投稿「なくなって寂しいもの」に関連して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

37期の上野さんの投稿「なくなって寂しいもの」に関連して

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆90年代の地方の工場における情報系のネットワークの進展の軌跡について記載してみよう。

世間では、Windows95に沸き返った1995年があった。テレビのニュースではそのソフトの発売に併せ、徹夜組、また長蛇の列が出来た。そして、やっと手に入れたWindows95でも、用心しないと帰路の途中に盗難にあってしまうかもしれないほどの過熱ぶりであった。

地方の工場に仕事の中にWindows95が導入してされてきたのは確か96年だったと記憶する。

◆本社のオーナー社長は若い頃システム管理室の室長の経験も積んだ方だったから、コンピューターに関する敷居は低かった。既に基幹系のシステムは国内の「H社」のものでしっかり動いていた。そして、その後、会社の中では、生産統合システムと大きなプロジェ

クトを組み、中小企業の製造メーカーとしては、注目される内容のものとなった。

「H社」のシステムPRのような小冊子には、企業名は伏せられていたが紹介された。

ある意味、新たな情報系のネットワークを導入するには環境は整っていた。

◆しかし、地方の工場でどのように推進するのか?誰がキーマンとなって、みんなに普及していくのか、この辺は時の流れに任せるようなあいまいな状態だったような記憶がある。

当時の自分は工場総務で比較的若手でもあった。何とはなしに自分が少し勉強して、その役割を果たさないといけないかな?とぼんやりした感想を持っていたことは事実であろう。

そこで地元の商業学校で、夜学で無料でやっていた「Windows95入門」と言うような講座を自主的に受けてみた。その席には地元のケーブルテレビでネットワーク構築をするような人も参加しているような状況であった。つまり、地方では、まだまだ誰もがヨチヨチ歩きであった。

その講習が終わって、数カ月した頃だったと思うが、工場総務の人間に情報系のネットワークを広めるような役回りが振られてきた。

先ずは、四の五の言ったって、始まらない。コンピューターといえども通常の業務をコンピューターに業務を置き換える(置換)ことで成り立っているのではないか?と言った実感があった。

そこで、如何にも今の業務がどのような部分が、コンピューターの業務になるのかを対比することから始めた。

◆最たるものが『メール』(電子郵便)と言った仕組みだ。

郵便:

①紙と封筒の準備

②手書きの文字書きによる文書作成

③封筒へのあて名書きをして、切手を貼る

④郵便ポストまで赴いて、封書の投函となる。

大まかにはこれが今まで事務所の中で行われていた事であろう。

その後郵便物は赤いポストを中心として郵便局内での大まかには次の流れになろう。

⑤郵便ポストから郵便局員による集荷⑥局内での郵便番号ごとに郵便配送の振り分け⑦配達局での配達順による並び替え⑧オートバイにより郵便配達員さんが各お宅へ郵便物のお届けとなる。

もう、既にメールに慣れきってしまった皆さんなら、何をまどろっこしい説明なのか!

この実感が情報系のネットワーク凄さである。

パソコンに向かい、宛先をクリックして、件名を入力、敬称も時候の挨拶もすべてすっ飛びとなる。用件を書きこみ、送信ボタンとクリックすると相手のパソコンの受信トレーまで”電子郵便”は届いてしまうのだ。 

 

◆80年代半ばに社会人になってから、10年!

 劇的変化は突然やってきた!

