「44年目のミシン」とアルバイト代 当世アルバイト事情は如何に?

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

<岡山支部・岡山Bさんからの投稿>

◆実姉から実姉から44年間使ったミシンが壊れたので、修理に出し、治ってきて、また使えると連絡があった。このミシンは姉の結婚祝いに学生の身分であった自分が贈ったものだ。

今は昔で、ネットで検索すると当時の定価では208000円とくる!(商品の謳い文句も”コンピューターミシン”とくる(笑))勿論就職もしていなかった当時の収入源はアルバイト代であろう。

◆昔の記憶と時系列的に少し最低賃金(最賃)の統計を拾ってみるとその価値がわかる。

中国地区の平均的な最賃でざっくりした時給の金額でとらえると、80年代初頭は380円、500円台になったのはバブルの頃の90年になってくる。今の時給が1000円に届こうとする時代とは隔世の感がある。

微かな記憶では80年代初頭のほとんどのアルバイトの時給は400円が相場であったような記憶がある。ホテルの皿洗い、布団敷・片付け、調理場板場の盛り付け、放送局の取材助手、夏のビアホールの配膳係、引っ越し応援(県庁新庁舎へ)。。。

◆当時別格の高給取りは「家庭教師」という部類があった。当時から学部指定で家庭教師を求人される親御さんが多く、中でも医学部生は別格として、教育学部、文理学部以外の他の学部でその職種にありつけることは稀有であったような記憶もある。(80年代)

たまたま出会った家庭教師のバイトは月15000円(月8回*1時間)!ざっくり時給換算すると1875円。破格である!その上、バイト終了後はおコーヒーかお紅茶にケーキ付と言うちょっとした喫茶店?であった。

そのバイトは10カ月ほどの期間であったが、高校入試合格に向けての依頼であったので、その目標貫徹に力を注ぎ、そして成果は出た。

◆今にして思えば、その「家庭教師」のバイト料から基礎財源を作った上に、長期の休み期間にバイトしたものをプールして、姉への結婚祝いを準備したのであろう。

44年経過しても修理できる業者、また使えるミシンにも感謝、そして、全国転勤族の妻であった姉が何よりそのミシンを捨てずに大切に使い続けていたことに感謝!

◆今のミシンの価格は、自転車のそれと同じように同等機能のもので、4万円以下で購入することが出来る。(技術革新やらグローバル競争の中での価格破壊か)

きっと今回は修理する方が新規に購入するより経費が掛かったことも予想される。(しかし、尋ねたりするのは野暮だから上記の三つに感謝するだけに留めよう)

◆値段の付けられないものに「思い出」と言うものがある。職務経験から輸送事故の補償では、壊れたもので代替えできるものは、対応は容易だが、思い出のアルバムの紛失、棄損と言った部類の「思い出」への対応は特に難しいと聞いたことがある。このミシンの修理は姉の中では「思い出」への出費なのかもしれない。

耐用年数から言ったら、既に備忘価格に過ぎない価値の”44年目のミシン”、されど他にはない”44年目のミシン”である。

蛇足)昨今賃上げ、初任給の大幅な上昇が話題になることがある。上記比較と同じように同じ時系列で、大卒初任給をざっくりとした金額で拾ってみておこう。

80年115,000円85年140,000円90年170,000円、93年には19万円に乗り、2008年には20万円台に乗る。今春の初任給平均は239,000円とも聞く。

先進国労働者の国際賃金比較をすると決して上位に位置する地位にはない日本ではある。

宇澤弘文先生には社会的費用が大きくかかっていると叱責されるのを覚悟して記載すれば、74年には78,700円が75年には89,300円と言った賃金上昇も経験した日本経済であった。

(岡山 B)

夢 無かりせば・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

吉田松陰が遺した箴言をひとつ。

夢無き者に 理想なし
理想無き者に 計画なし
計画無き者に 実行なし
実行無き者に 成功なし
故に

夢無き者に 成功なし

夢を持ってコツコツ努力する者は強い。

志を持つ者、夢に向かって気持ちを研ぎ進める者は、とにかく強い。

まるで、気に漂うさまざまな力(パワー)を取り込んだのではないかと思えるように。

知らず知らずのうちに願いが叶うことはよくあること。

岩を穿つ水滴のように。

冬場の陽光さえも虫眼鏡で光線を束ねれば、紙をも焦がす。


松陰の有名な辞世の句
「身はたとひ…留め置かまし大和魂」

この句同様、松陰に触れた者には、親しみのあるのがこの箴言だ。

(学23期kz)

