蘭カッテンディーケ教官と勝海舟

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

長崎海軍伝習所の教官として来日したオランダ人ヴィレム・カッテンディーケ。

カッテンディーケ教官は1857年9月に幕府がオランダに建造依頼したヤーパン号(のちの咸臨丸)に乗ってやってきた。

彼は長崎の海軍伝習所で教えた時のことを「長崎海軍伝習所の日々」の中で書き残している。

◆わがままな生徒たち

やって来た当初、伝習所の生徒の年齢が高く、プライドも高く、辛抱強く学ぶという態度に欠けた生徒に面食らう。

それもそのはず、生徒として幕府から送り込まれてきた者は「旗本」たちで、齢が長じた者ばかりだったという。

確かに日本人は物分かりが早く、鋭敏だが、このため、ちょっと覚えると好奇心が満足して、すぐほかのものに関心が移り、飽きっぽい性格も有していると観察している。

また、「この技術は教わるがあっちはやらない。学ぶのはこの教科だけ」といったわがままな生徒ばかりだったという。

◆勝海舟

こうしたなか、勝海舟はオランダ語を理解し、性格も明朗で親切でもあったため、オランダ人たちは勝海舟に非常な信頼を寄せていたという。

伝習生との間にトラブルが起きても、勝が間に入ればオランダ人も納得したという。

幕臣でありながら明治新政府にも仕えた勝海舟。

当時、勝への評価は芳しいものばかりではないが、長崎の海軍伝習所での勝の評判は頗る良かった。

逸材

こうしたこともあり、徐々に教育が浸透していく。

カッテンディーケ教官は、これまでのヨーロッパ人は日本に長くいればいるほど日本人のことをよく言うものが多いが、確かに日本人を知れば知るほど美点が現れてくる国民だとしている。

この中で優れた資質を持つ生徒が多かったとしたが、特に優秀な生徒として、榎本武明と伊沢謹吾(のちの軍艦奉行)の名を挙げている。

◆離日の辞

カッテンディーケは日本を去るにあたり、次のような言葉を残している。

「まったく何の知識もない国民がわずか4年で海軍を創設しようというのはそもそも欲張りすぎだ。だが彼らはその短い期間に4隻の蒸気船を持ち、外国人の助力なしでやっていけると思えるまで上達した。これは、むしろ驚嘆すべきことといっていい。

伝習所の学習は中途半端に終わってしまったが、本官は日本人が持ち前の理解力と、旺盛な記憶力や恵まれた才能で、覚えた知識をさらに拡充し修練を積んでくれることを切に望む」。

そしてカッテンディーケは1859年11月に日本に別れを告げた。

勝が咸臨丸艦長としてアメリカ海軍ブルック大尉ら数十名のアメリカ人とともにアメリカへ向かうのはそのわずか二月後の1860年1月だった。

(学23期kz)

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