テ-ブル勝者と塩塚支部長    との対決
勝者銘酒受領
勝者銘酒受領
勝者銘酒受領
勝者銘酒受領
勝者銘酒受領
勝者銘酒受領
勝者銘菓受領
勝者銘酒受領
勝者銘酒受領

じゃんけん大会敗者復活戦

松永理事長提供の新潟銘酒鶴齢の争奪戦 プレゼンタ-大学58期篠田郁香さんと
勝者鶴齢受領
勝者鶴齢受領
勝者鶴齢受領

山口大学学生歌、寮歌、山都逍遙歌熱唱

大学23期町田秀雄さん(右)と           葛見事務局長(左)山大学生歌指導

ゲストも舞台登場山大学生歌熱唱
大学11期木村進リーダー登場 ”檄”
木村リーダーの檄に参加者呼応 ”ウォ—-!”
総会事務局舞台に 寮歌熱唱
会場での寮歌歌唱状況

山都逍遙歌 熱唱状況

一本締め

最後に東京支部の発展と来年の東京での全国総会の成功と再会を祈念して一本締め

2次会

2次会には上田慶太さん、有村経済学部長、羽根大阪支部長等々20名強が参加会話が弾みました。

2次会状況
2次会状況

鳳陽会広島支部時代の思い出

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年6月 トピックス】


◆全国総会が今年は6月8日(土)に広島で開催されるということで、思い出を書いてみることにしました。
私は大学を1974年に卒業し配属が広島勤務となり、翌年だったか一度だけ、広島支部の総会&懇親会に出席したことはありましたが、それからはスルーしていました。
39歳の時に本社勤務→横浜勤務を経て、故郷人事で?2度目の広島勤務となり、東京勤務となる迄の6年間、毎年出席しました。

◆当時は確か何年かは広島支部長は広島電鉄で社長をされた石松正二大先輩でした。
社内の山口大学工学部出身のM大先輩の紹介で、石松大先輩のご子息が地元で広告代理店を自営でされていて、お付き合いが始まりました。
随分と広告担当業務の応援をして頂き、腰の低い方でした。
今でも年賀状の遣り取りをしています。

◆中学時代に生徒会長をした学21期の入学同期のT氏は大手自動車メーカー勤務を経て、縁があったようで、マツダを上得意とする会社の社長をしていました。
中学時代は同じ中学で一緒でしたが、生徒会長をし、全校生徒の先頭に立って引っ張る目立った存在でした。
高校は広島の名門修道高校でした。
広島支部では司会進行役を買ってでて、今でも年賀状の遣り取りをしています。

◆家業を継いで、Panasonicのストアをやっている先輩のN氏、奥さまも経済学部の入学が一年先輩で、ご主人とは鳳陽寮で一緒の時期もありました。お二人とは在学中は一言も話したこともありませんでしたが、振り返って奥さまを友人と見た「見返り美人」でした。
自宅が歩いてすぐ近くで、Panasonicの製品を購入させて頂きました。
今は自営に加え、家電部門はエディオン堺町店もされています。
2016年7月上旬に帰省した際に20年ぶりに再会しました。

◆最後は地元の銀行に勤務のK女史です。
当時、広島の女性100人にも選ばれました。
今年頂いた年賀状は6月の総会に向けて山下支部長のもと、準備で余念がないとか。
この他にも多くの方との出逢いがあり、一部を紹介させて頂きました。
(学22期 Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

⑤横地校長、鳳陽先生子孫、そして漱石

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 6月トピックス】

◆鳳陽先生の子孫で上田家第5代当主の上田茂雄氏は軍人だ。40歳の時に朝鮮出兵や日清戦争があり、50歳の時には日露戦争があった。こうした戦争の勃発により、居所を変えることを余儀なくされる。一時は大阪にも居住したようだ。

軍人の経歴として最後は精鋭部隊で日本軍屈指の戦果を挙げた愛媛・松山の陸軍歩兵22連隊に配属、そこで停限年齢を迎え、退役した。退役の地・松山に居を構え、松山で牛乳会社の社長に就く。

軍人としての上田茂雄氏の階級は獣医監。日本陸軍の獣医官を統括する地位で、階級としては少将クラスだ。少将クラスの停限年齢は58歳。

◆茂雄氏は軍人時代、松山で地元の名士と交流があったのだろうか。

茂雄氏の松山へいつ赴任したのかは定かではない、。

高位の軍人として松山の名士の方々と交流があったとすれば、漱石とはともかく、松山中学の校長・横地氏とは出会っていたことも考えられる。

また茂雄氏が退役後、牛乳会社の社長を務めた時から地元との交流を始めた場合、横地校長はすでに12年も前に高商教授として山口に行き、高商の校長になっていたので、松山で出会っている可能性は薄い。

