あれから40年

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

学37期 上野 啓

◆毎年この季節になると思い出すのが1985年(昭和60年)3月の日々。

福岡の県立高校の卒業式は3月1日、国公立大学の2次試験が3月5日だったと記憶している。

卒業式で交わされた会話は、「バイト何すると?」や「予備校どこにすると?」など女神が微笑んだ者とそうでない者の間で天国と地獄の様な差があった。

そして国公立の2次試験をこれから受ける者は、卒業よりも2次試験の事で頭がいっぱいであった。

(余談であるが、当時の福岡の予備校は、親不孝通りの名付け親、九州英数学館、水城学園の双璧に、黒崎の北予備、そして名古屋から 河合塾が九州進出して間もない頃であった。)

私は、東京の私大2校に不合格となり、浪人を免れる最後のチャンスは、国立山口大学のみ。丙午の影響で倍率が低いので、何としても現役合格したかった。それにも増して、どうしても山口大学に行きたかったのは、当時付き合っていた彼女が早々に山口の短大に推薦合格していたためで、学問とは全く関係のない不純な動機であった。

◆試験前日は、湯田温泉の 常盤に泊まり、大学通りを歩いて下見に行った。

湯田から平川までの道のりは長く、どんより曇って北風が強かった(いわゆる鳳翩下ろし)。

その日の夜は,緊張で一睡もできなかったが、朝風呂に入ったおかげで、頭が冴えて2次試験に臨めた。帰り道に合否電報を申し込んで、また大学通りを湯田温泉駅まで歩いた。

一両編成の山口線は乗り切れないほどの受験生で異常に混んでいた事を鮮明に覚えている。

合格発表までの10日間は、地元の同級生とほぼ毎日飲み会。当時タコハイ(酎ハイ)が流行しており、松田聖子「Sweet Memories」 のCMソングがTVで流れていた。

まだ、未成年ではあったが、この時代は地元の居酒屋でも友人宅でも誰からも咎められ事もなく、堂々とお酒が飲めた。

高校を卒業すれば、みなし成年という不文律があったのだろう。

合格してからの2週間は、下宿探し、1人暮らし準備、そして引越しと福岡と山口を数回往復。本当に目まぐるしい2週間であったと思う。

◆あれから40年、「もう一度戻れるとすればいつの時代に戻りたい?」と聞かれたら昭和60年3月と間違えなく答えるであろう。

そこには、受験からの解放感、親から離れ1人暮らしをする高揚感、ひとかけらの不安もなく期待に満ち溢れていた。そして少し生暖かい春の香がする3月の風が吹いていた。

ちなみに私を山口大学に導いてくれた当時の彼女とは入学して間もなく別れてしまった。

大人の階段を登る18歳の春の出来事を今年も思い出しながら、今宵はハイボールを飲んでいます。

学37期 上野 啓

(写真は今も現存する私の下宿、築50年越)

「ぬかるみ」 金子みすゞ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】  

◆明日 3月10日は金子みすゞの命日。

作品をひとつ

「ぬかるみ」

この裏まちの

ぬかるみに

青いお空が

ありました

とおく、とおく

うつくしく

澄んだお空が

ありました

この裏まちの

ぬかるみは

深いお空で

ありました

金子みすゞの墓(長門市仙崎 遍照寺)

