ある年の「経営学特殊講義」

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年4月 トピックス】

岡山支部・岡山Bさんの投稿

80年代の初頭のある年、本来授業を受け持つ教官の体調具合がすぐれず、授業開講中止となっても已む得ない中、数名の教官によるリレー方式の講座に変更された開催されたことがあった。(今の大学の講義の中ではある意味よくある設定かもしれない)

微かな記憶では、4名ぐらいの担当教官で運営されたと思われるが、定かではない。

それぞれの先生が、担当科目のエッセンスを各人の数回の授業機会の中で、講義を構成し、教授する。学生もそれを受講するという、当時としては難易度の高いものであったかもしれないと回想する。

最も印象に残っている教官は、財務管理論を担当されていた若き日の赤石先生の授業である。財務管理の基礎の基礎を教授したのち、「ポートフォリオ」と言う話が出てきて、何処か新鮮で、今でも印象に残っている。

ポートフォリオとは、資産を多様化するため、異なる金融商品を組み合わせるということのようだ。社会人になって気づいたのは、リスク分散、また、反対に収益性を図る上でも大切な考え方である。

経営学特殊講義のなかの財務管理で出会ったその理論は、後に勤務先で自己啓発等の通信教育を受講すると事業戦略、また経営管理の中でも当たり前のように「ポートフォリオ」と言う言葉に出くわす。分野の違いこそあれ、あの時、あの六角型の階段教室:大講義室で聞いた話だ。

別の理論編では亀本先生、増田先生も担当されていたかもしれない。経営組織論や労務管理論関係であったかもしれない。記憶は定かではない。

ある意味特殊な事情でやむなく講義内容を変更して開催された、まさしく「経営学特殊講義論」であった。しかし、各先生が研究、担当する授業科目のエッセンスを凝縮して聴講できる貴重な機会となった。

その後、まだまだ未熟な人生の中ではあるが、何度となく思いもせぬ展開で苦境に立つことがあった。しかし、苦境を苦境だと悩み塞ぐことはなかった。あの時の少しピンチであったり、苦境であっても、ものごとの取組み如何によっては豊かな授業につながることを若き日の学生は体得していたのである。

「ポートフォリオ」と言う言葉の効用は、ある意思決定をするときも、時間があれば自分の中で何個かの選択肢を準備する。その中で、その意思決定をする時点においての最適の解、また時の経過と言う時間選好を考えた中での最適の解は何かと自問自答しながら、拙い意思決定をしていった。自分にとって、ある年の「経営学特殊講義」という禍は転じて、福となっている。

(岡山B)

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その4

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年4月 トピックス】

◆明倫館の拡充 第13代・毛利敬親(たかちか、1837~1869年)

敬親は天保8(1837)年に第13代藩主に就任するが、天保4年の大飢饉のダメージは就任した年にピークとなったようで、同じ天保8年の2月に大塩平八郎の乱が起き、3月に三田尻でも一揆が起きている。

また、ペリーが来航するのは少し後のことであるが、この時には異国船が日本の近海に姿を見せており、海防への対策も急がれていた。

この時の財政状況をみると、歳入が3千貫、他方負債は8万5千貫であった。逆説的な話であるが、こうしたなか、敬親公は嘉永2年(1849)に明倫館の拡充に向かう。

敬親は財政緊縮の際も明倫館の経費は節減しなかった。

こうした事態だったからこそ、文教重視・人材輩出強化策へ向かった。

これは敬親の判断だ。

敷地を約17倍に拡張、教員は5倍、入学生は十数人から大幅に増え、幕末には千人の規模になったとされる。

教える科目は文科系の漢学・筆道・礼式、理科系では医学・天文学・地理・算術、芸術系の音楽、兵学系では、弓・馬・剣・槍・騎射・水泳と、総合学園の様相を呈した。

特に洋楽による科学的・合理的思考の要請を進め、藩士の世界観を拡げることに配意した。

就学期間は3年であり、こうした修業の場は後々人材抜擢の母体となる。

敬親は文教の発展拡充策の浸透の観察に熱心で、参勤交代で萩に帰る途中、必ず明倫館に寄り、生徒の学ぶ様子を視察し、生徒の発表を聞いたという。

また、世子・元徳を明倫館の一隅に住まわせた。

教育が大事だったとはいえ、教育は懐妊期間が長い。

多くの借財を抱えた中で、よく思い切って文教の拡充に向かったものだ。

◆勉強熱心な鳳陽翁

上田鳳陽は山口講堂開設後、経営を門人に任せ、(47歳の時に)明倫館に再入学し、館内に秘蔵され、大黒屋が集めていた国学関係の書籍(大黒屋本)の研究を1年間行った。

大黒屋本:

国学者・契沖の門下で、長州藩御用達であった京都の町人・大黒屋今井似閑が享保 年間に契沖の遺著及び、自らが長年集めていた国学関係の典籍を京都の上賀茂神 社の神庫に奉納しておいたものを、明倫館創立の際に伝写したもの。現在は山口県立 山口図書館に保存されている。

明倫館での研究を1年程行った後、鳳陽は再び山口に戻り、講堂の経営に生涯を捧げた。

天保5(1834)年には、藩主敬親より自筆の聖号を下賜されるとともに、その表装用として紋章入りの茶地金襴織の布を与えられた。翌年、これを使用した表装を山口講堂に納め、 志ある人々に礼拝を許した。

 また、鳳陽翁は儒学だけではなく国学にも精通し、故事にも詳しかったため、山口代官から委嘱され、「風土注進案」の編纂にもかかわった。「風土注進案」は、敬親の命により、防長両国の各 村落について故事来歴や地理など数十項にわたる項目を調査し、 それをとりまとめ、町村から注進する形式で、一町村ごとに一冊 に編纂した文書である。鳳陽が編纂にあたった「山口宰判風土 注進案」は、数ある風土注進案の中でもその精細さから高く評価されている。

つづく

(学23期kz)

毛利敬親

第98回 鳳陽会ゴルフコンペを開催しました

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

前日の冷たい雨がウソの様な晴天の下第98回鳳陽ゴルフ会が桜満開の筑波東急ゴルフクラブで開催されました。

大学17期の鹿毛さんから58期の紅一点、篠田さんまで12名の同窓が集いました。

優勝は27期の七村さん。世界中のゴルフ場でプレーされているだけあってグロス86と唯一の80台。

準優勝は幹事の37期上野、3位は豪快なドライバーが健在の19期平田さんでした。

七村さんより寄贈いただいた副賞のドンペリ シャンパーニュは準優勝の上野が頂きました。(ありがとうございます)

次回は、9月もしくは10月の週末に開催予定です。

詳細は6月頃ご案内します。

100回まであと2回、皆さまのご参加をお待ちしております。

幹事 37期上野啓

17期から58期まで12名が参加
桜もちょうど見ごろ
副賞のドン・ペリ(27期七村氏寄贈)。表彰式会場にも花が咲きました。

同窓34期の渡邉岳彦氏、日立システムズの新社長に就任(4月1日付)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

4月1日付で渡邊岳彦氏(学34期)が日立システムズの代表取締役社長に就任する。

渡邉新社長は1964年3月生まれ(61歳)で防府市出身。

1986年3月に山大経済学部を卒業。

同社によると「長年にわたり日立システムズに貢献し、さまざまな役職を通じて幅広い経験を積んだ実力者」(同社)であり、2021年に同社の常務常務執行役員、2023年に専務執行役員に就任していた。

同窓一同、今後のご活躍を祈念したい。

同氏の経歴と顔写真は下記2025年1月31日付、日立システムズのプレスリリースに掲載されています。

https://www.hitachi-systems.com/news/2025/20250131.html

(鳳陽会東京支部事務局)

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その3

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

◆萩と三田尻の中間・「山口」の学問所建設 

第10代・齋熙(なりひろ、1784~1836年)の時代

長州藩では萩の藩校・明倫館、私塾では三田尻(防府)の越氏塾を中心に多くの郷校、寺子屋が設けられ、若者の教育に力を入れた。

こうした中、山口の大内氷上の上田鳳陽翁は寛政12年(1800)、32才の時に萩の明倫館に学び、規定3年のところ、文化6(1809)年まで9年の永きにわたり在学し、儒教、国学を中心に勉学に励んだ。

修学後は若手諸氏の教育にあたったが、大内氏の文化の栄えた山口には学問所はなく、書籍も乏しかった。

そこで鳳陽翁は文化12年2月に学び舎の創設を志し、当時の明倫館の学頭・中村九郎兵衛を通じ、学問所の建設を藩に申し立てた。

折しも藩では教育に注力していた時期でもあり、申し立てを受け、藩有林から建築用資材の伐採を許可し、資金面の支援を行い、学頭へも学舎建設を支援すべく手配させた。

同年4月、中河原に講堂が落成し、山口講堂と呼ばれた。

上田鳳陽翁が47歳の時だ。

時の藩主は第10代・齋熙(なりひろ)。

齋熙は山口講堂が完成した際に、参勤交代や領内巡回視察で使う公館「山口御茶屋」で、山口講堂に学ぶ若者の文武諸芸を観閲した。

これが発端となり、萩の歴代藩主が萩往還を通る参勤交代や要務で「山口」に寄った際は、学問所・講堂を観閲することが慣例となり、萩明倫館、三田尻の越氏塾と共に山口講堂にも書籍が下賜されたという。