◆しかし、上田茂雄氏は自分が上田鳳陽翁の子孫であることを認識していた。上田家に数々の口伝が残り、語り継がれていることことがその証となっている。

このため茂雄氏は松山に居を構えていても、時々は鳳陽翁の墓のある山口へ、先祖・鳳陽翁の墓参りに行っていたのではないか。

山口は愛媛・松山の対岸で、海路で60キロ弱、2時間半の距離だ。

上田家では、先祖の墓のある山口との縁も徐々に薄れていくかと思われたころ、茂雄氏は周囲から松山中学の前の校長・横地石太郎氏が山口の高等商業学校の教授として転任したという話を聞き、横地氏との縁を認識し、茂雄氏は山口への墓参りの折に、横地校長を訪ねたのではないか。

◆両者の出会い

横地校長は前の赴任地松山から訪ねてきた官立山口高商の学祖・鳳陽の子孫を目の当たりにし、また上田茂雄氏も横地校長に松山での縁、また先祖・鳳陽翁との縁を意識したのではないか。

その時から二人は密接につながっていったのだろう。

これを機に、上田茂雄氏は山口高商で催される鳳陽翁墓前祭など各種催しに招かれていることは、上田家に口伝として残っている。

そうした機会の一つに鳳陽翁の墓石の前で写ったのが山高帽の横地校長と軍服姿の上田茂雄氏の写真だったのだろう。【文末の写真参照】

◆この写真を三田の鳳陽会東京支部で見せて頂いたのが上田茂雄氏の玄孫にあたる上田慶太氏だ。

慶太氏も上田家のこと、また先祖の上田鳳陽翁のことを調べている際に、東京支部のホームページに掲載された上田鳳陽先生の記事に行き当たり、連絡を頂いた。ここで我々と鳳陽先生との埋もれていた縁が繋がった。

その上田慶太氏は、本日6月1日(土曜)の東京支部総会のゲストとして参加される。

(学23期kz)

鳳陽翁の墓石の前に立つ横地石太郎・山口高商第三代校長(左)と上田家第五代当主・上田茂雄氏(右)

④横地校長と鳳陽先生子孫、そして漱石

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 5月トピックス】  

◆松山中学横地校長が山口高商教授へ、そして校長に就任

横地校長は1900年3月に松山中学を退職し、9月に山口高商教授として山口に赴任する。

横地氏にとって山口高商は単なる腰掛けの職ではなかった。

校長になったのは明治44年(1911年)3月。校長を辞職したのが大正13年(1924年)6月。

何と13年の永きにわたり校長を務めた。

さらに言えば、その前に10年ほど山口高商教授時代んに、山口高商初代松本源太郎校長が退く際に校長事務取扱職を努めており、この期間を含めると、都合23年という長い間、山口高商に奉職された。

◆高商校長在任中

校長着任後は実務教育に注力するとともに、伝統たる倹約の美風を奨励し、質実剛健の気風を維持することに努めたほか、教育者の師弟関係の親密化を図り常に家庭と学校との連絡にも配意している。

明治38年、山口高商への学制転換時には生徒の定員が300名であったが、明治45年には360名となり、試験場は山口、東京、京都の3か所に設けられた大正7年には480名となり、山口高商への入学志願者も増え、競争倍率は15倍に達したという。

この頃、中国との関係が重要性を増し中国事情に精通した実業家の育成が重視された。

明治44年には中国語科を新設、大正4年には支那貿易講習科を設置(大正7年には支那貿易科と改称)

大正6年(1917年) 研究団体として東亜経済研究会(現・東亜経済学会)が発足している。

また、かねてから商科大学への昇格が念願となっていたが、大正9年には東京高商の大学昇格が実現したことで山口でも昇格運動が盛り上がる。400余名の生徒が「昇格か廃校か」という旗を立て、鳳陽先生の墓に参った後、町を練り歩き、町民に訴えたという。横地校長も「商科大学に昇格し、法科併置の防長大学設置」という「防長大学設立趣意書」をまとめて県知事とともに上京し、その実現に向け尽力された。

