昭和55年夏 山本ゼミ見島旅行記 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 4月トピックス】  

◆萩市見島は、人口約3,000人 日本海上にあり、山口県最北端に位置し、萩港と見島の本村港・宇津港との間に萩海運による定期航路が春夏は1日3往復、秋冬は1日2往復運航されている。  

◆昭和55年8月8日

われわれ一行15名を乗せた船は、萩港から見島へと向かいました。大島 を過ぎるとやはりしけていました。だんだんと船酔いし始めました。そして地獄へと落ちていき ました。船酔いの辛さを知りました。私とM君とK君の醜態は衆目の知るところです。

早く陸地が見えないか3人は祈りました。走馬灯のようにいろんなことが繰り返しました。

出航して2時間後 やっと陸地(絶海の孤島)が見えました。あのときほど陸地がありがたいと思ったことはありませんでした。船は本村港に着き、それから宿のある宇津港へと向かいました。みんながヘロヘロでダウンしているのに山本先生はビールをH君は煙草をうまそうにのんでいました。

宇津港に着くと大地を踏みしめて一同すぐに北国屋旅館へと向かいました。もう夕暮れに近かった。風呂に入ったあとみんな元気になりすぐに食事をとりました。ここの食事は抜群にうまかったです。そして船酔いの後のビールもおいしかった。勿論おかずは海の幸ばかりであるが、新鮮で量も一杯。

食事後 夜釣りに行く者、花火も楽しむもの、疲れて横になるもの様々であった。


◆2日目、8月9日

山本先生のご子息が体調を崩されたため、朝一番の船で先生が連れて帰られました。

朝食を済ませると、瀧口先生の子供たちに連れられ海水浴に出かけました。空はどんより曇っていました。養殖の囲いまで何度も泳ぎました。また何人かは投げ釣り楽しんでいました。

浜辺を歩いていますと瀧口先生のお子さんが全長50センチくらいのカニを見つけたため、T君と筆者は苦闘の末 捕獲しました。そのカニはその晩の食卓に並べられました。

浜辺から帰るともう昼近かった。ビールを飲みながらウニ飯を食べました。美味でした。

食事が終わると「亡国の遊戯」が始まりました。ひとり人数が余ったので、筆者とY君が交代で打ちました。初め筆者が半チャンをしてY君と代わった。筆者は、高校野球を見ながら、転寝をしていた。

目が覚めるとみんな釣りに出掛けようとしていた。みんなで波止場付近に出掛けた。小さな魚が一杯釣れました。島育ちのH君は釣り竿なし餌なしで釣っていました。釣りから帰ると夕食の準備ができていました。

入浴して食事をとりました。昨晩と変わらず閉口するほど海の幸がいっぱい出ました。食事がすむとカラオケ大会そしてプロレス大会へと移りました。カラオケとプロレスの詳細はここでは割愛いたします。


◆3日目、8月10日 その日のうち帰省する組とそうでない組に分かれて萩港に向かいました。筆者は帰省組で朝一番の船でした。行きで懲りたため船では静かに寝ていました。

萩港に着いたまではよかったのですが、誰かが半ドアにしていたため車のバッテリーがあがっていた。そこで港にいた人のお世話になってしまった。山口に着くと先生の家に報告に行き、それからその日のうちに帰省しました。

天候には恵まれず、まさしく波乱に富んだ楽しい旅でした。ここでこの旅行でお世話になり、尽力を惜しまなかった山本先生、瀧口先生、ゼミ幹事のK君に感謝しなければならない。

以上 (大学29期 吉田)

見島(萩市) 山口県ホームページから

会社忠誠心の低下 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 4月トピックス】

◇日本人の愛社意識の変化

今年の春に卒業した鳳陽会社会人一年生諸君。社会人への一歩を歩み始めた。親御さんも一安心されたことだろう。

せっかく入社できたが、およそ3年で会社を辞める若者が3割程度いるという話もある。

その昔、日本企業には愛社精神に溢れ、家族を犠牲にしてまで激務をこなし、退職まで会社に忠誠を尽くした“企業戦士”が、数多(あまた)いたと語られるが、今どきの若手会社員は、人種が変わったかのように会社への愛着心、忠誠心が低下したというデータもある。

若者は急速に会社への忠誠心を失くしてしまったのだろうか。

 ◇ショッキングな国際比較調査結果

「従業員エンゲージメント」という従業員の意識調査がある。「従業員満足度」に代わり、会社への関与度合い・愛着心を測る経営指標の一つだが、この値を国際比較したショッキングな調査結果がある。

