関門海峡 

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年3月トピックス】

◆小倉―松山フェリー

昔、瀬戸内海を挟んだ山口の対岸、四国・愛媛県の松山市に勤務したことがある。松山から実家のある鹿児島本線沿いの熊本に行く際、もっぱら松山--小倉間を結ぶフェリーを使って九州に渡った。

かつては松山から熊本まで佐田岬の真上を飛ぶ天草エアラインの熊本線があった。ボンバルディア社のプロペラ機で低い高度で飛び、きれいな島々がよく見えるため気に入っていたが、採算が取れなくなったとみえて廃線となった。

鉄道を使うという手もあるが、四国から九州の鹿児島本線沿いの都市へは行きにくい。

松山から一度香川の高松まで戻り、瀬戸大橋を渡り岡山へ渡り、岡山から山陽本線を苦だって九州へ向かうことになる。「コ」の字型の経路になることになり、いかにも効率が悪い。

◆早鞆の瀬戸

フェリーは松山港を夜の10時に出て、小倉港には翌朝5時に着く。

関門海峡の東端である早鞆の瀬戸。下関・壇ノ浦と北九州門司との最狭部にあたる。

ここを通り、壇ノ浦の古戦場跡を通過し、関門橋をくぐり、彦島の脇を通って小倉港に入ることになる。

ここの潮の流れは速い。海上保安庁の外郭団体が作っている潮流表があるが、潮の干満によって、1日に6時間ごと4度、潮が変わる。

潮の流れは早い時で8ノットほど(10ノット=時速約19㎞)だという。過去には12ノットになった時もあったという。

下関の日の出は早い時で5時少し過ぎだ。空が明るくなるのは日の出の30分くらい前から。そのころには山の稜線が見え始める。

◆松本清張と関門海峡

清張の作品には下関、門司、小倉を舞台にした作品が多い。

清張の父は短編小説「父系の指」に描かれているのが恐らく本当か本当に近いのではないかという気がする。伯耆(鳥取県)の国で中国山地の山奥(鳥取県日野郡日南町矢戸)から、米国取引所などがあり活況を呈していた広島に出た後、小倉に住み、そこで清張は生まれた。

父は一旗揚げようと下関に渡る。このため清張も父に伴い11歳まで彦島で育ったが、父の商売がうまくいかず、一家は小倉に戻ったようだ。

清張の作品では、下関から見た指呼の間(しこのま)の和布刈(めかり)地区が舞台になった小説がある。フィルムをトリックに使った完全犯罪の作品「時間の習俗」。その出だしの見出しが「和布刈神事」とある。毎年旧暦の正月に神主が潮の引いた海に降りて鎌で若布を刈り、神前に供え海の幸の豊穣を祈るというもので、古事記にも出ており、2000年の歴史がある。

また清張には小倉に一時期滞在した森鴎外を題材にし、芥川賞を受賞した有名な「或る『小倉日記』伝」がある。

小倉滞在時の森鴎外を追う一人の青年。異才を持ちながらも障害を抱えたその青年と、青年を支える母。昭和初期を時代背景にした清張らしく重くて暗い作品だ。子を思い、美貌の容姿を持ちながらも自らを打ち捨て、不自由な我が子に思いを遂げさせようとする母の姿には胸がつまる。

◆関門海峡の潮の流れに乗って 高商3年時の名物・海外渡航

明治40年(1907年)、高商の3年時に一か月程度の行程で「満韓地方や支那」へ向かう修学旅行が始まったという。商業施設や工場の見学をし、実業界各方面の講演を聞き、報告書や論文を提出させ、それが成績考査の対象とされたという。当時、授業の一環で海外渡航を実施する学校は例がなく、画期的な催しとして注目を浴びたようだ。

また、この時に先輩たち一行が被っていたカンカン帽の姿が有名になったという。

この時先輩たちが出航したのが下関港。

先輩たちは関門海峡の潮の流れに乗って響灘を通り、釜山や上海に行ったのだ。

(学23期kz)

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