響け 山大管弦楽団

私は山口大学経済学部に入学し、管弦楽団に入団しました。

少年時代から昭和歌謡をよく歌い、古関裕而の曲も好きでした。

楽器は弾けませんが、クラシック音楽に興味があったのです。

 ◇ティンパニーとの出会い

入団後、トランペットを志望しました。ところが、先輩が「君には向いていない」というのです。今なら、ティンパニーが空いている(空席)といいます。

「それでいいや」と思い、ティンパニーを始めました。

 2台のティンパニーを叩きます。まず、複数のネジで音の高さを調節します。強く締めると、高音に、緩めると、低音になります。私には音程がよく分からない。耳のいい先輩に教えてもらい、皮の張り具合を手のひらの感覚で覚えました。

 ティンパニーは簡単そうに見えますが、打つタイミングが難しい。ちょっと、手を振り上げると、半拍、遅れます。「打とう」と意識する前に打たなくてはなりません。

 ◇指で数える

 ティンパニーはバイオリンなどのように始終、演奏しているわけではありません。演奏中、休みの時間がけっこう長い。私は幼児のように指を折りながら、小節を数え、出番を待ちます。ある演奏会で演奏のスピードがなぜか速まったことがあります。みんなが「どうしようか」と焦っていたところ、私が60数小節目にティンパニーを正確に打ったので、正常な演奏に戻ることができました。このときはみんなに感謝されました。

 ◇国立大学合同演奏会

 指揮者は経済学部の先輩でした。クラシック音楽にとても詳しい。指揮も抜群でした。山口の音楽界では一目置かれる存在で、それはたいした人物でした。彼は卒業後、大手企業に就職しました。

 演奏会は山口市の公共施設でやることが多く、いろんな曲を演奏しました。私はベートーベンの「運命」が好きです。ドボルザークの「新世界」も印象に残っています。

当時、中国地方の国立大学合同演奏会が開かれていました。岡山や広島など持ち回りでやります。楽器を会場まで運ぶのが大変です。特にティンパニーは重たい。持ち上げて客車に運びこむのにひと苦労しました。

 ◇商社マンに

大学卒業後、私は商社マンになりました。海外にも駐在しました。仕事が忙しく、ティンパニーを叩くことはもう、ありません。演奏会をたまに聴きに行く程度です。それでも、クラシック音楽を知っていると、お客さん(取り引き先)との会話が広がります。

学生時代にクラシック音楽をやって、教養が身につきました。管弦楽団に入ってよかったと思います。今でも当時の楽団員が山口に集まることがあります。私は日程の都合がつけば、出席するようにしています。

  (元山口大学管弦楽団員 S)

第2回長州歴史ウオーク

         第2回長州歴史ウオーク

山口大学経済学部同窓会、鳳陽会東京支部は令和3年12月4日(土)、

第2回長州歴史ウオークを開催します。ご参加ください。

【集合時間・場所】

 午前10時 靖国神社(東京都千代田区)大村益次郎像前

【行程】

 大村益次郎像ー靖国神社参拝ー遊就館見学(拝観料1千円各自負担)

 昼食休憩1時間(分散して各自昼食)

 大村益次郎像前再集合ー品川弥二郎像ー千鳥ヶ淵ー旧近衛師団司令部ー

 江戸城天守台ー桜田門ー日比谷公園(長州藩上屋敷跡)

 午後3時ごろ、現地解散

※雨天決行です。午前中のみの参加も歓迎します。鳳陽会東京支部ホームページの「連絡・お問い合せ」窓口から応募してください。氏名、卒業期(年次)、携帯電話をご記入ください。