多少古いデータになるが、世界的な世論調査会社、米・ギャラップ社が2011年から12年にかけて142か国、20万人を対象に行った調査では、「会社にエンゲージしている」と答えた日本人は先進国中最も低い7%(百分比。米:30%、豪:24%)という結果が示された。

その後、他の調査会社による調査結果も立て続けに発表されたが、そのどれも日本の値は先進国・途上国に比べて最も低い値を示していることで一致している。この時の報道ぶりは「世界で際立つ日本人の会社への忠誠心の低さ」というものであった。

さらにショッキングな結果が出たのはエーオン・ヒューイット社が2014年のアジア太平洋地域を対象とした調査だ。

ここで日本は「Actively Disengaged」、すなわち「会社への嫌悪・反感」を示す度合いが33%(百分比。調査対象国平均:17%)と調査対象国の中で、突出して高い値を示したのだ。

◇大雪の中でのマンハッタン勤務

海外では悪天候の中、出社するのは日本人駐在員が多いという。何も海外で特徴的にみられる話ばかりではない。かつて東京ではよく見られた光景だ。

この理由として、日本人サラリーマン特有の、以下のような“信仰”があったように思える。

  • いかなる時でも休まないのが「真面目さ」の証
  • 毎日会社に長時間滞在すること自体が「熱心さ」の証
  • 災害時にこそ出社するのが「会社忠誠心」の証

すなわち、こうした日本人サラリーマンに特有の行動は、日本人の会社員が人事当局に「証として、人事評価されるはずだ」との“信仰”があるからではないだろうか。

しかし、悲しいかな、日本では欧米に比べ、客観的で洗練された人事評価基準は確立されているとは言えない。こうしたことも、“信仰”が消えない原因になっているのではないか。

もっとも最近のコロナ禍の後では、こうした“信仰”から解放され始めたのは喜ばしいことだ。

「形として仕事をしている姿」を過度に評価する人事考課、客観性を欠く恣意的な人事考課、これこそ日本の生産性が上がらなかった要因だったのかもしれない。

(学23期kz)

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連合艦隊司令長官 山本五十六(過去日記から)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 4月トピックス】  

2013-10-27mixi日記投稿分より引用
◆先日、広島の友人から久しぶりにメールが入って、ご先祖様に申し訳ないという。
毎日、パチンコばかりして怠惰な生活で、ご先祖様に申し訳ないと。(笑)
聞くとご先祖とは何と山本五十六というので驚いた。
何でも、山本五十六の奥様の一番下の妹が友人のお婆さんに当たるという。
ということでお母さんは毎年、東京での山本五十六を偲ぶ会を楽しみにして出席しているという。

◆20年前にひと回り離れた友人の披露宴にも出席しましたが、一切、山本五十六の話は紹介されませんでした。
ということで、私は戦争映画には興味はありませんでしたが、「連合艦隊司令長官 山本五十六」という1968年度の東宝作品のDVDを購入し昨日、見ました。

◆山本五十六が日米開戦には反対で実は米国との講和条約を望んでいたのには驚きました。
もっと早く山本五十六のことを知っていれば、戦争映画や書物にも嵌ったかもしれませんが。
(次回に続く)
(学22期 Y・Y)

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松陰神社再訪

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 4月トピックス】  

昨日(令和6年4月3日)、松陰神社(世田谷区若林)を37年振りに訪問した。

境内には桜が・・・

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」

辞世の句 を残し、松陰先生は安政の大獄に連座し、伝馬町の獄中で生涯を終えられた。

江戸の松陰神社の由来は、高杉晋作、伊藤博文の尽力により小塚原から世田谷若林(毛利家 火除地)に改葬され、明治15年に松陰神社として創建された。

29期 KY

昭和55年夏 山本ゼミ見島旅行記 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 3月トピックス】

◆37年前の昭和62年7月24日 山口大学経済学部教授山本英太郎先生は闘病の末、永眠されました。享年55歳でした。私が最後に会ったのが昭和56年3月25日、山口大学医学部病院でした。

◆その日は山口大学卒業式の日で、終了後宇部に向かいました。病室で、ゼミ生で22歳の別れを歌ったことを思い出します。

先生は黙って聞いていました。それから病室を後にし、各自就職先に旅立ちました。

後日、先生はその時聞いてこれほど辛いものはなかったと述べられた、と聞きました。

◆山本ゼミ11回生は、小旅行2回、昭和54年と昭和55年、卒業旅行を昭和56年に実施しました。

今回は昭和55年夏の見島旅行記 その1を記します。

◆昭和55年夏は、雨の日が多く寒い日が多かった。小旅行は何度か延期された後、8月8日から10日の二泊三日で決行された。8日の朝、山本先生親子、瀧口先生のご家族とわれわれ山本ゼミ生は県立図書館前に集合し、一路萩港へと向かった。海はしけているそうである。出航前M君と私は港近くの喫茶店でカレーを食べて腹ごしらえをした。これが悲劇の素であった。忘れもしない定期船(たちばな丸)に乗り込むと、船旅の苦しさを知らないわれわれは、浅はかにもビールで乾杯した。

