三人の財界巨人 その25 久原房之介⑫

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年10月 トピックス】

◆寄付

事業で成功した久原房之介は、進んで寄付をしている。

寄付先は出身地の須佐や萩を中心とした学校関係が多かったが、これは母に促されてのもののようだ。

また、政治家からも寄付の要請を受け、これに応じている。

久原は同郷の寺内正毅(18代総理、大正5年)、田中義一(26代総理、昭和2年)のほか、日本に亡命していた孫文に対しても資金支援をしている。

孫文が唱えていた大アジア主義、すなわちアジアはひとつになって欧米列強に伍して行くべしとする主張に共鳴し、支援をしたのだ。

政治家への寄付が重なっていけば、おのずと自らも政治の世界との繋がりが深まっていく。

また、誰彼ということなく金を配るということで、右翼や左翼、また情報屋と称される輩も久原邸に出入りしていた。

しかし、政治の世界の近くに身を寄せるようになった房之介自身も、政治に纏わる情報を自ら求め、欲しがるようになっていく。

こうした成り行きで、亀川哲也なる右翼の浪人を匿うことになった。房之介が亀川に資金を与え、それが二二六事件の資金源になったのではないかとの嫌疑が掛けられ、起訴されたこともあった(東京地裁で無罪にはなったが・・・)。

◆政界へ

大正5年、母・文子が逝去する。

母の死去は房之介にとって、事業意欲にかかわるほど大きなものだったという。

さらにその翌年、49歳の時には本人が腸チフスにかかり、20日ほどの隔離生活をしたが、これも事業経営から身を遠ざける一つの転機となったようで、昭和の初めから政治の世界に入っていった。

政治の世界でも、事業の世界と同様、長州閥が助けとなった。

同郷の田中義一と親しかったことから田中内閣で逓信大臣になったのが昭和3(1928)年だ。

田中義一は軍の長州藩の親玉・山縣有朋の腹心であり、明治40(1907)年には、山縣が音頭を取って日ロ戦争後の国防の在り方を決めた「帝国国防方針」で、田中は何と「中佐時代」に陸軍のパーツの執筆を任されるほど、山縣は田中を買っていた。

また、房之介は田中義一の大口寄付者でもあり、こうした長州のつながり・長州人脈から、政治の世界に身を染めていった。

これまでの事業の方はどうしたのか。

事業は妻の兄、すなわち11歳も年下ながら義兄にあたる鮎川義介に委ねることにした。

◆久原がスターリンに語った非武装地帯構想

久原房之介が田中義一内閣で逓信大臣を任されたのが昭和3(1928)年。

その前年の昭和2年、房之介は田中義一総理の依頼を受け、経済使節団団長としてソ連とドイツを訪問している。

そこで、久原はスターリンに会うという離れ業をやった。

スターリンは時すでに大物であった。政界での経歴が浅い房之介がとても会える相手ではない。

しかし、房之介は何としてもスターリンと会い、己が描く地域平和構想をスターリンに説きたかった。

そこでどうしたのか。

スターリンと同郷でスターリンを補佐する立場であったミコヤンを口説き落とし、スターリンとの面会に漕ぎつけることができ、久原はスターリンを前に、持論の「緩衝地帯構想」を説いて見せた。

緩衝地帯構想とは火薬庫のような北東アジアに和平をもたらすことを意図した構想だ。

具体的には朝鮮、満州、シベリア東部を「ひとかたまり」として新たな国(地域)を作り日・中・露の緩衝帯とし、緊張を緩和しようという構想だ。

もちろんこれには日・中・ソ連の間の理解と協力が要る。

房之介は「スターリンもすこぶる興味を持ち、質問してきた」と後日談を述べている。

この件、鮎川義介も日経の「私の履歴書(第24集、1965年)」で、「田中義一が総理のころ、久原はスターリン、張作霖と手を握り合って、スターリンはシベリアを、張は満州を、日本は朝鮮を出し合い、そこに無軍備、無関税の一緩衝国を作りあげ東洋の恒久平和を図るという久原らしい構想を持って帰ってきた」と記している。

・・・しかし、残念ながら、この構想が陽の目を見ることはなかった。

覇権争い、策略、謀略が渦巻く流動的な北東アジアの国際政治の中で、こうした構想は望ましいユートピアではあっても、とても実現に向けた力学が作用する余地は無かったのだろう。

しかし、房之介はこうしたユートピア的な和平理念を温め続けている。

時が経ち、公職追放を経て、その後追放解除後も、日中・日ソ国交回復などに努め、衆議院議員時代だった昭和30(1955)年には日中・日ソ国交回復国民会議の団長として、北京で毛沢東、周恩来と会っている。

この時、毛沢東にも非武装緩衝地帯設立構想を披露し、自説を熱く語ったのではないか。

◆政界では大政翼賛会総務、立憲政友会総裁となり、権謀術数に長け「政界の黒幕、フィクサー」とも呼ばれたこともあった。

萩に生まれ、萩の教育機関を中心に多額の寄付を行った久原房之介。

昭和36(1961)年、萩市名誉市民第1号となった。

(学23期kz)

毛沢東(中央)と周恩来(左端)に囲まれた久原房之介(左から2人目)

One thought on “三人の財界巨人 その25 久原房之介⑫”

コメントを残す