忠臣蔵考①遺恨の在り処

◆吉良邸訪問

第3回長州歴史ウォークでは本所の吉良邸を訪ねるところから出発する。

吉良上野介は地元三河国を中心に飛び地も含め知行4200石の高家旗本。お国では新田開発、塩田開発、堤防新設を行い、名君として通っていたとされる。

最近では吉良上野介を「弁護」する歴史家が増えている感がある。

◆闇の中の「遺恨」

忠臣蔵には分からないところが多い。

これは浅野内匠頭公がしかるべき弁明をすることなく、またお上も十分な取り調べをすることなく、即刻切腹処分と相成ったためだ。

「この間の遺恨、覚えたるか!」

その場に居合わせた第三者の日記に残る、浅野公が発したとされる言葉、斬りかかる際の迸った感情が伝わる。

しかし「遺恨」が何かについてについて、分かるようで分からない。

ここに様々な憶測が乱れ飛ぶ。

松の廊下事件の謎解きをするのに、ピースを繋ぎ合わせパズルを完成させようと各人各様に試み、事件を整合的に解き明かすような筋立てがあれば得心が行く。

ここで必要なのが想像力だ。しかも説得力のある想像力であり構想力でなければ面白くない。

この刃傷事件は赤穂事件の始まりであり、前半の一つのヤマ場となっている。

「遺恨」の中身を巡っては、実の多くの書き手が筋立てを試みており、ミステリー小説の巨匠と言われるまでになった森村誠一も分厚い小説「忠臣蔵」上・下を出しているほどだ。

◆説得力ある「構想力」

こうした読み物の中で、最近「その日の吉良上野介」(池宮彰一郎著)を読む機会があり、問題の「遺恨」について、「事実のかけらを想像力で結び合わせる」作業をうまく行っているような印象が残った。

以下参考までに筋書きを紹介する。

吉良公が元禄14年春に京都からの勅使を饗応するが、その年の正月、吉良公は京都へ年賀の挨拶に向かった。しかし京で食あたりをおこし、江戸に帰るのが遅れに遅れる。

この間、浅野公(5万石)は格下の伊予国吉田領主(3万石)・伊達左京亮宗治公と、指南役たる肝煎・吉良公を欠いたまま饗応の準備を進めていた。

吉良公がようやく江戸に着くが、饗応の手配をする残された日にちはわずか数日という様であった。

浅野内匠頭は18年前、17歳の時に最初の饗応役を務め、これが二度目の饗応役であり、前回のしきたりを知るがために、最近になって変ったいくつもの重要なしきたりの変更を踏まえていなかったのだ。

そこで浅野公が手配した饗応の準備に目を通した吉良公は「違う」と苛立ち、浅野公を格下の伊達公ほか関係者の前で幾度となく叱責が続く。

時間が無い中で吉良公が指示を出すが、日がないこともあり、吉良公は気が急いている。また年寄りになると気も短くなるし、饗応の仕方が18年前と少しずつ変わってきた経緯を浅野公に詳しく説明している時間が無い。

自ずと吉良公の言葉も荒くなり、吉良公からきつい叱責がいくつも飛ぶ。

◆吉良公の述懐

松の廊下の事件があったその年の瀬。

翌年早々に江戸を離れることが決まり、知人との惜別の茶会の準備をしている時、当時を振り返って「浅野は悪くない」、と側近に述懐する。

饗応する相手の公家はわがままだ。毎年好みを少しずつ変えてくる。

18年前は間違いのない手配であっても、年々手配の中身が先方の好みに応じて変り、今では間違いとなっている。18年の好みの変化の蓄積は大きいと。

浅野公は若手の伊達公の前で叱責を浴びながら必死になって吉良公の指示に振り回され、恥をかく日が続きながらも必死になって指示に従う。

浅野公が必死なら吉良公はもっと必死だった。なぜなら、吉良公は高家肝煎。朝廷からの使者の饗応に問題があれば、高家の立場そのものが危うくなる。吉良公の方がはるかに必死だったと。

それなりにリアルな筋立てだ。(つづく)

(学23期kz)

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