随筆 横目で眺めた経済学 その①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

◆「経済」は海の如し、「経済学」は森の如し

世の中、ほとんどがカネに関わっている。

民の世界も、官の世界も。

個人も企業も、国際機関もそうだ。

NPOもまた然り。

世の中、官民ともに、やりたいこと、しなければならないことは山ほどあるが、悲しいかな、カネがないと何もできない。

経済は海のごとし。

また、経済活動の中で化学や物理学のような自然科学とは異なり、また、その対極にある文学、思想・宗教などのいわゆる「人文」とのちょうど中間にあるのが「経済学」だ。

◆経済学部に在籍した縁で、これまで私が関わった「経済学」との繋がりらしきものを振り返ってみたい。

また、そこで出会った学者先生、研究者のみなさんとの触れ合うことができた。

もっとも、詳しい中身をつまびらかにすることには差し障りがある。

また、人との出会いについては、鬼籍に入られた方もおられるが、存命の方も多い。

このため、ここではこれまで経験したこと、触れ合ったことの表面をなぞるように語り、またそこで出会った方々との思い出話を素描したい。

◆学生のころ

私が経済学部に入ったのは、起業するとか、何か経済関係でコトを成そうと思ったからではない。

私の家族にも、また親戚を見渡しても、商売を生業にしている人は身近にいなかったため、企業や事業、カネに関してほとんど理解できておらず、恥ずかしいくらいウブだった。

そういう世界があることも良くは知らなかった。

中学・高校で勉強したのは、主に「国・数・社・理・英」だ。

今では、社会科の中で勉強するのかもしれないが、当時、社会科は地理と歴史が中心だった。

「経済」という言葉に「多少」興味があったのは、学校で習っていなかったためで、その未知の世界が新鮮に感じたからだ。

(学23期kz)

横浜公園のブラントン像と吉田松陰

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

《学22期:Y.YZ》

横浜暮らしが三十有余年になり自然に街の歴史に触れるようになったので、横浜ベイスターズのスタジアムがある横浜公園の銅像について鳳陽会員の方々に以下をご紹介したい。

銀杏並木の美しい日本大通りを、海を背にして歩いた突き当りの横浜公園の入り口に「日本の灯台の父」と呼ばれるリチャード・ブラントン(1841-1901)の銅像がある。ブラントンは「お傭い外国人」として1868年に来日し、灯台のみならず横浜開港期の街の建設に大きく貢献したが、時の英国の灯台建設の雄であったスティーブンスン兄弟社(以下ス社と略)を介して派遣されており、灯台の基本設計はス社がほとんどサポートしている。

1872年に岩倉使節団が欧米を視察した際は、一時帰英していたブラントンの自宅に木戸孝允が招待されている(木戸孝允日記)。

また使節団は当時イギリスの難所で知られたベル・ロック灯台をス社代表のトーマス・スティーブンスンとブラントンの案内により視察している。

視察団の案内・通訳をしたのは灯台学の修得のため国費留学していた藤倉見達(後の灯台局長)で、ス家の世話になったが、ス家にはトーマスの長男で藤倉より一つ年上のロバート・スティーブンスンが同居しており、ロバートはトーマスの期待に反して家業ではなく文学を志向していた。

このR・L・スティーブンスン(1850-1894)は19世紀後半のスコットランドの小説家で「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」の作者として有名であるが、このロバートが1880年に吉田松陰の評伝(ヨシダ・トラジロウ)を日本人に先駆けて世界に紹介している。

松陰の事蹟をロバートに知らしめたのは正木退蔵(後に東工大の前身校の初代学長)といって13歳の時に松下村塾にて松陰に師事した人物で英国留学後、工業教育に従事していたが1878年に帝国大学の依頼により理学部教授を求めてエジンバラを訪れた際、エジンバラ大学土木工学部のジェンキン教授に招かれた夕食会で松陰について熱く語った時にロバートが同席していた。スティーブンスン家は工学を通じてジェンキンとも親しい関係にあったようである。

ロバートは父のトーマスに反目して葛藤していた時期であり、正木が語った吉田松陰の潔い生涯に励まされて心機一転サンフランシスコに移住し、世界的な作家になったのである。

ちなみに松陰は日米和親条約締結(1854年)の後、下田に停泊していたペリーの船で密航を企てて失敗し入牢、その数年後に伝馬町牢で刑死しているが、江戸から下田に向かう旅の途中、叔父の竹院が住職をしていた鎌倉の瑞泉寺に立ち寄っている。