山大生なら何でもできる

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

投稿者:学64期 窪井耕

はじめまして、窪井耕といいます。2016年、山口大学を卒業し、新卒でテレビ山口株式会社に入社し、2023年に株式会社ctowを創業。現在、TikTokを活用して全国の社長を紹介するメディア「社長の名は」を運営しています。

今回は、在学中の皆さんへ伝えたいことは以下です。

「学歴は、たぶん関係ない」

東京で出会った数々の社長が、そう気が気付かせてくれました。

私は生まれてから28年間、山口県以外で暮らしたことがありませんでした。そんな私が上京を決意したきっかけは、東京の起業家との出会いでした。

「お前、面白いことしてるな。明日、東京に来いよ!」

突然そんな一言をもらい、次の日、山口宇部空港から羽田空港へ向かいました。2016年に山口大学を卒業後、テレビ山口株式会社の営業部で6年間勤務していました。その頃、テレビが若者に与える影響力の低下を目の当たりにし、「自分で若者に届くメディアをつくりたい」と決意して退職。趣味で始めたTikTokでは10万人のフォロワーを獲得しましたが、当時は全く稼げませんでした。

そんな時、オンライン仕事マッチングサービスで出会ったのが、冒頭の起業家です。この出会いが私の人生を大きく変えました。

現在の主軸事業である、TikTokを活用した全国の社長を紹介するメディア「社長の名は」を立ち上げ、これまでに年商数億〜300億円規模の企業から、社員数名の会社まで、全国で100人以上の社長を取材させていただきました。

社長たちに学んだことインタビューでは毎回、次の2つを必ず聞きます。

「これまでの人生で最も大変だったことは何ですか?」
「どん底からどのように這い上がりましたか?」

社長たちが語る「最も大変だったこと」は、100人いれば100通りでした。100億円の負債を完済した社長、社員全員が辞め会社が回らなくなった社長、精神的に疲弊し売上が激減した社長。それぞれが異なる困難を乗り越えています。

しかし、どの社長も共通していたのは、「自分を信じたこと」です。

「できる」「なんとかなる」という根拠のない自信。

それが、彼らを次のステージへと押し上げたと感じます。高い壁を乗り越えるには、まず「超えられる」と信じることが大切だと気付かされました。「超えられない」と思えば、その瞬間に挑戦は終わる。

そんな私も、入社した東京の会社が半年で解散。明日から給料がない状況になりました。一瞬どうしよう?と考えましたが、社長達の話があったので、「まあ、大丈夫か」と気が楽になりました。そして、起業を決意。現在、日本最大級のTikTok社長メディアに成長しています。

「山大だから大企業に入社できない」
「山大だから年収1000万円超えられない」
「山大だから夢が見られない」

私が在学中、同級生はそんなことをよく言っていました。しかし、そう思うことが、自分の可能性を閉じてしまいます。私がこれまでの31年間で感じたのは、大学名で不利になったことは一度もないということです。特に東京では、どの大学を卒業したかよりも、「今、目の前の仕事にどう向き合い、どれだけ本気で生きているか」が問われてきました。

また、地方出身者だからこそできること。私は今、地方で生まれ育った経験を武器に働いています。山口県の風土や経済動向を理解しているからこそ、東京で得た視点と組み合わせて新しい価値を生み出せると信じています。地方で育ったこと、それ自体を強みにしようとしています。

「山大だからできた」と言える経験を、皆さんも積み重ねてください。どんな人も、必ず光るものを持っています。

「学歴は、たぶん関係ない」

自分の心に従い、ワクワクする道こそが答えだと信じたい。これから私も、年商100億、1,000億を目指し、山大生が自慢できる会社になるべく、挑戦を続けていきます。会社の規模も人間的にもまだまだですが、毎日一歩づつ成長していきます。

いつか皆さんとお話できると嬉しいです。
ありがとうございました。

(学64期 窪井耕)

会社のメンバー(山口出身)、筆者は中央。
取材でミャンマーへ

分断から歓喜へ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】



毎年恒例の師走のイベント
ベートーヴェンの第九コンサートに出かけた。 今年は第九が初めて演奏されてから200年目の節目の年らしい。
東京フィルハーモニーの総監督となった佐渡裕さんがタクトとを振る。