名物の満韓修学旅行は明治40年に開始されて以来毎年継続してきたが、45年に初めて中国本土に向かっている。

大正2年には修学旅行先を中国本土と朝鮮の二手に分けて実施した。

特に朝鮮旅行隊に対しては、現地で陸軍大将寺内正毅朝鮮総督(山大のある平井村出身)が訓話し、児玉源太郎総務局長(徳山出身)が朝鮮を巡る情勢について講話したという。

ただ、修学旅行先の選定で、清国からの留学生の要望が入れられなかった問題が拗れ、大量の退学処分者を出さざるを得なかったような事態も起こり、校長としてご苦労もあったようだ。

横地石太郎校長は大正13年1924年6月に山口高商を退官。山口高商名誉教授の称号を得る。

横地校長はかつて京都中学校で教諭を務めていた縁もあってか、晩年は京都に居を移し、大戦終結の前年・昭和19年(1944年)5月末、84歳で永眠された。

(学23期kz)

重大な公式の儀式の際に着用した大礼服
「金沢ふるさと偉人館」提供

◆参考  横地先生山口高商在任中の主な出来事 

【明治33年(1900年)★愛媛県尋常中学校(松山中学)校長から山口高商教授に就任】

明治38年(1905年)山口高等学校を山口高等商業学校へ転換

同年  旧制商科大学への昇格運動おこる。

明治39年(1906年)山口高等学校廃校。高商に完全移行。

明治39年(1907年)開校式

同年        満韓、清韓方面の修学旅行(3年時)が始まる。

明治41年(1908年)中国人留学生を対象に特設予科を設置。

同年        商品陳列室の竣工

【明治44年(1911年) ★山口高商の校長に就任】

明治44年(1911年) 中国語科を新設

同年       修学旅行を巡り、清国留学生の99名中約8割の留学生に集団退学処分。特設予科廃止

大正4年(1915年) 支那貿易講習科を設置(修業年限1年)

大正6年(1917年) 研究団体として東亜経済研究会が発足(現・東亜経済学会)

大正7年(1918年) 支那貿易講習科を支那貿易科と改称。

         旧制商科大学への昇格運動。

大正9年(1920年) 「商科大学への昇格、法学部併設による総合大学」へ向けた「防長大学設立趣意書」をまとめて横地校長上京。

大正10年(1921年) 商業研究所を設置

大正11年(1922年) 同研究所を調査部と改称。  

③横地校長と鳳陽先生子孫、そして漱石

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 5月トピックス】  

◆「坊ちゃん」の主人公のモデル

坊ちゃんのモデルは誰か。

残念ながら漱石自身ではない。

弘中又一氏、山口の出身だ。

山口県都濃郡湯野村(徳山)の生まれ。同志社に学び、数学の教諭として漱石と同じ年度に数学の教師として漱石よりも6歳若く、漱石と同じタイミングで松山中学に赴任した。

◆赤シャツのモデル

では「坊ちゃん」の影の主人公ともいえる教頭の「赤シャツ」は誰がモデルとなったのか。

一説では、漱石が松山に赴任してきた時に、当時「教頭」だった横地石太郎氏(山口高商第三代校長)が教頭の「赤シャツ」のモデルではないかとの説もあった。

しかし、そうではない。

◆書き込み本

「草枕」、「坊ちゃん」、「二百十日」などを収め、明治40年に刊行された漱石の単行本に「鶉籠(うずらかご)」がある。

ここに収録された「坊ちゃん」の中に、後に第3代山口高商の校長を務めた横地氏と「坊ちゃん」のモチーフとなった

弘中氏が共同で「坊ちゃん」の欄外に書き込みを入れた「書き込み本」がある。

書き込みは本の余白欄に書き込まれており、記述の中身は「坊ちゃん」に出てくる場所、施設から当時の出来事、また登場人物に関して、事実確認と解説が加えられている。

例えば、坊ちゃんが松山に着いた「港」が出てくるが、「伊予三津浜港(横)」という注釈が付いており、坊ちゃんが赴任した初日の校長訓示の内容については「事実(横)」とある。

漱石の前任者の箇所については「前任者はスコットトイフ外国人デアッタ。其様ナコトナシ(横)

(横)とは横地氏の意である。

「蕎麦ヲ喰ッテイルトコロヲ見ラレタノハ 弘中ナリ」(横地)

書き込みには「事実ナリ」、「事実ニアラズ」、「事実ラシイ」)という記述が頻繁に出てきており、記述者も(横)、あるいは(横地記)、(弘中記)というように横地・弘中の両名協同で検証されており、「坊ちゃん」が事実をベースに書かれていることがわかる。

