東郷平八郎 ④寡黙な薩摩士官の英国留学

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年4月 トピックス】

◆寡黙の人

東郷平八郎は「寡黙の提督」と呼ばれる。

東郷の生まれは薩摩。

薩摩では「寡黙」が貴ばれる。

青年時代に大久保利通のところに行き「鉄道を勉強したいから外遊させてくれ」と頼んだ。

いつもの大久保の癖で、その時も大久保は即答しなかった。

後日、東郷のもとに自分の噂話が入ってきた。

大久保が東郷を指して「あれは少し喋り過ぎる」と。

寡黙な東郷だったが、これでますます東郷の寡黙に拍車がかかった。

こうしたことでは外遊を果たせないと察した東郷は西郷のもとに行き、外遊させてくれと頼みこんだ。

これが奏功、望み通り外遊を果たす。

ただし、その時、西郷から「鉄道ではなく、海軍を勉強しろ」という注文が付いた。

外遊に望みを叶えてくれた西郷からの注文だ。

東郷は海軍について勉強し、ひたすら海軍の道を歩むことになる。

◆海軍の留学生

明治4年、海軍兵学寮生徒11名、見習士官の東郷ら5名に英米留学の命が下る。

渡航先は英国が12名、米国4名。

東郷は2年の準備期間を経て、明治6年に英国の商船士官の養成学校であるウースター商船学校に入り、運用航海術を学んでいる。

ウースター(Worcester)ソース発祥の地でもある。

英国西部ウースターの主婦が調味料とともに食料を保存したところ、ソースができていたのが始まりだという。

明治時代に海軍大将になった14名のうち、後続の有栖川宮威仁親王を除く13名が薩摩出身だった。

「陸軍は長州、海軍は薩摩」というはずだ。

東郷も薩摩藩の軍艦「春日」では三等砲術士官であり、明治に入った海軍では見習士官の経験があった。

ウースター商船学校の入学試験での東郷の評価はいかに・・・

「Very good for a foreigner」(外国人としては非常に優秀)と。

また、当時の校長は後年、新聞社の取材に「東郷は優秀な人物であった。俊敏ではなかったが、きわめて勤勉であった。学び取ることは遅かったが、一度学び取れば確実であった。」としている。

◆留学先で

留学先では比較的饒舌だったようだが、名前がTOGOだ。

このためクラスメイトからは”TO GO CHINA ”といじられる。

日本が世界にデビューする以前、日本をアジア人は「CHINA」と呼ばれており、日本国の官費留学生たる自負を持っていた東郷に「母国に帰れ!」と。

冗談半分だろうが・・・

しかし、東郷はこれに敏感に反応し、再び寡黙の東郷になったという。

◆外洋航行

明治8年2月には世界一周の航海に出る。英国学校の航海訓練だ。

英国から帆船「ハンプシャー号」に乗ってメルボルンへ。そこで2か月滞在の後、南太平等を横断し、南米チリの南端ホーン岬を回って北上し、テムズ河口に無事帰着している。

こうした世界周航のあと帰国準備をしていると、さらに2年間の英国滞在の辞令が下りた。

今回は明治海軍初の外国発注艦3隻の造船監督官の役割だ。

その任務を終え、明治11年3月に英国を出て、2か月後、横浜に帰ってきた。

こうした外洋での航行訓練も東郷の海軍生活での血肉となった。

◆学んだ国際法

また、留学中に国際法を学んだ。これも、海軍軍人幹部として生きていくうえで、血となり、肉となった。

後の日清戦争時、東郷が護衛巡洋艦「浪速」の艦長当時、英国の商船で清国が借り受け、武器と清国兵を輸送していた「高陞号(こうしょうごう)」に停船命令を出したにも関わらず、これを無視したため同号を撃沈した(高陞号撃沈事件)ことがあった。

船の撃沈も国際法上は問題なしとの知識、胆力があっての勇断だった。

このように、外地・英国で国際法を学び、国際法に習熟していたことも東郷が連合艦隊司令長官に抜擢される要因になったのではないか。

やはり、世界随一に先進国で、七つの海を支配した英国での留学経験がものをいうことになった。

単に「運がいい東郷」ではなかった。

(学23期kz)

若き日の東郷平八郎

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