 佐渡裕さんは小澤征爾氏に師事し、一万人の第九や、コンサートの前には自ら楽器を弾いたり、演奏曲目の歴史や背景を分かりやすく説明するなど、大柄な体格も含め、これまでの指揮者のイメージを大きく変えた1人だと思う。
 今宵の演奏は、クリスマスイルミネーションが美しい東京オペラシテイ。
 第九に相応しいコンサートホール。

 万雷の拍手の中、登場した佐渡裕氏は

「ベートーヴェンの第九の第一楽章は、音符(レとラの様に音が離れている)と音程が分断されています。分断された音符で作られたメロディーは音が暴れたり怒っている様です。
一方で、第四楽章のメロディーは、音と音が隣り合わせで、まさに手を取り合って音を繋げていくという旋律です。
 そしてみなさんお待ちかねの、歓喜の歌は、手を取り合うだけでなく、喜びを分かち合い、そして抱き合ってお互いを讃えよう!
 という歌詞でクライマックスを迎えるのです。」

と爽やか口調で解説してくれた。

世の中は、まさに分断の連鎖。

ウクライナ,イスラエルの紛争などだけでなく、身近な私の職場でも、利己主義が台頭し、攻撃的な文書(テキスト)で個人の怒りを、ためらいや 恥じらいもなく周りに拡散させている人が目立ちます。(若者ではなく40代,50代)

 コロナ禍で定着したリモートワークは、隣に座る人の手を取ったり、抱き合って(これはセクハラ?笑)喜びを分かち合うことを人々に忘れさせている様に感じます。
 素晴らしい演奏でアンコールの万雷の拍手が鳴り止まない中、来年は(組織)の分断を,歓喜に変えるぞ!と思いを新たにした、師走の日曜日でした。 