◆赤シャツの正体

この中で「赤シャツ」について、横地氏自身が「坊ちゃん」の欄外に、「赤シャツ」のモデルは横地自身ではないと注釈を加えている。

「赤シャツヲ着テイタ西川ハ 給ハ下デアッタガ、横地ハ嘱託教授デアッタカラ、教頭ハ西川デアッタ」(横地記)

さらに弘中氏が解説を加えている。

「赤シャツハ当時ノ流行ニテ 西川モ中村も着用セリ。沢田モ着用。横地ガ着用シテイタカ否カ山嵐ニ問イ合ワセルモ 確タル証拠ナシ。マズ無罪放免ナラン」(弘中記)

続けて

「元来赤シャツ其ノ者ノ性格ハ 前記沢田幸次郎氏ノ描写ナルモ 予等ノ就任セル時ハ 恰カモ沢田氏排斥セラレテ去リ、其ノ後ニ横地氏来ラレ、漱石ハ沢田ノ性格行動ヲ伝説トシテ聞ケルニスギズ、風来顔貌等ハ西川ヲモデルニセシトコロ多シ」(弘中記)

この書き込み本は、2016年には横地氏のふるさと金沢では、「金沢ふるさと偉人館」の横地石太郎企画展が企画され、そこに展示されたこともある。

【写真参照】

なお、この書入れ本は国立国会図書館のデジタル化された図書の閲覧サービスでも見ることができる。

◆横地氏と弘中氏、晩年は京都に

一説には「赤シャツ」のモデルとも言われた横地石太郎氏と「坊ちゃん」のモデルとなった弘中又一氏、両者とも晩年は京都で暮らした。

横地石太郎氏はふるさと金沢にも近い京都で余生を送った。

また、山口・周南市(徳山)出身で同志社普通学校(現同志社大)で学んだ弘中又一氏も教職としての最後の赴任地京都・同志社中学で教鞭を取り、横地氏と同様京都に住んで、数学を研究したという。

横地氏は84歳で他界、当時としては長生きの方であろう。

この二人が晩年、京都で松山当時のこと、漱石のことを語り合ったのかもしれない。

つづく

(学23期kz)

「金沢ふるさと偉人館」提供
「金沢ふるさと偉人館」提供
「金沢ふるさと偉人館」提供
「坊ちゃん」の主人公・弘中又一氏

②横地校長と鳳陽先生子孫、そして漱石

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 5月トピックス

◆山口高商第三代校長・横地石太郎氏

1860年1月生まれ。金沢出身。

前稿で述べた鳳陽先生の子孫・第五代上田家当主上田茂雄氏より5歳ほど年下にあたる。

明治7年に金沢英学校に入り、英語、数学、漢学を修学。旧藩主前田利嗣の学友として東京前田邸内学問所に入ったが、同校の廃止に伴い東京英語学校から東京帝国理科大(東大理学部)に進み、応用理学科を卒業。

理学博士だ。

専門は物理化学だが、考古学、天文学、地学など幅広い分野に興味を示した知識人であった。

◆神戸、京都、鹿児島で中学教諭を務め、福島県尋常中学校校長を経て、明治27年(1894年)11月に、当時愛媛の住田校長に招かれ松山中学校(現松山東高)教授嘱託として入った。

翌明治28年(1895年)3月に教諭、4月に教頭となる。

10月には校長事務取扱、翌96年3月、校長に就いている。

横地氏は松山に赴任した後、松山中学の校長を退職して1900年3月に山口高商の教授として赴任するまで、5年半松山に居た。

横地校長が松山中学の校長時代、松山に居を構える上田茂雄氏と出会い、交流があったのであれば、面白くなるが、上田茂雄氏は軍人だ。横地校長より5歳ほど年上の上田茂雄氏は年上日清・日露戦争に従軍しているので、こうした可能性は薄い。

上田茂雄氏が退役後に松山に移り住んだのは、横地校長が山口高商の教授として対岸の山口に転任していった後だと思われる。

横地氏は学究肌の人物だ。松山の考古探訪に勤しみ、古墳、埴輪、土器などの考古学的論考を学術雑誌に投稿している。横地石太郎氏が山口高商に転勤してくる直前の話だ。

◆横地校長の漱石との出会い

松山で横地校長が出会ったのは別の有名人、夏目漱石であった。

横地が松山中学の教頭になったのは明治28年4月、東京から漱石が新任の英語教諭として赴任してくる。

当時横地氏が35歳、赴任してきた漱石は28歳であった。

つづく

(学23期kz)