上記のような流れをレジメの左右に並べ、説明の時もアナログとデジタルを具体的にテーブルの前に並べて先ずは皆で感じてもらう。

 

アナログ ➡ 紙と封筒 郵便切手 おもちゃの赤ポスト

デジタル ➡ 2台のパソコンを持ち込み”電子郵便”を送ってみる、返信してみる、送受信が成り立つ

文字通り、「習うより、慣れろ!」の勢いで社内には急速に普及していった。

◆「やぎさんゆうびん」(作詞:まどみちお)の童謡の歌詞をみてみよう。

 1 白やぎさんからお手紙着いた
   黒やぎさんたら読まずに食べた
   仕方がないのでお手紙書いた
   さっきの手紙のご用事なあに

 2 黒やぎさんからお手紙着いた
   白やぎさんたら読まずに食べた
   仕方がないのでお手紙書いた
   さっきの手紙のご用事なあに

こうした世界も生まれなくなる。

我々は便利さと時間と効率性を得たかもしれない。一方、その代わりに失ったものを自問自答してみると哲学的な問題になるかもしれない。

◆2024年1月に郵便はがき、郵便封書に関する料金が大幅に改定された。

ある部分儀礼的であったかもしれない年賀状の交換といった文化。

それさえ、30年の年月の間に、情報系のネットワークは打ち壊していった。 

(岡山B)

随筆 横目で眺めた経済学 ⑬財政支出の現場

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

財政支出・・・どのような分野に、どれだけの金額を、どのタイミングで支出するか。これが難しい。

一般論でいえば次の通り。

◆支出のタイミング

どこにどのように支出するかは議会、すなわち国会で審議され、決定される。

緊急に支出すべきであっても、こうした手続きが終えるまでは支出の執行ができない。

また、逆に国会の審議を経た時点では経済状況が好転し、その時点で支出を行えば景気を過熱させるということにもなりかねない。

このように、減税にしろ、歳出増にしろ、財政政策は執行までに時間がかかり、この点、金融政策とは効果出現までのプロセスに時間がかかるというデメリットがある。

また、ダムや道路などの大きなプロジェクトは、完成した時点で需要予測との齟齬が往々にして問題になる。

プロジェクトでは完成までに意欲的で楽観的な見積もりがなされがちだからだ。

ダムの場合にはムダな支出となり、山の中に「県道」を作ったはいいが、犬しか通らない「犬道」となったという笑い話もある。

◆歳出分野(生産性の向上につながるのか)

もちろん事前には予算当局が予算を厳しく査定するが、しかし結果的にそれが果たして望ましい効果をもたらすのかという問題もある。

予算は我が国の成長力を高め、世界でリードできるような政治的経済的なパワーの強化につながる分野に使われるべきだ。

果たしてこうした分野に効果的に使われるのか、疑問なしとしない。

困るのは財政支出が弱体化した旧来型の産業の保護・延命に向かいがちなことだ。

こうした産業は生産性が低く、こうした産業に資金が回れば日本の生産性は向上していかない。

1990年以降の失われた30年間に、予算は1.8倍になったが、潜在成長率は3.7%から0.3%になったとされる。

経済学的な観点から理想を言えば、「倒産に瀕した企業は退出し、生産性の高い企業が参入」すれば社会全体として生産性が向上していくが、現実はそうはいかない。

政治的なファクターが入り込むからだ。

◆交付金の中長期的な効果

日本全国で、歳入の弱い自地方交付税交付税交付金を交付すれば、日本国オールで均質な成長がもたらされるのか。

短期的にはそれでよいかもしれないが、中長期的に賢い使い方になるとは限らない。

むしろ逆効果になっている。

毎年補助金を得ているところでは、歳入の項目に補助金を前もって計上する。

毎年、当て込んでいるわけだ。

しかし、補助金に頼らず、財政が好転したところには交付税・補助金は来ない。

努力したところには来ず、努力を怠っているところには毎年補助金が付く。

しかも県別にみると一人当たり地方税+地方交付税は一部、東北や四国の件で東京を上回っており、国による過剰な財政調整が行われており、これでは地方が自助努力を怠るのは当たり前だ。