良いお年をお迎えください。

 学37期 上野啓


 写真はオペラシテイに飾られた 假屋崎省吾さんの作品です。

鷗外、そして漱石 その4

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

◆漱石と松山、漱石と熊本

漱石は28の時に松山中学(松山東高の前身)へ赴任し、1年間松山で生活し、貴族院書記官長の娘・中根鏡子と見合い・婚約。

翌年、熊本の第五高等学校に赴任、鏡子と結婚し、結婚の翌月には教授となり、4年間熊本で過ごす。

熊本から3年間英国留学へ飛び立つ。

◆松山で見る坊ちゃん

松山で1年、熊本で4年。

1年しか居なかった松山では、いろいろなところに「坊ちゃん」の名がついている。

地元松山の坊ちゃん熱は熱い。

坊ちゃん団子

坊っちゃん饅頭

坊ちゃん列車

坊ちゃんスタジアム

坊ちゃん劇場

坊ちゃん湯

坊ちゃん食堂

居酒屋・坊ちゃん

カラオケ喫茶・坊ちゃん

など。

松山で「坊ちゃんの」冠がつかないのは、例えば・・・会員制高級クラブや高級ホテルくらいかもしれない。

それに比べて、4年間も生活した熊本はどうだ。

東京人の漱石が、結婚し、子供も生まれ、草枕を描く旅にも出、ロンドン行きのきっかけをつかんだのが熊本だ。

漱石ゆかりの銘菓などはなかなか出てこない。

小説・三四郎の主人公も熊本から東京に上った青年ではないか。

それなのにこの始末だ。

熊本県民はよそ者が嫌いなのか、あるいはインテリが嫌いなのか。

勝海舟が西郷隆盛と共に恐れた逸材・横井小南にしても、肥後・熊本ではまるで人気がなかった。

熊本県人は、神経質で、優れたインテリを敬遠する傾向があるようだ。

しかし、熊本での偉人ランキング(本年9/24付け、民放テレビ)は

1加藤清正

2北里柴三郎

3天草四郎

4八代亜紀

5夏目漱石

となっており、八代亜紀の次、なんとか5位に漱石が登場している。しかし、影が薄い。

漱石は熊本で6度転居したことから、地域住民とうまくいかず、居心地が良くなかったのかもしれない。

追記

我がふるさとで、老楽男女とも、すごい人気を誇ったのは熊本弁丸出しの破天荒なコメディアンだった。

【参考】

偉人ランキング

愛媛

1正岡子規

2夏目漱石

3秋山好古

4秋山真之

5大江健三郎

山口

1伊藤博文

2吉田松陰

3高杉晋作

4安倍晋三

5金子みすゞ

東京

1勝海舟

2夏目漱石

3芥川龍之介

4徳川慶喜

5吉田茂

大阪

1豊臣秀吉

2千利休

3福沢諭吉

4与謝野晶子

5松下幸之助

兵庫

1平清盛

2黒田官兵衛

3手塚治虫

4伊藤博文

5楠木正成

福岡

1黒田官兵衛

2黒田長政

3松田聖子

4松本清張

5菅原の道真

広島

1毛利元就

2池田勇人

3宮澤喜一

4小早川隆景

5岸田文雄

岡山

1犬養毅

2雪舟

3宮本武蔵

4竹久夢二

5橋本龍太郎

島根

1竹下昇

2錦織圭

3森鴎外

4小泉八雲

5若槻礼次郎

(学23期kz)

松山市内を走る「坊ちゃん列車」

徳山ワルツ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】


(学22期Y・Y)
◆1969年1月にコロムビアレコードから発売された山口県徳山市(現:周南市)のご当地ソングです。
作詞:三浦康照、作曲:山本丈晴
歌手は美鈴愛子です。
作曲があの山本丈晴さんとは…。
奥さまは女優の山本富士子さんで第一回ミス日本に輝いた人です。(1950年度)

◆私がこの曲があると初めて知り、聴いたのは20代後半だったと記憶しています。
その後はカラオケで検索しても無かったと記憶しています。
最近、YouTubeでも「徳山ワルツ」で検索すると聴ける便利な時代となりました。
広島県民だったのに最近、山口県民に傾斜しています。(笑)

◆学生時代後半に知り合った女性に徳山出身の人がいました。
卒業後、萩の街を自転車で回ったり、広島の平和記念公園で会いました。
今でも時々どうしているのかなと思うことがあります。
音痴な私はカラオケが大の苦手ですが、この曲は好きで歌います。

徳山ワルツの歌詞

霧がこんなに深いのに
あなたの来るのがわかるのよ
男ごころに泣かされながら
やっと見つけた恋だから
徳山は徳山は
愛する人のいる街よ…

夢じゃないかと眼を閉じて
あなたをもういちど見た私
けむる小雨の回天基地に
炎える女のしあわせは
徳山は徳山は
愛する人のいる街よ…

コンビナートの火のように
あなたは私を燃やしたの
みゆき通りも港の夜も
忘れられない思い出ね
徳山は徳山は
愛する人のいる街よ…

追記)
写真3枚目は第2回長州歴史ウォークで「遊就館」見学の際の人間魚雷「回天」の展示

(学22期Y・Y)


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金子みすゞ 見えないもの

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 12月トピックス】 

金子みすゞの詩をひとつ

「星とたんぽぽ」

青いお空のそこふかく、

海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきにだァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

◆慈愛の眼差し

すべてのひと、すべてのもの。

すべてがかけがえのない存在。

見えない存在、隠れた存在にも、眼差しを向ける。

慈悲深いまなざし。

見えないものの中にも大切なものがあり、

真実がある。

サン・テグジュぺリも言う。「大切なものは、目に見えない」

本当に大切なものは・・・隠れて見えない。

・・・若い時には解らなかった。

金子みすゞが詩を書き始めたのが20歳の時。

26で亡くなるが、彼女には解っていたのだ。

(学23期kz)

