山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部
【2023年1月トピックス】
◆小塚原回向院
荒川区の南千住の回向院のあたりには、江戸時代に小塚原といわれ処刑場があった。
ここでは杉田玄白や前野良沢が刑死者の腑分けに立ち会い、それをきっかけに解体新書を翻訳したといわれているところだ。
寛文年(1667年)その地に、第3回長州歴史ウォークでも訪ねた本所の回向院が刑死者を供養するため、開設したのが小塚原(南千住)回向院で、その一番奥に安政の大獄で処刑された吉田松陰の墓、右手に橋本左内の墓がある。
◆越前福井の天才
幕末の志士の中では、佐久間象山、村田蔵六(大村益次郎)と並らぶ、学問好きのマルチ系逸材である。
橋本左内は天保5年(1834年)に福井藩士の奥医師の子として生まれる。
14歳で江戸に出て医学を学んだ後、大坂の適塾で西洋医学を修める。蔵六が適塾の塾頭を務めていたが、蔵六が郷里へ帰った後も適塾に長くとどまった。塾の空き時間を利用して自己流で物理や化学の原書を読み、実験も試むなど知的好奇心が旺盛だった。
またこのとき、優れた国家的指導者がリーダーシップをとり、それを雄藩が支えるとする幕政改革を伴う国家の在り方に関する考えを深めつつ、幅広い学問を身に付けていった。
昼間は師の緒方洪庵の代わりに代診として往診もしていたが、夜もこっそりと塾を向け出して貧しい者の病気を診てやり、薬を渡すなど、貧民への情も厚かったという。
また、安政元年(1854年)、二十歳の時に大阪から江戸に出て、杉田玄白の下で、蘭学と医学を学び、この江戸で水戸の藤田東湖や西郷隆盛と出会っている。
何と20代そこそこで福井藩主松平慶永井(春嶽)に認められ、横井小楠、由利公正らと共に開明的学者として側近に取りたてられており、藩医と共に、御書院番、藩校明道館学監(学頭補佐)、藩主・春嶽の相談役も務めた。早熟ぶりが伺い知れ、福井の天才と言われるゆえんだ。
◆将軍後継問題
左内は将軍後継問題で、藩主・春嶽に与する形で一橋慶喜擁立に尽力した。
このため、井伊直弼に目を付けられることとなり、安政の大獄で吉田松陰らとともに散ることになる。
当時、松陰は29歳、左内は25歳。
◆西郷隆盛からの敬意
西郷は世に尊敬すべき人物として一に藤田東湖、二に橋本左内を挙げている。
藤田東湖は徳川斉昭の腹心で水戸学の大家。西郷よりも22歳も年上だ、片や橋本左内は西郷よりも6歳も年下だ。
西郷も6歳下の他藩士・橋本の力量を素直に認め、左内の見解に服するとしたのは大変立派であるが、そうした西郷を感服させるものを有する樫本左内も褒められるべきだろう。
一橋慶喜擁立では、左内と同様、西郷隆盛と慶喜擁立で立場を同じくした。
先が見えすぎる頭脳、頭脳の回転の良さ、英国のアジアや日本への接近への対抗策としてロシアとの関係を考慮すべきとするなど、外国との在り方を考察した逸材だ。
ホッとする話をひとつ。
左内は猫の物まねがうまかったという。
同時に人の物まねをよくしたという。得意だったのは「西郷どん」だったらしい。
(学23期kz)
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