均衡ある国土発展という美名に名を借りた、過剰な財政調整・予算配分は既得権益化しており、これを断ち切るのは容易ではない。

◆補正予算

もう一つ、緊急避難的に予算が膨れる場合がある。

補正予算だ。

予算の費目に挙がる項目は時のキーワード。

「緊急対策」という名目で年度末の財政出動が行われることが往々にしてある。

緊急対策という形での補正予算。IT、脱デフレ、地方創生、脱炭素、再生エネルギー、コロナ緊急対策・・・

こうした名目で緊急的に補正予算が組まれる。

最近では7月の参議院選で各党が主張した消費税減税、一律2万円の給付金、ガソリン税の旧暫定税率の廃止、また、米国との交渉によっては、コメの輸入拡大に伴い影響が出る農家への支援なども補正予算での対応になる。

バラマキにしないため、財政支出は原則B/C(ベネフィット/コスト)が1以上望ましいが、「緊急」の場合、査定が粗くなりがちだ。

また、年度末の時期の予算消化は時として、予算消化のための残業が発生することもある。

使い残しをすれば、次年度は予算が付かないことを恐れるからだ。

「緊急事態」への対応としての補正予算の乱発は、財政赤字が拡大する大きな要因となっている。

(学23期kz)

新しい朝が来た、希望の朝だ! 柵原から美祢にバトンを

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆毎朝、6時30分になるとラジオから聞こえてくる。 

新〜しい朝が来た!希望〜の朝だ!

ラジオ体操の巡回だ。

8月8日の末広がりの日には、岡山県の中央山間地に位置する美咲町立柵原学園(平成の大合併から20年記念事業の一つ)を会場にラジオ体操が開催された。

(人口減少に伴い小学校の集約と中学校を、一体化した9年計画で義務教育をする学園)

子供会が主催で行われていた町内の夏のラジオ体操も懐かしい。

また、柵原の名前に柵原鉱山の名前が想起される方が居たら嬉しい限りだ。(かつては、日本を代表とする硫化鉄鉱の鉱山。片上鉄道、病院経営等々の旧柵原町のインフラを一企業が担っていた)

◆6時30分前の「30分」! 

ラジオの舞台裏では、大切な時間だ。

“前説”と言われる放送への準備の時間の時間だからだ。

伴奏をする生のピアニスト、体操の指導員。この二人の主客以外に、放送局のスタッフ、実施主体である美咲町のスタッフは大変だ。また、地域の婦人会も赤い前掛けで助っ人となる。

ラジオ放送開始と同時の大きな拍手、冒頭の参加者の声としての「おはようございます」の挨拶の発声練習、第一体操の8番目の体操(腕を上下に伸ばす運動)にあわせては、「いち!・に!・さん!」の掛け声をみんなで元気よく。

第一体操は小中学校の体育で叩き込まれてきるから、どれだけ体になじんだものか!を実感する。しかし、第二体操となると状況は一変する。如何に怪しい所作に各人がしているか…その様を想像するだけでも楽しい。

本番はラジオの放送のままなので割愛しよう。

◆”前説”の中では、より体操を身近に感じてもらうため、そして「笑い」を盛り込む工夫がされている。

例えば、左右の腕が違う動きをする体操。

右手は二拍子で足、頭の横、左手は三拍子で足、肩の高さ、頭の横、左右別々の動きも取り組んだ体操が紹介された。そうと言われても、左右の腕は全くの別物…(笑)

2×3だから、6になった時(最小公倍数)には、左右の腕の動きが揃うはず。その前に左右が違う動きを求められると頭の中は大混乱(笑)

老若男女が揃っているから、少し認知症予防のメニューを取り入れているのか…

帰り際には、ラジオ体操のカードの裏面に”参加”のはんこを貰っていたことも懐かしい。

◆ラジオ体操巡回のバトンは明日の朝には第二の故郷山口に渡される。

宇部サンド美祢球場だ。

そして、ラジオ体操の中には、社会的に重要な問いかけ(”新〜しい朝が来た!希望〜の朝だ!)が内包されていた。

(岡山B)

なくなって寂しいもの

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆「山口は盆地じゃけえ、夏はぶち暑いし、冬は底冷えじゃあ。」入学した時、先輩や同級生からよく聞いた言葉である。