そうだったのか、上野戦争 ⑤戦い済んで・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

戦い済んだ上野の山。

そこには両軍の戦死者が横たわっていたが、新政府軍の戦死者は早いところ回収され弔われたが、彰義隊の犠牲者は放置されたままだ。

逆賊となってしまった彰義隊。

この遺体をどうするのか。

◆仏麿和尚

箕輪の円通寺、23世住職。信濃の出で普段は学問への造詣が深く、説法も上手な仏麿和尚。

しかし普段は朝から酒ばかり飲んでいて法衣も継ぎはぎだらけ、

寺の畳も破れるに任せていたが、それを恥じる様子はない和尚。

その和尚が上野戦争の直後、上野の山に登る。

そこには、放置された彰義隊の遺体、200体余りが放置されていた。

彰義隊は新政府にとって「国賊」となり、弔うことは新政府への反抗と受け取られかねない。

しかし、このまま放置しておくことはできない。

そこに彰義隊を支援してきた錺職問屋・三河屋幸三郎が通りかかり、仏麿和尚と三河屋は相談の上、新政府に遺体の弔いを願い出る。

案の定、和尚は新政府に捕縛される。

それでも10日後には釈放され埋葬許可が下りた。

火葬を終えた遺骨は和尚の円通寺へ運ばれた。

こうして円通寺は明治の初期において「賊軍」徳川家の出身者の供養を行える唯一の寺となった。

◆三河屋の後日談

三河屋幸三郎は慕うことになった仏磨和尚に30両を差し出す。

和尚は瞬く間に30両を酒に使ったという。

次の30両も酒に消えた。

その次の30両も。

都合、90両を飲み干したと。

このため三河屋は立腹し、和尚との交際を断った。

・・・

仏磨和尚は新政府の手前もあったのか、飲んだと見せかけて、90両を旧幕臣をはじめ生活に困窮した者に分け与えていたという。

その話がどこからか聞こえてきた三河屋は真の事情を知って、仏磨和尚の円通寺の檀家になったという。

仏磨和尚、明治45年に66歳で没する。

南無阿弥陀仏。

◆黒門の移築

彰義隊の守りのシンボル黒門は明治40年に円通寺に移築された。

しかし国によって史跡とは認められず、保全資金もないまま放置されていた。

現在のように寺の正面に、全面的に補修・再建されたのは昭和60年である。

◆円通寺訪問

南千住駅を降りてすぐに吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎の墓が置かれている小塚原回向院があるが、円通寺はここから近い。

曹洞宗の寺で、征夷大将軍・坂上田村麻呂の開創といわれている。

上野戦争(慶応4年5月15日)での彰義隊の遺体266体を上野で火葬し、円通寺で収骨した太政官の許可状に「懇に供養すべし」とあったことから、正面切って「賊軍」となった彰義隊犠牲者の法要のできる、当時唯一の寺院であり、その縁で帝室博物館に展示されていた旧上野黒門が明治40年、円通寺に下賜されている。

黒門のすぐ裏手には彰義隊関係者、旧幕臣など戊辰戦争の関係者の墓や慰霊塔が集められ、柵に囲まれた一角がある。

円通寺には、彰義隊関係者、榎本武揚、永井尚志、大鳥圭介、医者・高松凌雲旧幕臣など戊辰戦争関係者の慰霊碑のほか、新門辰五郎之墓碑、仏間和尚ともに遺体の弔いを大総督府に願い出た三河屋幸三郎の墓もある。

(学23期kz)

鴎外、そして漱石 その3

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

鷗外、そして鷗外よりも5歳若い漱石。

どちらも留学している。

鷗外はドイツ・ベルリンに、漱石はロンドンに。

◆外国語の日本語訳に貢献

鴎外も漱石も外国語の概念を日本語に訳し、日本語での教育水準を高めることにつながった。

鷗外は交響楽(シンフォニー)、空想(ファンタジー)、詩情(ポエジー)、長編小説(ノベル)、民謡(バラード)などを考案している。

また、漱石は経済(エコノミー)、価値(バリュー)、不可能(インポシブル)、電力(エレクトリック・パワー)、無意識(アンコンシャス)などの用語を創り出した。

◆鴎外のスタイル

鴎外の初期の文体は文語体で、読むのに多少骨が折れる。

舞姫などは異国で恋した青年と、身ごもり青年との別れでパラノイアにかかるエリスとの壮絶な離別を描いているが、エリスやエリスとの関係の描写は無機的、あるいは冷徹・淡白とさえいえるような冷めた文語体でさらりと書かれている。