また、上述の岩倉使節団には松陰門下でイギリス公使館焼き討ちの一員であった野村靖も参加していたが、後に野村が神奈川県権令(その後県令、伊藤内閣時に内務大臣)に就任した1876年に、三宅島流刑を赦免されて東京に戻っていた沼崎吉五郎(小伝馬町の牢獄で松陰と同囚)の訪問を受け、松陰が処刑前に獄中で書き上げて沼崎に託していた「留魂録」の正本を受け取っている。

(野村靖の墓は遺言により世田谷の松陰神社にある) 

《学22期:Y.Y》

  • 参考書籍:よしだみどり 知られざる「吉田松陰伝」

日本人論の欠片 その17 きょろきょろ論③

 山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

学23期kz

◆真逆への転換

先の大戦が終わり、これまで「鬼畜米英」としてきた進駐軍に対して、学校の先生の態度が真逆に変わった。

報道機関の論調も激変した。今になって振り返れば、戦時中は反戦を唱えるどころか・・・、書く必要もないだろう。

民衆もギブミーチョコレートとなった。

これをどう評価するのか。

変わり身の早さというだけでは片付けられない。

主義主張が変わったのか。

主義主張がこんなに簡単に変わるものなのか。

いや、もともと確たる主義主張が本当にあったのかと問わざるを得ない。

こちらの風が吹けばこちらに靡(なび)き、あちらの風が吹けばあちらに靡く。

こう書けば、主体性がないように聞こえる。

本当に主体性がないのか、日本人は。

しかし、個人個人に当たって、事情を聴き、弁明を聞き、社会の論調を語らせ、政治論議をさせると、男女も、爺さん婆さんも、みなさん、実に立派な意見を開陳される。

メディアによく出ているような、流行りの評論家にも負けないくらいユニークで地に足の着いた、しっかりした意見を述べられる御仁には事欠かない。

◆臨機応変

臨機応変・・・

これは、使いようによってその場に即応した、優れた判断を導くことにもつながる。

風が吹く方に靡く。

風が吹く方に靡くこと。

これは考えようによっては、臨機応変であるとも言える。

「節操がない」、「信念がない」、「主体性がない」という批判は免れないが、他方、壊れない、死なない形だともいえる。

水のごとく、その時の状況に応じて形を容易に姿を変えて、適応する。

おそるべし、「臨機応変」の民、日本。

他方、絶対的な価値を有する国民は、絶対的な価値を構成する一部が壊れると、恐ろしい崩壊の連鎖が始まるのかもしれない。

◆「日本」の地球的な価値

絶対的な価値は持たないが、人付き合いするときの作法は磨かれている日本人。

モノに接するときも同じ。

八百万の神で、そこここに神が潜んでいる。

このため、ヒトも大事にするし、モノも大事にする。

SDGS。この先、これが大事。

サステナブルな環境、サステナブルな地球がとても大事になってきている。

こうした作法がほんとに得意な日本。

エコで、コストが安く、環境への負荷が低い循環型社会生活が昔から得意な日本人。

こうした日本人のDNAが世界の鏡、地球のリーダーにもなれる可能性を秘めている。

やりようによってはの話だが、これからは日本の作法が世界をリード時代が、すぐそこまで来ているように思う。

絶対神無き民、あっちきょろきょろの民が、ここ一番で世界を救うかもしれない。

(学23期kz)

彰義隊、その後の運命 ②悲運

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

◆天野八郎

上州の豪農・大井田家の次男。

新田義貞の氏族に含まれる一族。清和源氏の流れを汲んでおり、代々庄屋を務めた名家だという。

彰義隊は新政府軍の前に敗れ去り、副頭取の天野八郎は7月に捕縛され、獄中で病死した。

一時は函館に向かう榎本武揚の艦に乗ったが、引き留める榎本に対し、律儀にも彰義隊に武器や食料を与えてくれた方々にお返しに行くとして、捕らえられることを覚悟で艦を降りている。