靖国考  その1

第2回・長州歴史ウォークでは、前回のトピックスでとり上げた「大村益次郎」の銅像が建つ靖国神社とその周辺を巡る。

靖国神社がニュースで流れるのは、境内にある桜の標準木のつぼみの開き具合で開花宣言が出される春、それともうひとつ、終戦記念日の夏だ。

 ◇靖国神社の御祭神

靖国神社は明治維新、戊辰戦争、日清・日露から先の大戦まで、名誉の戦死を遂げた246万余柱が祀られている。

また、境内には様々な慰霊碑や像が立っている。東京裁判でインド代表として派遣された国際法のスペシャリスト・Pal(パール)判事の顕彰碑や、軍に尽くした軍馬、軍用犬、伝書鳩の慰霊碑もある。

しかし、沖縄戦や空襲で亡くなった一般人は祀られていない。また、西郷隆盛や乃木大将も祀られていない。

 ◇創設の経緯

靖国 神社が設立されたのは1869年(明治2年)。戊辰戦争終結(同年5月)直後に当たる。

靖国神社の前身は東京招魂社である。その招魂社の原型は、長州藩が英仏蘭米と戦った下関戦争での犠牲者を弔うため、1865年(慶応元年)に高杉晋作が戦地となった下関桜山に設けた招魂場である。その後、江戸城で薩長土肥の将校の招魂祭が開催され、また京都東山でも官軍の戦死者が祀られたのを始め、全国でも幕末や明治維新の戦没者を顕彰する動きが活発する。このため陸軍の創始者・大村益次郎が明治天皇に靖国神社の前身となる「東京招魂社」の創建を献策したことが靖国神社の始まりだ。

 ◇合祀の対象者

設立当初、祀られたのは軍人や軍属であった。ここでいう「軍」とは新政府軍のことであり、旧幕府軍(いわゆる「賊軍」)の会津軍や上野彰義隊などの戦死者は祀られていない。また西南の役で新政府軍と戦った西郷隆盛が祀られていないのはこのためだ。

また、祀られる対象となるのは「戦死」者である。このため、いくつもの勲章で身を固めた退役軍人であっても対象とはならず、殉死した乃木大将もここには祀られていない。

このように設立当初に祀られたのは、新政府成立に寄与した 戦没者 あった。当時官軍を迎え入れた東京の人間は、これまで長きにわたり治めてきた徳川の世に親近感を持っており、 新政府 「薩長の田舎者」の集まりとみていたようで、このため新政府では、こうした一般民衆の感情を一新し、薩長の明治新政府の正統性を誇示し、権威付けをしたかったのだろう。

しかし日清・日露戦争という対外戦争を契機に、祀られる対象は変化する。国内の「内戦」における官軍の戦没者から、「対・外国戦」における日本全国から駆り出された帝国軍人の戦没者を祀ることになる。

 ◇「戦犯」の名誉回復

国際法では講和条約が締結・発効されたときに戦争は終結する。すなわち「戦争状態」で行われた形となる東京裁判という名の軍事裁判の判決も効力を失う。このためサンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月を経て、最終的には1958年(昭和33年)に、生き残った「戦犯」全員が釈放された。

ここから彼らの名誉回復が始まる。戦没者も多く、残された遺族の意向や軍人の同僚である戦争犠牲者援護会の意向を汲んで一時金が払われ、恩給が払われた。

また、 遺族や戦没者の同僚の切なる願いは「靖国で会おう」という言葉を残して戦場に散った息子であり、夫であり、同僚たちであり、彼等を靖国神社に合祀してもらうことだったことから、合祀への模索が始まる。

1945年12月にはGHQにより「神道指令」が発せられ、その翌年に靖国神社は国家管理から離れ、宗教法人となった。このため、国の意向ではなく、遺族会や戦争犠牲者援護会の願いを汲み取った靖国神社側の判断で、1959年からBC級戦犯から合祀が始まり、1978年にA級戦犯14人を「昭和殉難者」として合祀するに至る。

 ◇新たな施設

靖国神社においては平和を希求することが強調されながらも、戦争肯定的な施設であるように見えるところから、毎年終戦記念日近くの閣僚の靖国参拝ではアジア近隣国からは批難の表明が出され、最近では米国からも「失望」の念が表明されたことは記憶に新しい。