故郷の福岡宗像からは直線距離では100キロくらいしか離れていないが、確かに住んでみると山口の気候は地元とは全然違った。

家庭教師先は、山口市から60キロ離れた徳佐。

車で1時間の距離であるが、3年間中学生の兄妹を教えに通った。冬は豪雪、スタッドレスタイヤを履いて、山道を毎週往復していた。

宮野の信号を超えたら、私の記憶が正しければ徳佐まで信号は2つしかなかった。車がほとんど走ってない帰り道に、ねずみ取りに捕まり、1発免停になった苦い記憶もある。

地元で三代続く歯医者さんで、家庭教師が終わると、おじいちゃん、おばあちゃん、曽祖母、生まれたばかり弟くん、家族10名で一緒に夕食。(朝ドラのワンカットの様な場面であった)

徳佐のコシヒカリや徳佐牛が毎回食卓に上がり、破格のバイト代もさることながら、お母さんが作る毎回のご飯が楽しみであった。

今ではこうした大家族での食卓はほぼなくなってしまった。

◆そんな学生生活から40年後、職場では、デジタルツールの目まぐるしい進歩とリモートワークの普及で、職場に行かなくても大半の仕事(特にデスクワーク)はできる様になった。

子育てや介護などがある人には、本当に良い時代になったと感じる。

ズームやTesmsといったオンライン会議ツールもあるが、業務上必要なコミュニケーションはメールかチャットで大半か行われている。

立場上、一日に100通を超えるメールやチャットを目にするが、辛辣な内容のものを見かけることも少なくない。これは、若い世代よりもむしろシニア(50歳以上)世代に多い様に感じる。

◆テキスト(文字)でのやり取りは時にして、送り手の意図とは裏腹に、受け手が勝手に拡大解釈したり、口頭では言えない様な強い文章になってしまったりと、受け取る相手がどう感じるかという、コミュニケーションの基本を忘れてしまっているものが多い。

そして何より、自分の権利や意見だけを発信する人が増えすぎた。恥じらいや躊躇というものがなくなった社会は本当に寂しい。

我々の世代の憧れであったアメリカのリーダーがそうであるから、これは40℃を超える猛暑と同じく、受け入れざるを得ない現実なのであろう。

猛暑のおり ご自愛ください

学37期 上野啓

徳佐の田園風景

少子化と「総体」大会運営

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

人口減少が我々に“変わる事“を求めている。
◆人口減少は様々な世界に影響を及ぼす。
スポーツの世界にもその影を残し始めている。そして、その運営には、経営の善し悪しが影響を及ぼし始めている。

「輝け 未来の扉 中国総体2025」高校総体が今、中国地区管内多県に分散して開催されている。
岡山ではソフトボールの大会が開催されている。

◆総体というと嘗ては“開催県“があったが、県単位から地区割になっている。
また、実績のある強豪校といえども、部員数を単独では集められないケースも出ている。そんな場合は近隣の学校との合同チームによるチーム編成を余儀なくされる。

◆ソフトボール小僧だった自分は、男子開会式に参加してみた。
開会式は先ず体育館の中で選手は着座して始まる。

行進はなしで、その代わりに起立してチーム紹介。

選手、チームへの応援の拍手も全体を一括して1回のみの拍手!
関係者、歓迎の挨拶は従来通りだったが、極めつけは、選手宣誓。
宣誓をするチームが合同チームに該当したので、旗手がそれぞれの校旗を掲げる。二人のキャプテンが壇上に登り、手をあげ、宣誓を前半、後半と分けての二人による宣誓!