また、ペリー来航から10年経った文久3年(1863)には、攘夷決行に備えて藩庁が山口に移転し、明倫館の人材も多くが山口に移ったのに伴い、同年に上田鳳陽翁が文化12年(1815)に山口中河原に開講していた私塾山口講堂(のちに山口講習堂)が山口明倫館と改称のうえ藩校に昇格、明倫館が萩と山口に並び立つことになった。

◆山口講堂を開設した上田鳳陽は藩主のお褒めに預かることになり、身分は下級武士から中級武士へと昇格、儒役(じゅやく)という役職を得た。

儒役とは、藩主や藩士へ孔・孟の教えを講じ、教授する役職だ。

新明倫館では再び朱子学が教えられることになるが、明倫館の書籍をみると、「古文辞学」の書籍が多かったようだ。

荻生徂徠の「古文辞学」。

すなわち徂徠学とは朱子学とは異なる。

幕府公認の朱子学、すなわち道徳でまつりごとを治めるのではなく、各人異なる人間性を道徳で抑えず、個性を是認し、伸ばし、制度を作り、変革し、制度によって社会を統治することが肝要だとする

実は上田鳳陽翁もこちらの流れ、徂徠学派ではないかともされる。

古文辞学派でありながら、国学や考証学にも通じていたようだ。

表向きはともかく、明倫館では幕府が推奨する道徳中心の朱子学から距離を置く傾向があった。

実学的な徂徠学が主流となっていたようで、長州藩では公儀に対する秩序を守り忠誠を誓う朱子学は、関ケ原以来もともと敬遠される傾向にあったのかもしれない。

つづく

(学23期kz)

毛利斎熙

荻生徂徠

「横目で眺めた経済学」を さらに横目で見て

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

岡山支部・岡山Bさんの投稿

ウィキペディアで高島善哉の教え子として紹介されている名前を眺めると、そうそうたるマル「経」の研究者が並ぶ。

投稿された学23期kz氏の「横目で見た経済学」 を、さらに”横目”で見た 編を書こう(敬称略)。

経済学を学ぶとき、その立ち位置として、近代経済学を選ぶか、あるいはマルクス経済学を選ぶかは、kz氏ご指摘のように重要な選択である。

kz氏の論評は、既に多くの示唆に富む考察がなされ、今後の後編の展開を楽しみにしている。

「横目で見た経済学」 を さらに”横目”で眺めてみると80年代の経済学部のある場面に出会う。

では、80年代初頭の経済学部を見よう。

名古屋大の水田洋のお話がありました。一橋の高島善哉ゼミで学ばれた水田洋、その先輩にあたる方で、わずか数年間ですが、山大で教鞭を取られた先生がいます。

その先生の名は川崎文治先生です。大阪市大で定年前(60歳頃)まで勤務され、山大に経営学の大学院設立の為、招聘した先生です。

専門は賃金論、労務管理論です。経営学総論を担当された時の教科書はミネルヴァ書房の経営学シリーズもので、「現代資本主義と経営学説」。そのシリーズの編集者の一人にも名を連ねる大家です。80年代経済原論ⅡA担当の吉村先生が後年勤務することとなる、北九州市立大学では学長もされておられました。)

直接の授業は受けたことがなかったのですが、退官時の最終講義(81年1月)に参加しました。昔学務の掲示板の廊下の前にあった6角形の大講義室を満席にしての講義です。

子細な内容については、たまたま運よく、ネットで ”川崎文治 + 経営学への反省” で検索すると、最終講義の要約に出会えます。この先生の経営学に対する姿勢について、伺い知ることが出来ます。

経営学を大きく”一括り”で捉える話がある。一方、きっとその道に進まれた方にとっては、①経営の現実の現象を実学として、分析し、アプローチして行こうとするアメリカ型の経営学(management)と②ドイツ国内では金儲け論との批判を受けながらも少し思想的、哲学的深みも持ちながら経営を研究しようとするドイツ型の経営経済学(BWL)がありそうだ。(この見方は、私見の色彩が強いことをご容赦戴きたい)