出航後は その2 で記します。

以上 大学29期 吉田

2023年度 山大卒業式の模様

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 3月トピックス】

(卒業式参列者による式の紹介をもとに)

●3/22金曜日午前、維新大晃アリーナで大学院修了式と学部生の卒業式を挙行。

●卒業生は大学院生が約500名、学部生が約1800名。

今年の卒業式は4年ぶりに親の同席が認められた。総合大学だけあって大規模な式となり、盛会となった。

●卒業生のうち、女性は3割。成績優秀者として表彰されたのはほとんどが女性。

●経済学部の卒業式は午後から吉田キャンパスで開催。
キャンパス内では卒業生が親御さんと並んで歩いている光景が多々見られた。
親御さん達は安堵されたのか、笑顔、笑顔。

●経済学部の卒業生は総勢317名。
【学科別の内訳】( )内は女性

経済学科   109(21)名
経営学科   172(76)名
観光政策学科  36(16)名

男女別内訳をみると、1/3が女性。特に、経営学科と観光政策学科はいずれも約44%が女性。

このほか外国人留学生の卒業生は2名。

●大学院経済学研究科

経済学専攻7名、企業経営専攻5名の計12名。うち11名が外国人留学生。

●有村経済学部長からは全国に2万人の会員を持つ鳳陽会の存在をアピールして頂いた。

●歌の斉唱は「花なき山・・・」ではなく、山口大学学生歌であった。

連なる周防の山高く、いま暁の雲を呼ぶ 

希望は高くはつらつと・・・

世代の覇者の歌声は 世紀の空にたからかに・・・ああ山大・・・

(鳳陽会東京支部事務局 記)

山口大学ホームページから

山大正門前にて(3月22日・金曜日)
山口大学ホームページから
山口大学ホームページから

④中也

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 3月トピックス】

◆大岡昇平

中也と同様、フランス文学に造詣が深いのは中也より2歳年下の大岡昇平もそのひとり。

大岡昇平はフランス語の個人指導を受けていた当時東大生の小林秀雄を通じて中原中也を知る。

二人は知り合った日からお互いの部屋に泊まり合い、三日三晩語り続け、急速に仲を深めていったという。

◆しかし中也は大岡昇平との間でも無神経な一言で、もめ事を起こした。大岡はこれを機に中原から離れていく。

もともと、大岡が真面目で生活の安定を求めるサラリーマンタイプの文士とすると、中也はまる反対。寂しがりやで悲観的、破滅や天才肌という言葉が似合う激情型の文人だ。

中也としては大岡にずっと自分の方を向いていてほしかったのだろうが、大岡としてはそれがきつくなっていったのだろう。

中也が大岡に「自分と同じように不幸になれ。そうすれば・・・」

これに大岡は反発し、中也から離れていくようになった。

◆それでも、大岡の身体には「中原中也」が深く身体に沁み込んでいたようだ。

中也の死に際に、病院で意識混濁した中也と再会したた。中也は昭和12年(1937年)に30歳で逝去する。

それから6年、大岡は戦争が本格化する昭和18年(1943年)に戦線へ駆り出された時、中也の遺した詩集が心に沁みるようになったと告白している。終戦後は仕事に就いたが、転勤する際に持っていったのはスタンダールと中也の詩集だけだったという。

つづく

(学23期kz)

湯田の井上公園にある中原中也詩碑【山口市提供】 
小林秀雄の書で「帰郷」の詩が刻まれている。碑文は大岡昇平が記している。
18期 田口浩一氏の作品
大岡昇平 20歳の頃
中原中也記念館で
中原中也記念館で

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坊主憎けりゃ袈裟まで憎い(過去の日記から)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 3月トピックス】  


2014-8-10mixi日記投稿分より引用

◆実は小学校の新学期が始まった4月7日から、マンション管理人をやっています。
大病の後だけに、どうせ受からないだろうと思い、トレーニングのつもりで面接に行ったら、即、来て下さいと。
築14年のマンションで世帯数も47世帯と中規模のマンションで病後の私には体力面でも丁度、良かった。
マンションが出来た当初から、ずっと同じ管理会社で、面接した上司は「健康であれば、定年の70歳を過ぎても働けますよ。」と。