選手宣誓をした2校のうち、1校は嘗て全国制覇をした名門。既に地域の2つの学校を統合して生徒数の確保、学校経営の維持を計ってはいる。その学校が今度は部員不足を合同チームによって、ある解を出している。

大会運営にも高校生が中心になって、企画進行されていた。(勿論、各運動組織、協会、行政、地元の協力、支援を戴きながら)
組織運営に関しての学問として、経営学があるとすると、大会運営に、チーム構成に、また勝利を勝ち取る過程において、本から学ぶ経営学でない、実体験に基づく経営学を既習しているのかも知れない。その姿が想像出来る。

◆「艱難 爾を玉とす」と古人は言う。

合同で選手宣誓をしたチームには、この厳しい環境下での全国大会出場に先ず感服し、あわよくば、是非全国制覇を願ってやまない。(高校野球界では爽やかイレブン等の事例もある)
合同チームの名は、新見高校+総社高校合同チーム

…判官贔屓はなしにしても、熱く応援したい。

偶々だが、「世界は経営で出来ている」と言う新書判の本が好評だと言う。

(岡山B)

高杉晋作のはなし その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

奇兵隊を創った人物として知られる高杉晋作。
「聞いて恐ろし 見ていやらし 添うて嬉しい騎兵隊」

高杉の生き方は、松陰の教え通りの人生だったのではないか。

松陰曰く

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。
不朽の高杉晋作となったかにみえる・・・

奇兵隊は下関で生まれた。資金は廻船問屋で「勤王商人」の白石正一郎が出したのだ。

白石は勤王の志士と交わりがあり、西郷とも自宅で会っている。

しかし白石は西郷と会った時以上に、高杉と出会った時に衝撃を受けたという。

高杉の人生は不思議な人生。

不思議で奇跡的な功績が付いて回る。

◆功山寺挙兵

これも不思議な話だ。

よくできた話だ。

本当か?

いわゆる元治の内乱の話だ。

元治元年(1864年)、7月に禁門の変、8月に四か国連合艦隊下関襲撃事件で急進派(改革派・いわゆる正義派)が勢いを無くし、同時に幕府への保守派(幕府への恭順派・いわゆる俗論派)、椋梨藤太が勢いを増した。

保守派の下で、1965年5月、幕府の第1次長州征伐に際しては、四か国連合艦隊の攻撃、賠償請求もあり、長州藩は窮地に立たされており、幕府の申し出に従うほかはなかった。

また、今は国内の勢力同士が戦い合う場合ではないという西郷の判断もあり、長州藩主親子の詫状差し出し、3家老(益田右衛門介、国司信濃、福原越後)の切腹、5公卿の太宰府への移居となり、椋梨の政敵・周布政之助も失脚した。

急進派の一団・「甲子殉難十一烈士」は野山獄に投獄され、後に粛清された。

このように第1次長州征伐は戦わずして終結した。

この時急進派の高杉は一時潜伏し、福岡の野村望東尼のもとに身を寄せる。

◆しかし、高杉は長州藩を生き返らせ、輝きを取り戻すには、統治能力を失った幕府を倒すこと、またそのためには萩の保守派(俗論派)を倒すことを目指して挙兵する。

1864年、雪の舞う12月、高杉26の時。

この時には奇兵隊は立ち上がっていたが、奇兵隊総監(管)赤禰武人や軍監・山縣有朋も当初は同調しなかった。

結局高杉に賛意を示したのは伊藤俊介(博文)と彼が率いる力士隊30名だけというありさまだったという。

この時の高杉の心意気。

「たとえ自分一人でもやる」と。

肝が据わっている。

この時は、高杉の後を追う者があったとしても、勝算があったか否か定かではない。

(学23期kz)

功山寺(下関市長府)

西瓜の水遣り

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆我が家には”こだま”と言う品種の西瓜、その小玉が大きくなりつつある。