国内はもとより、海外の国賓の誰もが参拝できる施設を作ることはできないものか。

(学23期kz)

大村益次郎のはなし

12月4日(土・10時)に開催される第2回長州歴史ウォークの集合場所は、靖国神社内の大村益次郎像前となっている。

明治維新十傑の一人とされる大村益次郎。戦(いくさ)に滅法強く、負け知らず。長州にあっては四境戦争(第二次長州征伐の長州藩での呼称)で連勝を重ね、新政府では彰義隊との戦いに一日で決着をつけ、戊辰戦争では討幕軍の陸海軍総司令官として文句なき戦績を上げた。その後の新政府では藩兵を解散させての統帥権の確立、国民皆兵制、兵器自給に道を拓き、仏陸軍、英海軍を模範とした兵制改革を成し遂げ、日本陸軍の創始者となった。

しかし、大村は若き頃から戦好きであったというわけではなく、軍人を目指したわけでもなかった。

◇蘭学という出世の道

益次郎は医者の家に生まれた。中世封建時代にあっては士農工商の身分制度の下で士族に生まれない限り、出世の道は僧侶か、医者かしかなかった。しかし、益次郎が生きた時代はもう一つの道、蘭学を修めることも出世街道の一つになりつつあった。当時は異国船も日本に姿を現し始め、西洋事情に通じるための蘭学が流行っており、その蘭学を通じた化学、兵学、砲術に関する知識や技術も各藩が欲したからである。このため、大村も若き頃は医学と蘭学を学び、医者か兵学者になることを目指していた。

◇塾通い

齢18にして三田尻(防府)でシーボルトの弟子・梅田幽斎に医学・蘭学を学ん後、19で豊後日田にある全国に知られた広瀬淡窓の咸宜園(かんぎえん)で各藩から集まった秀才たちと共に漢学を学んでいる。22歳の時にはこれまた全国に知られた有名塾である緒方洪庵の適塾で医学を始め、各種洋学を学んだ。

しかし、当時長州藩は第二次長州征伐と攘夷・馬関戦争という内憂外患状態にあり、時代の要請から西洋の軍事に関する技術や制度の導入が求められ、大村の知識や能力は、もっぱら軍事面で発揮されることとなった。

◇図抜けた秀才

各国各藩から秀才が揃い、福沢諭吉も塾生時代は枕を使う暇がなかったというほど、寝る間を惜しみ、しのぎを削り合った緒方洪庵の適塾。大村はそこで塾頭を務めたほどの秀才であった。

この大村、単に蘭語が読め、理屈を強弁する頭でっかちの人物ではなかった。蘭語を分かったうえで書物の中身の本質をいち早く捉え、まるで己が著者であるかのように、誤りなく理解したうえで、周囲に平易な言葉でわかりやすく解説し、大村の講釈は人気があったという。

 ◇間違いのない戦(いくさ)の勝ち方

縁あって、請われる形で出仕した宇和島藩では洋書片手に蒸気船を作り、伊達宗城公から褒美を貰っている。江戸でも蘭学、医学、兵学を教えるが、先に触れたように、長州藩に戻り幕府相手に戦った四境戦争では実戦経験がないにも関わらず、水も漏らさない勝ち方で幕府に連戦連勝し、兵士の間では「大村先生の言うとおりにすれば必ず勝つ」との信仰があったという。また、この時14代将軍家茂(いえもち)亡き後、将軍になりたての慶喜から長州との休戦協定を命じられた勝海舟をして「長州に大村がいるのではとても幕府に勝ち目はない」と言わしめた。