意図的か否か不明であるが、面白いことに、それだけに物語の「悲劇」性を掻き立てる効果がある。

また鴎外の女性には真のしっかりした女性が出てくることが多い。

今述べた舞姫のエリスもそうだが、安寿と厨子王、最後の一句の死刑囚の娘「いち」。

こうした女性の描き方は鴎外が津和野藩の典医の長男であり、軍医としての位を極めたことも関係してのではないか。

語学に堪能だった鴎外の作品には横文字が多く出てくる。

ラテン語、フランス語、ドイツ語。これも鴎外の作品を読みにくくしている。

◆漱石のスタイル

他方、漱石作品は平易な口語体で書かれている。

漱石の作品の中で女性はどう描かれているか。

よく引き合いに出される草枕に出てくる奔放な女性・那美。

それでもあっさりした描写だ。その手の描写が手慣れた名だたる巨匠と比べるまでもない。

坊ちゃん家の「お手伝い・清」は漱石の理想像であり、心のふるさとでもあるようだが、それは対象外として、同年代の女性の描写を見てみると、三四郎の「美禰子」がいる。

チャーミングだが捉えどころがない。

「三四郎」自体が学園ものの青春小説であり、魅力的に描かれている。

知的で美形でとらえどころのない魅力的な美魔女。この中で漱石が里見美禰子の「眼つき」を形容したことばに「ヴォラプチュアス!」というのが出てくる。

巻末に注が付されており、Voluptuous・・・「肉感的な」とあり、どきりとした。

まあ、青春・学園ものだけに仕方がないか。

健康的でよろしいが。

しかし、横文字を充てており、意図的に「肉感的」という直截な形容を避けているように思える。

照れ屋の漱石らしい。

◆青春ものの作品

漱石に「三四郎」という青春ものの作品がある。

また、鷗外にも、ずばり「青春」という小説がある。

ストーリーが似ている。

調べてみると、漱石の作品「三四郎」にヒントとを得て、鴎外が「青春」を書いたという。

似ているはずだ。

主人公はどちらも田舎出身で、東京で暮らす若者だ。

小川三四郎は熊本出身。

「青春」の主人公・小泉純一の出身地は「Y県」となっている。

津和野に近い山口出身のことだろう。

(学23期kz)

ベルリン ブランデンブルグ門

ロンドン塔

上野戦争と大砲

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

政府軍が半日で勝ちを収めた上野戦争。

政府軍は大砲を持ちながら、彰義隊が立てこもる上野寛永寺の正面・黒門は、銃の跡は残れども、破壊された形跡がない。

◆四斤山砲

この時には彰義隊は山門上の山王台(西郷像のある付近)に設置されたのは四斤山砲(関口大砲製造所制作・文京区小日向、製造統括責任者は小栗忠順)3門で、正確無比な着弾に新政府軍は手を焼いたという。

前装ライフル式。砲弾重量は4キログラム。

対する新政府軍の大砲もフランスで開発された青銅式四斤山砲。ライフリング付きだ。

薩摩藩はこの四斤山砲を山王台正面の料理屋「雁鍋」の二階に分解して運び、組み立て直して。砲口を上野の山に向けた。

彰義隊が立てこもる上野寛永寺の正面・黒門までは約200メートル。

有効射程距離は約1キロ。

しかし、この四斤山砲でも、黒門は破壊されずに残った。

黒門口には砲弾が球体の臼砲も1門配置された。

◆アームストロング砲

佐賀藩の6ポンドアームストロング砲2門が上野戦争で使われたのは有名だ。

英・後装砲アームストロング砲は佐賀藩でも同型の大砲が製造された。

最大射程距離は3600メートル。

佐賀藩が現・東大病院附近に設置した砲台から黒門まで約400メートル、当時寛永寺奥の根本中堂(現・国立博物館)まで充分届く。

(彰義隊の本陣は寒松院、現・上野動物園)。

しかし、この時用いられた砲弾は4キロ弾で、火力も弱く、命中精度も低かったので、実際にさほどの威力はなかったようだ。

また、当時佐賀藩はアームストロング砲を使えば殺傷しすぎるきらいがあるため、使用に否定的だったと伝えられている。

ただ、砲撃の音は驚くほど大きく、音だけでも十分相手を威圧できたようだ。

アームストロング砲は事故が多かったという。このためイギリスは軍事機密解除され、アメリカに渡り南北戦争で使われたほか、武器商人の手を経て佐賀藩に入った。

佐賀藩では完全コピーできたという説と、製造までは至らなかったという説がある。

他方フランスの四斤山砲(87ミリ)は安定度が高かった。

小型で分解可能だったため、持ち運びができ、重宝された。

ライフリングはあったが、前込め砲で、青銅製だった。口径は64ミリ。

決定的な兵器ではなかったと解釈されつつある。

このアームストロング砲でも黒門は破壊されなかった。

円通寺に移築された黒門は銃の跡はあれど、大砲の砲撃を受けた形跡がない。

アームストロング砲の殺傷力はほどほどだとしても、爆音は相当大きかったという。

このため大村益次郎は、特殊部隊侵入の合図のためだけに、アームストロング砲を打ったのかもしれない。

(学23期kz)

四斤山砲 
6ポンド アームストロング砲