その時、榎本は「それにしても天野殿は惜しい。あれで要領の良い人なら、勝さん以上になっていたろうに」と、

じっと眼をつぶったという。

榎本武揚にそこまで言わせるとは・・・

天野八郎という人物はただの荒くれではなかったのだろう。

◆天野八郎の辞世

「北にのみ 稲妻ありて 月暗し」

稲妻が轟く北とは・・・奥羽越列藩同盟を指すのか、箱館を指すのか。

◆「決して香車に恥じず」

香車のように引くことを知らない、一本気な男。これが天野八郎だった。

◆香車といえば・・・

昨年9/30(月)王座戦第3局

手番・藤井七冠の146手目・九6香車。

永瀬九段が指した手拍子の歩打ち。

これが敗着の一手となり、藤井七冠勝利。

桂馬が上がって受けておれば、軍配は長瀬九段に・・・

◆彰義隊の残党

上野戦争後は江戸の町中が乱れ、流言飛語が飛び交い、暴行略奪も多発したという。

村人たちは自衛のために住所不定のよそ者を警戒し、排除にかかる。

こうしたよそ者には彰義隊の残党もいたのだろう。

杉並には村人から追われた者、そこで自害した者の墓が、わりと残っているようだ。

私の住んでいる近くの寺にも、東北から応援で加わった彰義隊の残党ではないかともいわれる3名の勇士碑が残っている。

大田区の東光院。

寺の関係者に伺ったところ、6代前の住職によると東北方面の藩士だったようだとのこと。

当時は徳川側には奥羽列藩も与して新政府と戦う構図があり、慶応4年春以降、彰義隊への参加者が膨れていく過程で奥州列藩藩士が彰義隊に集うこともあったと思われる。

勇士碑に刻まれた三名は南下し、洗足池辺りで村人の手にかかり、残り二人は旧中原街道を下り、桜坂を越え丸子の渡しがあった沼部付近の医者に逃げ込んだ。

医者は一応の手当てを施すが、結局は村人の手にかかり、俵詰めの形で多摩川に沈められたという。

勇士碑の三名【画像参照】

南無阿弥陀仏

(学23期kz)

勇士碑 大田区・東光院

名まえのはなし その④ 紛らわしい名前

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

◆間違いやすい姓

以前、このシリーズでは、間違いやすい名前(ファーストネーム)に関して記したが、

混同しやすい姓(ラストネーム)もある。

その一例が「中山」と「山中」だ。

Na-ka-ya-ma

Ya-ma-na-ka

いずれも、各音節の子音が「a」となっている。

他方、「川上」と「上川」。

似たように思えるが、これは間違いにくい。

Ka-wa-ka-mi

Ka-mi-ka-wa

子音「i」が入る音節の位置が違うからだ。

以前の投稿(1月7日:結婚式の挨拶)では、新婦の姓がこの型だった。

苗字と名前、どちらも紛れやすいタイプだったのだ。

私の親戚には「ヤマナカ」さんがいるので、私自身はヤマナカという名前に親しみがあったが、漢字は「山仲」と書く。

ん?

「仲山」だったかな・・・

◆とっとり県

「とっとり県」も紛らわしい

鳥と取。

恥ずかしい話だが、鳥と取る、取ると鳥、どちらが先か、咄嗟にわからなくなる時がある。

こういうとき、スマホは便利だ。

すぐさま正解を教えてくれる。

◆紛らわしい名前

「田中」と「中田」。

野球選手にどちらもいる。田中将大と中田翔。

両者の姓の比較をみると、「田中」は日本人の姓で4番目に多く、「中田」は119位。

このため、「田中」姓が「中田」姓に比べて圧倒的に馴染みが多いという結果になっている。

しかし、ちょっと待った。

こういう例があった。

田中英寿と中田英寿。

どちらも有名人だ。

字ずらでは咄嗟に区別がつかない。

片方がプロサッカー選手で、もう一方が私大の「大物」理事長さんで問題が発覚した後、逝去された。

この時の世間では小さな混同が生じた。

その混同ぶりとは・・・

※プロサッカー選手だったのに、語学も堪能で頭もシャープ。日本酒のアンバサダーにもなっており、多方面で活躍しているのは知っていたが、知らない間にとうとう大学の理事長にもなっていたのか・・・