なぜか。勝も蘭語を学んでおり、大村の洋書翻訳の正確さのみならず、まるで見てきたかのように蘭書を解説している大村の能力を知っていたからだ。

大村という人物を知れば知るほど、大村相手のいくさに勝ち目はないことが分かる。間違いのない構想力、戦を確実に勝ちにつなげる企画力、あらゆる事態を想定する想像力、敵と味方の兵力の量と質を熟知した緻密な計算力。

戦いでは、決着が付く時間や、その後の負け組がとる行動も正確に予想している。大村にあっては、戦いは 勝つ べくして勝つ戦いとなったのだろう。

戦いが終わり、平時が訪れた新政府の中で大村は要職に就くが、江戸城で山のような決済文書を前に、判断が驚くほど速かったという。

こうした、本質の早見えする大村に西郷隆盛はどう映ったか。大村は西郷を「武士階級を残そうとしている危険人物」とみた。

武士に依存しない兵制改革を行うことを目指していた大村、いずれ遠からぬ時に西郷と衝突するとみていたのだろう。また、攘夷に距離を置いていた大村は、西郷の征韓論も攘夷の一つとみて大反対したという。

◇性格

社交性に乏しく、飛び切りの無口だったという。日常の挨拶でも愛想がなく、夏に「お暑いですね」と声を掛けられると、「夏は暑いのが当たり前」と、何とも無愛想な返事を返したという。

皆で宴を張る時は、大村の三味線嫌いを知る芸妓さんは座敷に三味線を持っていかなかったという。

◇暗殺未遂

廃刀令、徴兵制や兵学校の設立を目指すが、これは武士の不平を募らせる。武士のシンボルの刀をとり上げ、広く市民から兵を集め、職業軍人を育てることを目指したが、これは武士階級の否定につながる。また大村の蘭学も「洋癖であり、鼻持ちならぬ」とみる向きもあった。

帯刀する武士に不満を抱かせると怖いことになる。大村を襲った刺客8名のうち神代直人、団伸二郎、太田光太郎の3人は長州藩士だったという。

京都で刺客に襲われた大村。刺客の凶刃が大村の額をかすめるが、その時の傷は浅く、左の指先と膝に傷ができただけだったという。暗殺されかけた時の騒乱の中、混乱に紛れて風呂桶に身を隠したが、その風呂桶がいけなかった。風呂桶の底には汚い残り湯があり、そこから細菌が入ったのだ。暗殺未遂事件から2か月で治療の甲斐なく感染症である敗血症で倒れた。さすがの大村も細菌には勝てなかった。

◇ホッとする話

こうした大村について心和むこぼれ話がいくつか残る。つ目、晩酌は決まって銚子2本と豆腐1丁

一つ目、晩酌は決まって銚子2本と豆腐1丁

二つ目、絵心があり、後年日本画を多く収集

三つ目、トコトンヤレ節への曲付け

四つ目、長州ファイブの英国行き資金支援の手助け

最後に、靖国神社境内に桜植樹の申入れ

桜植樹を申入れた相手方は長州の盟友・木戸孝允であった。

(学23期kz)

山本博巳 一般社団法人鳳陽会元理事長のご逝去について

2021年11月05日

各位

一般社団法人鳳陽会元理事長 山本博巳(やまもと ひろみ)様におかれましては、令和3年11月2日(火)午後3時49分にご逝去され(享年81)、下記のとおり葬儀等が行われますので謹んでお知らせいたします。
なお、「誠に勝手ながらご香典の儀は固くご辞退申し上げます」とのご連絡をいただいておりますことを申し添えます。

  1. 通   夜 11月10日(水) 午後 6時00分~午後 7時00分
  2. 合 同 葬 11月11日(木) 午前10時00分~午前11時30分
  3. 場所護国寺 桂昌殿 〒112-0012 東京都文京区大塚 5-40-1 TEL 03(3941)0764、FAX03(3941)0721
  4. 葬儀委員長 株式会社日立物流 代表執行役 中谷 康夫
  5. 喪   主 山本 晋也(長男)