それは苗を植える前の土作りから始まった。

猫の額への植付け…

西瓜の花が咲いたら、人手による授粉のお手伝い。

水遣りも過度にならない様に気を配って、やっと今日に辿り着きます。採取前になる頃には獣害に遭わぬ様、自家製の白衣(しらごろも)を纏わせて。

◆金子みすゞの「こだまでしょうか」は”こころと言う山”に対しての”こだま”であろう。
我が家の小さな玉になった“こだま“にも同様に声掛けしたい。


『こだまでしょうか』

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。


手間を掛けた分、愛情を掛けた分、素直に育つ“こだま“。
この途中には小さなジョロを持って、よちよち歩き、びしょ濡れになりながら…応援してくれたチビの存在、彼の遊びの中に生があります(嘗て、みんなが歩んだ“よちよち歩き“)

(岡山B)

高杉晋作のはなし その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

◆高杉の刀

高杉の写真は座ったものしかないという。
高杉の背格好は推定では5尺3寸(160センチ)と小柄だったようだ。

丈が小さいことを気にかけていたようで、背丈が知れないように座った写真しか撮らなかったともいわれている。

二~三人で写真に納まる時は座って映り、独りで映る時も座った写真しか撮らせなかったようだ。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」という割には、結構ナイーブじゃないか!

◆長い刀

しかしその分、長い刀を持っていたという。

刀の丈は、通常、身の丈から3尺引いたものを差すものとされ、高杉の背丈が5尺3寸のため、2尺3寸程度の刀を差すべきところ、高杉の刀は2尺5寸あったという。

刀は本人の分身。

2尺5寸の高杉の刀は高杉の背格好が5尺5寸、約1メートル66~7センチと思わせる道具となる。

◆軍事の才能

絶対的な兵力差がある中で、奇襲攻撃を仕掛け、勝ちにつなげる才能があったようで、一部の識者からは高杉を「軍事の天才」と呼ぶ。


◆奇兵隊

馬関戦争にあたり、騎兵隊を立ち上げる。

1863年6月の話だ。

外国艦隊への攻撃がその前月で、1863年5月のこと。

長州・下関防衛の意味もあった。

筋書きは周布正之助が書いていた。

洋式兵制を取り入れたもので、銃隊が中心。

従来の鎧を纏った藩士、武士が中心の兵団から中間(ちゅうげん)や足軽などの軽卒が隊の中心となった。

中国の兵書に正兵と奇兵あり。わが国には正兵はいるが、奇兵はいない。

奇兵・・・松陰の草莽崛起を思い出させる。

各階層からの寄せ集めた集団で、正規兵ではないということだ。

これまで軍事は武士階級のものであったが、人民武装化ということになる。アメリカ独立戦争のミニットマン(民兵・農民兵)に類するものかもしれない。

高杉は人の心を掴むのが上手かったようだ。

土塁造りに女・子供まで加勢し、盲人はそれらの拍子をとるために櫓の上で太鼓を打ったという。

つづく

(学23期kz)

萩博物館 高杉晋作資料室(萩市観光協会)

定食屋「一粒」

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆山大通りから横に山口大内方面のバイパス沿いに確かあった定食屋“一粒“さん。この7月31日をもって、閉店された。
(ご飯“一粒一粒“を大切に食べて欲しいからと名付けられた屋号)
山口のニュースで放映された内容、YouTubeに投稿されたものを友人が案内してくれた。

◆80年代、ゼミが終わった後、プチ贅沢として、よく仲間と“唐揚げ定食“を戴いた記憶がある。
記憶が正しいとすると当時既に老夫婦がやっていた?かな…
すると2代目さんも学生さんの為に頑張ってくださったんだな!とも思う。
それも1977年開業から48年間!
ある意味、みんな長門館の中華丼で、一粒の定食で、弥生の定食で大きくして貰った。
勿論、当時学食の100円カレーはベースにある。

暖簾の“一粒“の文字がとても懐かし〜〜い!
そして、インタビューに答えている2代目さんの声には、正統山口弁がある。

弥生も長門館も既に無くなっている。 時代が流れていく…

(岡山B)

何で木は長生きなの?

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆7月11日「チコちゃんに叱られる」で取り上げられた命題。

何で木は長生きなの?  何で、 何で?  