※スポーツマンでまだまだ若かったのに、意外と早く亡くなったのだな・・・かわいそうに

※元Jリーガーで大学の金を使い込むなんて、スポーツマンの風上にも置けない・・・

恥ずかしながら・・・私もこの中の一人だった。

(学23期kz)

中田英寿氏がプロデュースした日本酒バーがミラノにオープン

「大久保・新大久保」ツアーに参加

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

【台湾華僑・簡憲幸老師のガイドで、なぜ多民族の街が誕生し、成長したのか?大久保・新大久保の謎を解き明かす。】

(2月16日(日)14時~16時、参加者10名)

投稿者:学22期Y・Y

◆韓国のキリスト教の信者数は、韓国統計庁によると、2015年時点でプロテスタントは韓国人の19.7%、カトリックが7.9%と示されており、人口の約3分の1がキリスト教徒とか。
現在は全人口の4割がキリスト教信者とか。
因みに日本のキリスト教徒の信者数は人口に対して1%とか。

◆50代後半でしたが、道路付近の工事現場での交通誘導のバイトをしていた頃に百人町で一日仕事をしたことがありますが、この仕事は仲間に一匹狼の人が多く、あまり良い思い出はありません。
百人町の地名の由来は徳川幕府が江戸の警備を固めるために、百人鉄砲隊を現在の百人町1~4丁目付近に住まわせていたからと今回知りました。

★ツアールート
①東京媽祖廟
最近、台湾について知る簡憲幸講師の講座講に参加していますが、会場はJR大久保駅南口近くにあり、すぐ近くにあるこの建物は何だろうと思っていました。
媽祖様は台湾及び中国沿海部を中心に信仰を集める女神です。
東京媽祖廟は2013年に日本で初めて完成しました。
ひたすらお祈りされている信者の方を観て、心の平穏が得られならばと羨ましくなりました。


②楽器通り
音楽やお茶の水と並び楽器の街としても有名です。
戦前はドイツ人音楽家や日本のクラシック音楽家が多く住んでいたとか。


③イスラム横丁


④元・ロッテ工場
1950年に韓国のロッテが進出し、2013年迄は商品を生産し、電車の窓からロッテの看板が見えました。
高校生の頃から後発のロッテチョコレートが好きでした。
今は跡地は住宅展示場になっていました。


⑤ソウル市場



⑥東京中央教会
日本一のコリアンタウン新大久保にあるプロテスタント教会


⑦イケメン通り
初めて知りました。
韓国レストランやコスメショップが連なり、若い女性の凄い人出で賑わっていました。
イケメン通りの由来はここに来るとイケメンに会えるとか。
古稀過ぎたブサイクな爺で申し訳ありません。



⑧ドン・キホーテ新宿店


⑨高麗博物館、文化センターアリラン


(学22期Y・Y)

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「空気が支配する国」 物江潤著(2020年11月20日発行)を読んで感じること

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

宇部・山陽小野田支部 17期 MYZ

(本文はAYSA 西部部会文集「あゆみ4号」に掲載されたものを転載)

◆この書籍を読むまで、「その場の空気」ということについてあまり意識することはなかった。この書籍によれば“それ”はいつの間にか場を支配し、事が決まっていく。その圧力に抗うことは困難だ。日本では法よりも総理大臣よりも上位に立つ存在、それが「空気」であると。

あの戦争の時も、コロナ禍においても、国家、国民を支配したのは「空気」だった。

◆考えてみると「空気」とは何かと問われれば、実のところ難しい。もちろん物理的な意味での「空気」は、「地球を含む大気圏の下層部分を構成する無色透明な混合気体。

高度数十キロメートルまでは水蒸気を除くとほぼ一定で、体積比で 窒素78.09、酸素20.95、アルゴン0.93、二酸化炭素0.03、他ネオン、へリウム 等を含む。乾燥気圧1リットルの重さは摂氏零度、1気圧のとき1.293グラム」 とある(デジタル大辞泉から)