音楽サークル「ファミリーズ」

わたしは熊本県の高校を卒業。山口大学経済学部に入学しました。

大学では音楽関連のサークルに入りたいと思っていました。中学・高校時代は音楽サークルとは無縁でした。ギターも他の楽器も弾けません。

ただ、好きで音楽サークルに入りたかったのです。

◇いきなりコンサート

 「ファミリーズ」に入りました。フォークソングが主流のサークルでした。先輩にギターの弾き方を教えてもらいました。懸命に練習しました。夜、寝るときもギターを抱え、コードを指で押さえて練習しました。指がはれあがったことを覚えています。

 入学して早々、山口市民会館でファミリーズのコンサートが開催されました。サークル傘下のいろんなバンド、個人が演奏します。新人のわたしもバンドの一員として舞台に立ち、演奏したのです。会場は千人を超すファンで満席でした。めちゃめちゃ緊張して手が震えました。でも、大勢の前で舞台に立ち、演奏する快感を覚えたのです。

 2年生になってバンド「アールグレイ」(3人編成)を結成しました。作詞・作曲も自分たちでやりました。ビジュアル系のバンドです。ファッションには相当、気をつかいました。次第に人気が高まり、ファンクラブまでできたのです。

◇上京してオーディション

3年生のとき、上京して音楽事務所のオーディションを受けました。一発で合格しました。デビューが決まったのです。

 いったん、山口に戻り、経済学部のゼミの指導教授、Y先生に相談しました。

「上京して音楽活動に専念します。当分、ゼミには出席できません」

 Y先生はこういいました。

 「思いっきり、やってくれ」

 いま、思えば、おおらかな時代だったのです。

 ◇仲間が交通事故

 ところが、準備を整え、上京する直前、バンドのリードギター担当の仲間(経済学部生)が交通事故に遇い、骨折。ギターを弾けなくなったのです。わたしはこの交通事故を「天の啓示」と受け取りました。天は「上京するな」といっているに違いないと思いました。

 わたしたちは上京を断念。バンド解散を決断しました。音楽活動からも離れました。

 大学卒業後、わたしは東京の「ネクタイを締めなくていい」会社に就職しました。交通事故に遇ったバンド仲間もまた、大手企業に就職しました。

 卒業して歳月が流れた後、かつてのバンド仲間と再会する機会がありました。華やかだった学生時代の思い出をしみじみ語り合いました。

「あのとき、上京してデビューしていたら、おれたちの人生、どうなっていただろうな・・・」

      (元山口大学経済学部生 R・S)

山口市竪小路町おこしイベント

山口市竪小路で町おこしイベント

山口市竪小路を舞台にした町おこしイベント「まちなみアート」が令和3年11月19日~23日、開催されます。山口大学経済学部同窓生らが実行委員会で活動。古きよき“西の京”の街並み復興に貢献しています。

 同窓生は山口市在住の香原詩彦さんと東京都在住の渋谷龍さんの二人です。ふたりは学生時代、音楽活動を続けていました。大学卒業後、香原さんは山口でコンサートやイベントなどを企画・運営しています。渋谷さんは東京都内の会社に勤め、博覧会や町おこしイベントなどの仕事を行っています。

 今回はアート展示・販売、劇団ステージ、ストリートミュージック、ファッションショーなど多彩なイベントが企画されています。

 渋谷さんは「学生時代、お世話になった山口に恩返しをしたくて実行委員会で活動しています。竪小路には大内時代からの古き、よき街並みが残っています。コロナ禍ですが、全国から山口を訪れ、イベントに参加してみませんか」と話しています。

 また、香原さんは「僕と渋谷君は学生時代、山口の竪小路に4~5年住んでいました。その青春の思い出を今でも大切にしています。多彩なイベントを企画していますので、この機会に山口にお越しください。お待ちしています」と呼びかけています。ご参加していただくと幸いです。

