三人の財界巨人 その3 藤田伝三郎②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年5月 トピックス】

◆「藤田」の名が残るのは・・・

いま、藤田の名を留めるのは藤田美術館(伝三郎の本宅あとで、紫式部日記絵詞、玄奘三蔵絵第一巻、曜変天目茶碗など国宝9点、重要文化財45点を含む5千点の収集物を収納)。

ワシントンホテルの経営母体の藤田観光(大阪の太閤園・・・伝三郎の長男平太郎の邸宅で結婚式場だったが2021年に閉館。藤田別邸で山県有朋の私邸だった文京区の椿山荘、箱根別邸だった箱根小涌園、京都のホテル藤田京都)、それに伝三郎が手掛けた児島湾干拓地岡山市の藤田村、藤田神社というところか。

◆私財を投げ打った難事業、児島湾干拓

明治22年に政府の許可を得て始めた干拓事業。

八郎潟干拓、有明海干拓と並び、日本の3大干拓事業の一つとされる。

伝三郎はここに多額の私財を投げ打っている。

藤田地区がある岡山平野南部一帯は「吉備の穴海」として浅い海が広がっており、岡山県の3大河川(吉井川、旭川、高梁川)が流れ込むため、広大な干潟があり、早くは8~9世紀に干拓事業が始まっており、干拓の歴史は長い。

明治に入ると、廃藩置県により家禄を奉還した旧士族たちの援産事業としての干拓による農地造成が契機となり、岡山県による公共事業が進められた。

干拓事業は大規模なものになるが、県の懐事情は厳しいため岡山県単独では遂行不可能として国に支援を仰ぐが、国も必要となる資金が余りにも多額として難色を示していた。

大規模な事業である。

岩盤が深く、難工事となるのは必至で、採算がとれる当てもないため誰も事業に乗り出そうとしない。

それでも岡山県は業界各界のトップに、また金融界の大物に話を持ち掛けるが誰も名乗りを上げなかった。

相談を受けた藤田も財界の仲間と共同で事業実施の話を向けるが、ことごとく失敗する。

そこで藤田は腹を決めた。

藤田は己が引き受けることに決めた。

しかも単独で。

伝三郎は日本の農業の将来を考えて、採算度外視で、大規模機械化農業の夢を拓かせんがために事業を引き受けた。

とんでもないことを決断したものだ。

さぞや鬼の形相で決めたのか。

そうではないだろう。

淡々として、能面にも似た普段の顔つきで難題に取りくむ決断をしたのだろう。

その辺の苦渋を顔に出す男ではない。

そうした大胆な腹積もりを他人に自慢したりもしない。

そういう男だ、伝三郎は。

◆難工事

地盤が悪く「底なし沼」状態だった干潟の干拓事業だ。

100メートルでも杭が底に届かなかったとされた。

始まったのが明治32(1899)年、全工程が完了したのが昭和38(1963)年。

これは伝三郎が没した明治45年(1912年)の遥か後にあたり、長男の藤田平太郎が藤田家二代目当主となった時で、結果的に完工まで60年を超える事業となった。

しかし、甚だ勿体なきことかな・・・戦後始まった農地改革(昭和21年(1946)~25(1950)年)で藤田組は干拓農地の所有権をすべて失うことになる。

◆金本位制への賛意・・・

己の身が逆境に置かれるも、私心を捨て国家の大計に資する意思を表明したこともあった。

明治22(1889)年当時、貨幣制度を金本位制か、それとも銀本位制かにするかで政府が揺れている時、銀しか採掘できない小坂鉱山を抱えていた伝三郎は銀の価値が下がることを承知で金本位制の採択を主張し、金本位制が決まる。

この結果、銀の価格は急落。

経営していた小坂鉱山は案の定、経営危機に陥る。

困った!

このため井上馨侯の口利きで、毛利家から20万円(当時)を借り受けることになった。

しかもこの時、政府から国防の寄付の依頼を受けた時があった。

何と、伝三郎は願い出られた寄付に応じたのだ。

資金繰りが厳しい時だというのに。

資金の貸し手の毛利家、またその仲介人ともいえる井上馨侯の忠告も腹に収つつ、己の哲学に忠実に、私心なく物事を運ぶ。

なかなかできることではない。

無茶なのか。

いや、やむにやまれぬ思いで寄付に応じた伝三郎。

この豪胆さには脱帽する。

しかも涼しい顔で。

では、藤田伝三郎はどのような幼少期を歩み、事業を展開しながらも、いかに独自の公共心を育み、大阪の商工会議所会頭を務めるまでになったのだろうか。

・・・つづく

(学23期kz)

椿山荘(藤田観光)

コメントを残す