 一方、主観的な意味でのそれは、「その場の雰囲気」を表し、例えば「自由な 空気を吸う」、「職場の空気になじむ」、「険悪な空気が流れる」等で使われているとも説明している。

私は、「その存在の意味」について物理的にも主観的にもあまり考えたことはなかった。しかし、この書籍を読むうちに、日本が陥った「空気が支配する国」は何を意味するのかを考えてみようと思った。

◆1997 年に発刊された「空気の研究」(山本七平著)が近年、読み直されているらしい。

この書籍では、日本特有の文化で生まれた表現であるとしつつも、「空気とは、まことに大きな絶対権をもった妖怪である」と。

事例として、どう考えても、無謀な戦艦大和の沖縄への出撃である。この出撃命令の空気に抗すること ができず、エリートたちがその作戦を承認してしまった「その場の空気」。

「イン パール作戦」もそうであろうと。

この例が示唆するように、「空気」とは守らなくてはならない「掟」のようである。それも、ルールや契約のような形で明示されていない。より正確に言えば「曖昧な掟」である。

「論理」よりも「空気」が優先され、仕方がなく何が正しいのかを探る中で「空気を読む」。

◆戦後75年間、この厄介な存在が、今も続いているのである。

 果たして「空気を読む」ことは、すべて「厄介な存在」なのだろうか?

 私は、直接的に戦時中のことを経験しているわけではないが、第二次世界大戦 での日本の敗戦については、様々な書籍で学んできており(それがすべて事実か どうかはわからないが)、その時々でその時代に思いを巡らせている。

私は、戦後すぐに生をうけ、8人兄弟の7番目である。当時の家計は「それなりに裕福」 だったと記憶している。厳しくなったのは、戦後の混乱の中での「農地解放」と 「スパーインフレ」である。昭和20年代後半から30年代後半までの我家の経 済を子供心に「空気を読む」には未熟だったような気がする。

今思うに、母に対 し「不平」や「不満」を「物」に当たっていたが、母はそれに対し「大人の対応」 で「大声で叱る」声を発することはしなかった。そこは明治生まれの母である。 いずれ子供たちが成人すれば気付くであろう「今、我が家がおかれた空気」がど のようなものか分かるときが来ると信じていたのではないか。

 母のこの気構えを理解したのは、私が成人してのことであり、まさしく、この「空気を読む」である。

このことは、学生時代から社会人になっても続いた。

一方、このことは、物事に対する「優しさ」と表裏になってしまう。人との関係で この「優しさ」が、自分を追い込んでいるのでいるのではないかということに気が付いた。

◆母から教えられたある宗派の偉い住職に、『人というものは、相手に対して言いたいことがあるときには「しっかり」と言う。そしてそれによる「業」 が深ければそれを受け止める「気魂」が大事なのだよ』と。

そこから自分の気持ちに正直になろうと決め、物事に対処するときの気持ちが「楽」になった記憶がある。

 山本七平の『「空気」の研究』で、非理論的だとわかりつつも空気に従ってしまう日本人の姿が描かれており、そこから日本人の致命的な欠点が見えてくると。

◆更に「水=通常生」の研究では、「空気」を壊す方法も論じている。それが 「水を差す」である。この「水を差す」ことは、「空気を壊す」作業である。この作業は「勇気」を必要としている。この「勇気」が、「自分の業を受け止める 気魂」ではないかと思う。

 一方、この年齢(後期高齢者)になってあまり難しいことを考えると気が重たくなる。

やはり自然に、「空気を読む」「空気を変える」「雰囲気をつくる」「あの人がいれば場が自然に楽しくなる」等。

日常では人生を支える多くのものが「どれも大切」に見える。しかし、シンプルに、「一大事が起こった時にあなたは何を最も重要なものと考えるか?」「最も譲ことが出来ない根本とは何か?」日頃の生活の中で考えてみるのもいいではないか。