メシア、我が想い出 その3 春来軒

◇山口のソウルフード

春来軒は平川から「ヤマグチ」に用事がある時、よく通った“ヤキソバ屋”で、半世紀経った今も生き残っている数少ない店だ。ウェブ検索をかけてみると「バリそばの総本山」、「元祖バリそば本舗」と出ている。「バリそばは山口のソウルフード」というのもあった。口コミ欄でも「ブチうまい」との書き込みもある。

 長崎のソウルフードである皿うどんやちゃんぽんと具材の顔ぶれはほとんど同じだ。

初めて親元を離れ山口で生活するにあたり、馴染みのある食べ物を見つけると心が和む。心の拠り所だ。平川から一番の繁華街だった道場門前に向かう手前に、その店はあった。物事がうまくいかず、クサることがあった時は、「心の平和」を求めて春来軒に足が向いた。事がうまく運んだときには餃子を付けて注文した。

 ◇食欲をそそる彩り

具材は野菜と控えめな肉・魚介類だ。店先に出ていたサンプルがいかにも旨そうに作ってあり、鮮やかな彩りが食欲をそそった。ザク切りキャベツの黄緑、玉子の黄色、イカの白、さつま揚げの狐色、ナルトの桜色、きくらげの黒。スープは薄いカラメル色で粘度の低いあんかけ。

食べる前に、先ずは白コショー。これが旨さを引き立てる。

いよいよ箸の第一着。ここで注意が必要だ。大皿の鉢からおつゆがこぼれないように食べないと厄介なことになる。とにかくおつゆが多い「ツユだく」だった。

最近インターネットで見付けた春来軒の「バリそば」を見ると、小ネギが乗っているが、当時はなかった。昔から小ネギが大の好物だったので断言できる。また「バリそば」という表現も気にかかる。「バリ」と言うからには硬い麺を意味するのだろうが、当時は決して堅い麺ではなかった。50年かけて独特の進化を遂げたのかもしれない。進化したからこそ、生き残ったのかも。ダーウィンだ。

◇女将さんの勘違い

店に通っていた当時、ある時を境に女将さんの機嫌が大層良くなり、一度は注文をタダにしてくれたことがある。娘さんが高校に無事合格したという。どうやら私を娘さんの家庭教師をした学生と思っているらしい。心当たりは・・・記憶のか細い糸を真剣に手繰ってみるが、どう甘く解釈しても確信が持てず気持ちが悪い。正直なところを女将さんに伝えようかとも思ったが、話の成り行きでは、ややこしいことになりそうなので、自然と足が遠のいてしまった。

50年が経った今、暖簾をくぐってみるか。今なら女将さんに会うこともなかろう。仮に目と目が合ったとしても、さすがに大昔の家庭教師の顔は忘れただろう。

しかし、待てよ、それもまた寂しい話だ。

女将さんが出てきたら、遠巻きに娘さんのことに話を向けてみる・・・というのも面白いかもしれない (否、喝!)
 (学23期kz)

関門海峡ものがたり

―海上交易と富―

社会・経済を支える物流。船は少ない人員で大量の物品を運ぶことができる。このため太古の昔から海路の要衝地には荷が集まり、それを扱う商人が住みつき、富が生まれる。幸運なことに山口には下関があった。

 ◇莫大な富をもたらした外国貿易

交易相手が外国の場合には、大きな利益が生まれた。相手国が欲する産品を持ち込み、帰りは希少な産品を日本に運び、捌いた。また、中世においては海賊行為を行う倭寇や密貿易者を押さえるため通信符(日朝貿易)や勘合符(日明貿易)など割符を用いた貿易が行われたが、そうした貿易制限下では莫大な利益を産んだ。

 ◇日朝貿易と大内氏

主だった各国大名は源・平や藤原氏を出自とするが、大内氏は百済の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔であると伝えられている。大内氏はそのように自称し、朝鮮との交易を有利に進めたほか、倭寇取り締まりでも功績を挙げたことで、当時日朝貿易の仲介役を果たしていた対馬の宗氏とは別ルートでの朝鮮との直接取引で富を蓄えた。