先の経営学の二分類から行くと、将に後者のドイツ型の経営経済学を中心として研究をされた方です。

要約の部分でカットされている部分を微かな記憶を辿れば、次のようなことも話されていた記憶があります。

戦時下では、マルクス経済学を表だって研究するのは差し障りのあるご時世。その隠れ蓑として、アダムスミス等を研究することを余儀なくされていたそうです。

高島善哉しかり、水田洋しかり、アダムスミスの研究者の第一人者のひとりであることの裏話として、このようなことがありそうです。

そして、ウィキペディアで高島善哉の教え子として紹介されている名前を眺めるとそうそうたるマル径の研究者が並ぶ。長洲一二、平田清明、佐藤金三郎、kzさんの文書に出てくる中村貞二もその名を連ねている。また、財界人では、川勝賢二(三和銀行元頭取、経団連副会長)。

中村貞二はマックス・ヴェーバー研究者として有名である。

川崎文治先生招聘の目途であった経営学専攻の大学院は成し遂げられなかったが、当時の若手研究者にとってはこの上ない学問的刺激であったことが予想される。

神戸大学経営学部で日本のドイツ経営学の第一人者であった市原季一の院生、その後山口で教鞭を取った亀本先生、増田先生への影響力は大であった。

山大の経済出身であった亀本先生はこよなく山大を愛する熱血助教授。川崎文治先生の後を継いで、経営学総論を担当されました。また、その少し前の時代には経済学部で取り組まれていた寡占論に関係する研究にも積極的に参加をされています。

増田先生は、ドイツ経営経済学のニックリッシュ研究、カトリシズムに関連する経営学と研究を深めていかれました。

②大塚史学の話がありました。秋草先生の後任は及川先生と言って、大塚先生の愛弟子の方が後任を務められておりました。勿論教科書は、大塚史学の「欧州経済史」でした。

(岡山B)



ホームページを刷新しました

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

ビジュアルや機能の大幅アップデートを行い、ホームページとして見やすく、また使いやすいように心掛けました。

今回のホームページの改訂が会員のみなさま同士の交流の深まりや、同窓会活動の拡がりにつながることを願っています。

鳳陽会東京支部事務局

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】    

◆明倫館の創設 第5代・毛利吉元(1677~1731)

長州藩でも財政が逼迫していた。

財政が逼迫する中では家臣の士気も低下する。

財政悪化を食い止め財政再建を進める必要があるが、その担い手、財政改革を進める人材がいないという問題に突き当たった。

このため倹約や経費節減に取り組み、参勤交代に関わる人員削減にも努めている中であっても、この先中長期的に財政の悪化を食い止める藩政改革の実施を遂行する人材を育てんがために、文教予算を捻りだし、人材育成機関を設立した。

藩校明倫館の創設だ。

5代藩主吉元(1677-1731)の時にあたる。

ここで人材育成機関としての明倫館の歩みが始まることから、5代・毛利吉元は「長州文教の祖」とされている。

◆明倫館が出来上がったのは享保3年(1718)12月。

江戸後期当時、全国で300ほどあった藩校のうち13番目の創建だった。

明倫館では、940坪の敷地に孔子、孟子などの賢人を祀った大成殿が中心に置かれ、学問寮、兵法場、手習い所、剣術場などが配置され、明倫館は建物の構造、教育内容、儀礼式典など湯島聖堂を模したものだったという。

また、明倫館の新設にあたり、教える側、すなわち教員の身分も引き上げており、この結果、己の身分を誇れる職場として、優秀な教育者が集まることとなった。

また、同時に親が裕福とはいえない学童には給費支援制度を設け、教育の機会を広げる策も講じている。

ここで人材育成機関としての明倫館の歩みが始まることから、5代・毛利吉元は「長州文教の祖」とされている。

◆初代学頭は湯島聖堂の竣工に合わせて大学の頭に任じられた林鳳岡(ほうこう)に学んだ儒学者の小倉尚斎。

そこでは朱子学が講ぜられたという。

2代目が徂徠学の山縣周南であった。

「明倫館」の名付け親である。

「明倫」とは孟子の言葉で「(文教が)人倫を明らかにする」、すなわち文教が人の守るべき道義を明らかにするという意。

「上に立つものが教育の力によって人間の道を明らかにして教え導けば、下、人民はみなそれに感化されて互いに親しみあい、国は大いに治まる(皆、人倫を明らかにする所以なり)」

教育内容をみると、旧明倫館では初代学頭小倉尚斎の時には朱子学が教えられたが、2代目学頭の山県周南は荻生徂徠の「古文辞学(古学)」だ。

すなわち朱子学や陽明学のように朱熹や王陽明の主観的な見解によって孔・孟を解釈するのではなく、孔子、孟子の原点に立ち返ることを目指した。

また、徂徠は為政者が優れていれば民衆もよく治まることはなく、世を治めるためには社会の仕組み、制度の改変が重要であること、また人材については、身分制度にとらわれず、能力に応じた人材登用を行うべきとの革新的な意見を持っていた。kogaku

(学23期kz)

毛利吉元公