◆AYSA 西部部会の事務局(3 年前から会長を兼務)をやり始めて既に7年が経過しようとしている。

スタート時にはそれなりに「空気を読む」ことで会の運営 をしていたが、そこには、周りから見ると随分「力」が入り過ぎていたのかもしれなのではと、教えられている。

 ところで、私は、TVでスポーツ番組を見るのが最大の楽しみである。若いアスリートたちが懸命に自分の持てる力を発揮している姿を見ると、一層の励み になる。時には、彼らにも失敗はある。

スポーツを見ながら、次の動きを想像 (「空気を読む」)するだけでも面白い。野球で言えば、この場面ではピッチャーはどんな球を投げるのか?バッターはどんな球を待っているのか?何故あのカウントで走らなかったのか?いろんな作戦が思いつく。

ここぞというときに打てる、抑える。ここぞというときにポイントが取れるプレイヤーたちの成長を願う。

もって生まれた才能もあるが、それなりに練習して努力したプレイヤーも生きる道を必死に磨いている。

スポーツは「瞬間的」な動きであるが、私の経験からすると、やはり「その場面での空気感(雰囲気)が読め」て、しかも「水を差す勇気を持つ」ことに秀でたプレイヤーは強いような気がする。

◆どの世界でも、世代でも物事を行ううえで、 このことは同じと言えそうだ。今も母から言われた言葉を思い出す。「修ちゃん は優しいから、どんな人からも好かれるよ!」と。

中途半端なところはあるが(人間だもの)、この言葉を大事にしながら日々を暮らしている。(完)

(宇部・山陽小野田支部 学17期 MYZ)

令和の養生訓

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんの投稿

◆養生訓

令和の貝原益軒になった気持ちで書こう

と言っても、自ら養生訓を導き出せる程の人生をまだ歩んでいない…

とあるところにあった貼り紙より

紹介しよう

(掲示物に少し加筆)

◆おなかのこと、考えてみよう!

⇒おなかの王子さまが選ぶ「5つの習慣」ランキングとある

①食べる量:腹八分目医者いらず

②食べものの質:スッキリおなかでバナナうんち

③空腹時間:お休みおなか、次の食事に備えます

④いつもの姿勢:自由に動けてしっかり働く

⑤筋肉の量:バキバキに割れたおなかでなくとも働きやすいおなか

おなかは自分で守る時代とくる

◆ここからは、データサイエンスが語る

→添加物、保存料など年間約4〜8kgがおなかに入ってくる

添加物王国日本と世界からは呼ばれているそうだ

→一生約80tの食べものから約50tのうんちをつくる

 1日3回の食、いや機会があれば…

  ちょっとしたおやつ、おつまみ、夜にはまたアテと称し、口に…

 飲み物に至っては… 水、お茶、味噌汁、coffee…  そして、夜の友お酒、何軒目の締めにラーメンときたら…(笑)

口の中は、一瞬で過ぎるけど、おなかの中は、それらを全て一口の不平を口にすることなく、寛容に受け止め、ずっと働いている

①〜⑤の習慣がリフレッシュしてくると次の3つのシアワセをつくってくれる

①おなかに90%の幸せホルモン!

②おなかに70%免疫細胞!

③おなかの環境の良さが良い感じのお肌を!

とくる

これは、自分だけのちょっと見のものとしてではなく、鳳陽会会員の皆さまに、ある養生訓の一つとして紹介したいと考えた

蛇足)

83歳になった貝原益軒が描いた養生訓には次の三楽と四欲(抑)があるとウィキペディアは纏めている

三楽

  1. 道を行い、善を積むことを楽しむ
  2. 病にかかることの無い健康な生活を快く楽しむ
  3. 長寿を楽しむ。

四欲(抑)

  1. あれこれ食べてみたいという食欲
  2. 色欲
  3. むやみに眠りたがる欲
  4. 徒らに喋りたがる欲

(岡山B)