①横地校長と鳳陽先生子孫、そして漱石

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 5月トピックス】  

◆一枚の写真

上田鳳陽先生の墓に立つ二人の人物。

写っているのは山口高商第三代校長横地石太郎氏。その隣に居る人物が上田鳳陽先生の末裔で第5代上田家当主茂雄氏である。

この欄で上田鳳陽先生について書いたことで、鳳陽先生の末裔・上田慶太氏と繋がることができた。

本文末の写真は慶太氏から入手したもので、松山空襲の戦禍を逃れたものだという。

写真に映った二人はもともと山口の人物ではない。この二人がその昔、同時代に松山おり、そこで繋がったようだ。

横地石太郎は明治27年に松山中学に転任してくる。

また上田鳳陽先生の子孫、茂雄氏も後に松山の連隊に属し、退役後は松山に在住、民間会社の社長に就いている。

◆上田茂雄氏(上田家第5代当主)

上田家第六代・内蔵亮(くらのすけ)氏の次男一雄氏が記した「上田家系年譜」によると、上田鳳陽51歳の時の孫娘サトと養子縁組をしたのが上田信義氏。この信義氏が上田家第4代当主となる。

信義氏に子はなく、このため養子縁組をする。それが5代目の茂雄氏だ。

茂雄氏は安政元年(1854年)12月、山口県熊毛郡・田村家の次男に生まれる。文久3年(1863年)、9歳の時に上田信義の養子として入籍し、信義の死去に伴い20歳で家督を相続した。

茂雄氏は陸軍に入り、明治27年の日清戦争では陸軍一等獣医監(少将相当)、明治37年日露戦争では大日本第5師団獣医長として従軍し、その功績により叙勲している【写真参照】。

大阪在住時は陸軍大佐として宮内大臣主催の夜会・晩餐会等に招待されている。

晩年は松山の連隊に所属し、退役後はその松山で民間会社の社長を務めた。

茂雄氏の曾孫にあたる誠一氏(京都在住)が語ってくれたところによると、茂雄氏は「山口高商の記念日や、セレモニーがある時には山口へ行っていた」という。

茂雄氏は大正5年(1916年)11月に、松山市内で没した。享年63歳。

墓は千秋寺。松山市内にある護国寺横にある寺で、そこに眠る。

もう一人の人物が横地石太郎氏。

山口高商の第三代校長だ。

つづく

(学23期kz)

松山護国寺近くの千秋寺
「上田家奥津城」

空手哀歌 NO.5  卒その後(商社入社・最強本部道場入門編)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年6月 トピックス】  

山口大学経済学部とは名ばかりで、空手学部を目出度く?!もなく卒業しました。

ゼミは学生2人のみ不人気保険論。

合気道経験者の教授と武道雑談義が私の係、お勉強は相方の担当です。

こんなんでも卒業、就職できた良い時代。

◆東京の商社へ

山口の行きつけ飲み屋常連の柔道部主将が

「お前に決めた、他受けるな。」の一声で行先決定。

魑魅魍魎、わけのわからぬ大都会・東京の商社に入社し、水産部へ。

脳力ないけど体力気力のみ、同期入社500名のうち150名は1年で退社。引き続き、理不尽トホホの世界。

早朝出社、残業、麻雀、暴飲暴食でアッという間に20KG増。

◆空手協会本部道場

こりゃあかん、新しいスーツもパッツンパッツン。

博多の大先生の紹介状もらって、恵比寿の日本空手協会の本部道場へ入門。

当時、この協会は最多のプロを有する世界最強集団。

土曜日だけの稽古でヘトヘトなのに、力の余ったプロ予備軍の若者が

「軽くやりましょう」と。

 軽く!? とんでもない。

鬼の形相、死に物狂い、こちとらスタミナ不足で

”もう好きにして”状態、そんなこんなで1年続かず。

◆通産省空手部

 魚貿易の仕事で通産省(現 経済産業省)農水産課へ出入りしてました。

ある日、空手部員募集のポスター発見。即電話すると、

「黒帯4人しかおらず団体戦出られない、すぐ来て!」と。

次の週末は港区の試合。

皆さん優しく、活動費ふんだん、通産省ネーム入り高額の試合用道着も

無料支給。

稽古後もシャワーでなく守衛さん用の大浴場、と至れり尽くせり。

作家の今野敏さんも修行していた正統伝統流派、

宴会のみ参加ですが、今も部員です。

(続く)

(山口大学経済学部卒業生 N)