◆管理会社は中小ではあるが、勤務先のマンションは静かで、居心地がいいところで働けると喜んでいました。
ところが、上司にあたるフロントマンのその後の対応が、全く良くない。
気がついたことや、問題になりそうなことを日々、Eメールで報告しても、殆ど返事や回答が来なくて懸案事項が前に進まない。
殆どが積み残しで、ザル状態。
これでは管理以前の問題だと社長に直訴して辞めることも一時は考えました。

◆2ヶ月経った頃、マンションの管理会社を変える秘密文書を不要チラシを捨てるゴミ箱から偶然、発見。
まるで松本清張の世界です。
理事長を初めとする理事会が、会社やフロントマンの対応の悪さに、怒り心頭し、遂に行動に移したようです。
会社には連絡せずに静観していました。
比較的親しいマンションの居住者に聞くと、東日本大震災後から、水面下で管理会社を変える動きがあったようです。

◆そして、次期管理候補会社がプレゼンの後に5社から1社に絞られ、今日が居住者に対する説明会、24日が総会で決定し、9月から、新管理会社となります。
多少は管理会社同士の引き継ぎでズレ込むことも考えられますが、管理会社が変われば、私や清掃人は職場を失い退場となります。
水曜日にフロントマンが来て、ようやく事情の説明があり、「Yさんについては、次の職場もありません。」と言い渡されました。

◆理事長を初めとする理事会が新管理会社に管理人を推薦するケースもままあるようですが、そんな気配もなく、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、一蓮托生の動きのようです。
ということで、早晩、再就職活動です。
この年齢で履歴書を書いて、面接に出掛けるのもエネルギーが要ります。
将来、これまでのマンション管理の経験を題材にした小説を書きたいと思っていますが、又、材料が増えました。(笑)
マイミクの皆さんも一冊買っていただけますか?
(学22期 Y・Y)

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現役・経済学部生からの投稿

経済学部3年 村田照真君寄稿

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 3月トピックス】

◆みなさま大変お世話になっております。山口大学経済学部3年の村田照真と申します。

3月17日に「チャレンジ!!オープンガバナンス2023」という、学生や市民のチームが各地方自治体と密な提携を行いつつ、共同でアイデアを創出するプレゼンテーション大会の最終公開審査イベントが東京大学で開催され、経済学部3年の下川拓斗と村田照真が所属する学生団体Ube col.(ウベカレ)が出場いたしました。

鳳陽会の皆様から多大なご協力とご助力賜り、誠にありがとうございました。以下、結果をご報告いたします。

学生団体Ube col.は、2つの賞を受賞することができました。
●LINEヤフー賞
●ファイナリスト視聴者オンライン投票銅賞


◆2023年度は計46の学生・市民チームと各自治体がタッグを組んで出場し、そのうち最終公開審査に12チームが選ばれました。社会人のチームも参加する中、学生として2つの賞を受賞できたことは、とても嬉しく、大きな自信となりました。COGを通じて生み出されたアイデアを、引き続き行政や民間企業、大学等教育機関と連携しつつ、実現に向けて邁進してまいります。

経済学部のHPにも同様の報告を掲載していただいております。

◆次回は、私たち学生団体Ube col.が、また現役の大学生が、今どのような活動をしているのかをお伝えできればと思います。

引き続きどうぞ宜しくお願いいたします。

山口大学経済学部3年

村田照真

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③中也

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 3月トピックス】

③中也

中也が長男・文也の四十九日の頃に「文也の一生」なる文を書くが、その筆で「冬の長門峡を書いている。」

「冬の長門峡」

長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

水は、恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。

やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干(らんかん)にこぼれたり。

ああ! ――そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。

この詩碑は長門峡の入り口に建っている。

大きな御猪口の上にミカンが乗せられており、そこに詩句が

刻まれている。

◆文人仲間もずいぶん東京から鎌倉に見舞いに通ったようだ。

いよいよ中也臨終のとき、中原家長男中也が枕元にいた四男・思郎に呟いた言葉がある。

「僕は本当は孝行者だったんですよ・・・今に分かる時がきますよ・・・・・本当は孝行者だったんですよ」

東京支部Sさんが投稿してくれたとおりだ。

中也は心身を休めるためにふるさと山口への移住を考えていたようだが、願いが叶うことはなかった。

ハチャメチャもどきの荒れた生活をしていたが、面倒を掛け続けた母に対して、褒めてもらいたい一心で藻掻いていたのかも知れない。

つづく

(学23期kz)

18期 田口浩一氏の作品
中原中也記念館

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