山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2026年8月 トピックス】
◆東京・商法講習所を首席で卒業した房之介
久原庄三郎は明治11年(1878)年に単身で萩を出た。
藤田組では中央官庁との行き来が便利な東京での駐在をあてがわれ、単身で東京赴任となる。
翌年、萩に残していた家族を呼び寄せるが、呼び寄せた先は大阪だ。庄三郎は依然として東京支店詰めで単身赴任のままだ。
明治14(1881)年、庄三郎は、子息の中で見込みがある4男房之介を、教育を施すため東京へ呼び寄せた。
房之介が12歳の時だ。
教育を施すにあたっては、藤田家・久原家に影響力のある井上馨候の示唆があったからかもしれない。
萩には明倫館があったが、商人のための学校はなく、井上公は商人の子に学校教育を受けさせることを勧めていた。
房之介は商法講習所(一橋大の前身)で学んだ。
同講習所は政治家・外交官であった森有礼が渋沢栄一、福澤諭吉の協力を得て銀座に開設した商業学校だ。
日本初の官立高等商業学校になったのが明治20(1887)年であり、房之介が入校した当時は私設の商業学校だった時だ。
房之介の入校時、同講習所の修行年限が5年になっており、そこで簿記、和洋算術、英文法、英会話、地理のほか商業の実地研修も行われた。
房之介は明治18年東京商業学校を、何と首席で卒業している。
◆慶応大に進学
翌19年、房之介はさらに5年、「人生の根本原理を学ぶ」として、福澤諭吉の慶応義塾大でさらに5年学びたいと自ら申し出た。
慶応義塾はもともと福沢諭吉が、江戸の中津藩中屋敷で中津藩の子弟を対象に開講していた蘭学塾であったが、慶応4年(1868年)に一般人に門戸を開放し明治4(1871)年に三田に移って規模を広げた。
現、鳳陽会東京支部の事務所に近い。
福澤諭吉の目指す教育内容は洋学に比重をおいたものである。
明治19年に房之介が慶応義塾に入学した当時、入学者は約千人だったという。
慶応義塾では予科と本科に分かれている。
入学したての予科では書き取り、作文、漢書、語学などの一般教養を学ぶ。
ここでは房之介の成績は優秀で、クラスの席次は50人中のトップ。
しかし、本科では法律学、国際法、地質学、経済学が履修科目となり、洋書の解読も行われる。
房之介は座学が嫌いだったようで、成績は次第に下降。
最終的には席次も35人中33位という冴えない成績が記録として残っている。
◆将来の夢
洋楽志向の福沢に学び、福澤の論文『日米貿易前途の望み』にも刺激を受け、貿易・商社を己の道にせんとして、商事会社に就職した房之介。
将来、自分で商事会社を興すことを夢見た。
また、房之介は福沢諭吉の座右の銘のひとつ「有無所畏(おそるるところなきにあり)」。
何事に対しても畏怖しない。たとえ死に臨んでも・・・
相当な覚悟と言ってよい。
この座右の銘を気に入り福沢に揮毫してもらい、自宅の額に入れて呪文のように唱えたという。
(学23期kz)
商法講習所