大内氏が潤っていた時のこぼれ話が太平記に残る。14世紀半ば、第24代大内弘世が2代将軍足利義詮に謁見するため上洛した折、数万貫の銭貨や唐もの(舶来品)を幕府要人・文化人のほか、貧しき京の民にも分け与え、好評を博したと記されている。この時は弘世が銀鉱を抱える石見の守護となる以前のことであり、富の出どころは銀の採掘ではなく、まさしく貿易であった。

しかし、これで終わりではない。日朝貿易が正式に始まるのが、次の25代義弘の時からというから驚く。14世紀末の話だ。

 ◇日明貿易–博多商人の取込みと貿易独占

15世紀に入ると日明貿易が盛んになる。明の始祖・洪武帝も海禁(官船以外の交易禁止)による割符を用いた朝貢貿易を行う。これは日朝貿易同様、倭寇や密貿易に悩まされていたからだ。我が国の相方は3代将軍足利義満。はじめは幕府直営船が使われたが、次第に大寺院(天龍寺船)や大名に勘合府が割り当てられた。この朝貢貿易、朝貢品に対しては対価以上の代価が支払われた上に、その物資を売り捌くことも認められたため、一度の渡航で元手の5~6倍の利益が出たとされる。中でも中国で得た絹では20倍の利益が出たようだ。

この日明貿易は幕府の弱体化に伴い、私的貿易が中心になっていく。

こうした中、大内家28代教弘(のりひろ)が筑前国の守護に就き博多を擁することになったため、勘合貿易の担い手は大内氏=博多商人と細川氏=堺商人との双寡状態になるが、結局両者の覇権争い(寧波の乱1532年)を大内氏が制したことで、勘合貿易は大内氏の独占状態となった。ここから大内氏に莫大な富が生じたことは言うまでもない。

 ◇「鎖国時代」に空前の繁栄を誇った西回り国内航路 

続く15世紀後半から17世紀初め、即ち戦国から江戸時代にかけての貿易はどうか。信長(南蛮貿易)、秀吉(朱印船貿易)も経済的・軍事的な面から貿易に積極的だった。また、ヤン・ヨーステン(蘭)やウィリアム・アダムズ(英)を貿易顧問に迎えた家康も貿易に熱心だった。しかし2代将軍・秀忠を経て、3代・家光の時になると鎖国体制が固まり、貿易は「出島」に限られたが、この間日本海を縫って通る国内航路の西回り廻船が未曾有の繁栄を見せたという。

特筆されるのが北前船だ。北海道の松前から日本海の各港に寄港しながら下関を経由して大阪・堺に産品を届け、また逆の航路を辿る。東回りは波が高く、危険な航路とされ、西回りが多用されたようだ。

西回りの船は必ず下関を通る。そこで長州藩が設けたのが「越荷方(こしにかた)」という藩営企業体だ。そこでは「越荷」と呼ばれる北前船の荷物に関する①担保金融(資金貸付)、②買取り販売、③一時保管などで利を得た。

この「越荷方」は当たり、莫大な利益を上げたという。ここで得た富で長州藩は軍艦を手に入れ、洋式兵器を揃えることで幕末での存在感を高めていった。

 ◇和製「スエズ運河」の関門海峡

関門海峡は放っておけば砂が溜まり陸続きになるという。このため古くから絶えず浚渫(しゅんせつ)作業が行われてきた。その意味で関門海峡は半ば「運河」と言える。下関出身の直木賞作家・古川薫氏は関門海峡を日本の「スエズ運河」と呼んだ。

この古川氏、1925年生まれで、2018年に92歳で没するが、出身校をみると山口大学卒とある。残念ながら経済学部(当時は「経専」)卒ではなかった。また文理学部・文学科卒でもないところが面白い。

(学23期kz)