テレビの番組の中では、しっかり答えが出来ないと”ぼ~~と生きてんじゃねぇい!”と叱られる。

その答えは、又「禅問答」の様で味わい深い。

「死にながら生きているから、長生きが出来る」・・・と解説をする回答!

(ここからはテレビで紹介された内容の要約である)

◆動植物が生きるという事は細胞分裂を繰り返し、常に新しい細胞を生み続けることが生きることに通じる。そのロジックの繰り返しが永遠に続くなら不老不死になるかもしれない。

が、そうは簡単に問屋が卸さない。

人間などの細胞は、細胞分裂を繰り返す中で、その細胞内のDNAなどに傷をつけるリスクが増大してくる。そうなると賢い細胞分裂(自然の摂理)は抑制的になり、細胞分裂をして新しい細胞を補うことをやめる。

古くなった細胞は老化する細胞となり、一つ一つの細胞が弱体化する。

そして、その総体の変化が生物として”生の終わり”へと導く。

◆一方、「木」は、心材、辺材、形成層、そして樹皮と木の円心から外へ外へと四層をもってその構成をなす。

心材は細胞から言うと”死んでしまった細胞”になる。辺材は水分、栄養を木全体に配る管となる。(ある意味、仮死状態でもあると言える)

成長して木が太っていく(大きくなっていく)のは形成層の太りとなる。

これも一年経つと年輪と言う形で層を作り、辺材の一部となり、成長を助ける。

心材は死んだ細胞と言いながら、これが木の軸となり、強度の基礎となる。

この心材が上下の縦方向の圧縮の圧に関しては、鉄の1.8倍もあるというから、木造建築の強度の源泉を知ることが出来る。

心材、辺材が木の幹となる。

樹齢千年の木は、その木を伐採した後も改めて千年の寿命があって、生き続けるという。法隆寺や正倉院の木造の建物を見てもその生命力には恐れおののく。(こちらは檜の建物)

スギと言う木材で言うと、心材は赤みを帯びた部分となる。この赤身は重宝され、「杉の木のトロ」マグロで言う一番高価なトロに値する。

”虎は死して皮を残す”、杉の木は細胞として死んでいる部位”杉は心材を残して、その価を高める”となる。

それはそうだ、あの赤身の美しさ、そして、心材で良いものになると、全く節のない無節、木目が揃った桝目の柱材なども取れる部位になる。壁材等の板材としての利用でもその赤目の材は人の目をうっとりさせる。

◆木全体の容積(材積)からすると、その90%は死んでいる。

死んでいることを逆手にとって、少ないエネルギーで生き続ける。木自身にこれと言った特別な急所がない。植物などは守りが強く、人間よりずっと長く細胞分裂の循環を維持できる。

倒れた木から木が復活することもある。そう、倒れて枯れた木を恰も土のように利用し、再び萌芽することがある。その逞しさや!

屋久杉と言われる屋久島自生の杉は1000年以上樹齢を持ったものをその名で呼ばれる。

高温多雨、垂直方向の高低差(気温差で言うと九州から東北までの気象条件がその限定された地に存在する)、花崗岩が主で、豊かな土壌とも言えない土地でも生きるために深く根を張る。

成長が遅く、木目(年輪)が詰まっている。降雨が多く湿度が高いため、自分自身を守るため、自ら抗菌作用のある樹脂分を多く生成し、腐りにくい特徴を持つ屋久杉となる。

縄文杉と言う大木が屋久島の山奥深くに雄々しくたっている。 大株歩道沿いにあり、1966年発見。幹周:16.4m、樹高:25.3m、樹齢:推定2,000年〜7,200年とも言われている。

何かこまごました事にある意味右往左往していたかもしれない若き日の自分

・・・もしそうだとすると、「まぁ~、そんなちっちゃなことでバタバタしんさんな」と諭されているような気持になる。

自分の足でしか、たどり着けない地ではある。しかし、その汗を流す価値は十二分にある。(雨に打たれながらも)

(岡山B)