財界で活躍した経済学部出身者に知り合いの名前が…

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年5月 トピックス】


◆先日、ネット検索していて、Wikipediaで山口大学人物一覧OB・OG編に知り合いの学23期 T・K君の名前が出ていて吃驚仰天。

◆5月12日に東京支部トピックスに「ソフトクリームクレーマー?」と題してグループ子会社のミ○ストップの投稿をしましたが、続編です。
一浪して経済学部に入って来た高校時代(2、3年次)のクラスメートのT・K君が私と同じく5年掛けて卒業したようで、スーパーJに就職し、関西の某店舗の店長をしていたのは同窓会の卒業生名簿で知っていましたが、その後、社名も替わり総合スーパーA○ONの常務になっていて、不振の競合会社のマイ○ルを吸収し社長迄務めていたとは。

◆彼が入学して来て、亀山や吉田キャンパスの講義で遭ったことはありませんが、狭い山口の街で出くわしたことは何度かありましたが、お互いに「やあ、やあ。」と挨拶する程度でした。
高校時代の体育のサッカーの時間は特にサッカーが得意な仲間と大声を出して連携して活躍していて、体育会系のイメージで、ドリブルも出来ず、後方にいて、偶々、ボールが来たら蹴り返す私とはタイプが違いました。

◆今回の投稿に際して、彼と小学校→中学校→高校が一緒で大学の学部は文理学部化学専攻と違えど、同じ大学に一浪して入学した友人のW君にヒアリングしましたら、中学時代は野球部に所属し、広島市に合併前の安佐郡の野球大会で活躍したとか。
何年か前に中学の同窓会の案内をしたら、奥様から連絡があり、68歳の時にジムで倒れ亡くなったのを知ったとか。
お兄様も地元中国新聞の社長を務められ、今年亡くなられたとか。
もう一人、一浪して文理学部化学専攻に入学した高校のクラスメートM君に連絡したら、入学して茶道部で一時一緒で彼は体育会系の人間で、リーダーシップがあり、出世欲もあったのではと。
高校時代も硬式野球部で活躍し、広島大会の予選で修学旅行も行けなくて残念がっていたとか。
私も高校入学と同時に硬式野球部に入り、左腕投手をやりたかったが、投手だけなら甲子園に行けると言われた同級生や体格がよく重い球を投げる同級生がいて、グランド整備や他校との練習試合でしたが、1ヶ月余りで退部しました。
彼は入学時にいなかったので、その後、引っ張られ、入部したのかな?

◆一時はアンチA○ONグループに傾いた時期もありましたが、3年位毎日、出勤時に職場近くの最寄り駅近くにある まい○すけっと でパンと飲み物を買っています。
安くて助かります。

◆亡くなられたのは少し早い気もし、残念ですが、会社の飛躍に貢献する実績を挙げ、大出世を遂げられ、羨ましくもあり素晴らしいです。
小生ごときが投稿するのもどうかと思いましたが、我が学部同窓会の誇りではと思い投稿しました。
(学22期 Y・Y)

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幕末官僚の優れ者(その2)岩瀬忠震②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 5月トピックス】  

◆ハリスとの条約交渉

ハリスはしばしば岩瀬に反論されて答えに窮し、また岩瀬に論破されて条文を何度も改めたとされる。

ハリスは英国を始め欧州は油断すると怖い存在であると認識させ、その前提で米国との通商条約交渉を有利に進めていこうとするが、岩瀬はそうしたハリスの欧州の悪口をたしなめることもしている。

◆英国人の岩瀬評と岩瀬のジョーク

英国とも安政5年7月18日に日英修好通商条約が締結された。

ひと月前に日米間で通商条約が締結されており、交渉は比較的スムースに行われたようだ。

日英通商交渉・締結の当事者となった第8代エルギン伯爵の秘書・ローレンス・オリファントは日本滞在中の記録(和訳書「エルギン卿遣日使節録」)の中で、岩瀬忠震のことを「彼こそが日本で出会った中で、最も愛想の良い教養に溢れた人物」と記している。

またここにでてくる岩瀬のジョークがある。

交渉の際、会食を重ねるが、日本側は出されるハムとシャンパンをとても好んだようだ。

「ハムとシャンパンに猛然と襲いかかる」ほどの勢いだったという。

そこで岩瀬が放ったジョーク。

「条約にはハムとシャンパンの味がしないようにしないといけませんね」

一同大爆笑だったという。

◆日本人の岩瀬評

日本人の岩瀬評はどうか。

橋本左内「急激激泉の如く、気力盛ん、決断力あり、知識あり、断あり」

木村芥舟「資性明敏、才学超絶、書画文芸、一として妙所至らざるなり」

若くから学業に秀で、ユーモアに富み、頭の回転は群を抜いていたそうだ。

ああ羨ましい。

こうした幕臣がいたからこそ難航する条約交渉が「曲がりなりにも」まとまった。

こうした優れた幕臣がいたことを忘れてはいけない。

しかし、悲しいかな将軍継嗣問題もあり安政の大獄で免職となり、44歳で病没する。

・・・

惜しいかな、何ともあっけない最期となった。

(学23期kz)

幕末官僚の優れ者(その2)岩瀬忠震①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 5月トピックス】  

◆幕臣三傑 

混迷する幕府の外交路線を積極的な開国・通商の方向に運び、米蘭露英仏の五か国との通商交渉・調印にあたり、日本の外交を一身に担った外交官だ。

福地源一郎は「幕末政治家」の中で、幕末の三傑(幕臣)として、水野忠徳、岩瀬忠震、小栗忠順(ただまさ)を選び、柴山川崎三郎は著書「幕末三俊」として矢部定謙(さだのり)、川路聖謨、岩瀬忠震を挙げている。

この両者に共通して入っているのが岩瀬忠震だ。

1818年生まれ。

以前この欄で取り上げた長州藩士・長井雅楽より半年上、ほぼ同年代だ。

1843年(数え年26歳)に昌平黌大試合格。

幕末当時、外国船が開国・通商を求めて来航した時、幕府は水戸の徳川斉昭の攘夷派もおり、開国派も消極的開国派という慎重派が多数派であった中、岩瀬はいわば積極的開国推進派の最右翼であった。

開国が世界の大勢と認識し、貿易通商で富の蓄積を図り、新技術を導入し、富国強兵によって世界に出ていくとの思想を持っていた。この思想は明治期になると当たり前の思想になったが、この当時では突き抜けた思想の持ち主だった。

岩瀬は阿部正弘に目を掛けられ急務の業務に専念した。

阿部正弘の稿で阿部が成し遂げたとしての紹介した講武所、蕃書調所、また長崎に開いた海軍伝習所などすべて岩瀬が手掛けたものだ。

◆安政の五か国条約調印者

外国奉行(外交官)も務めた。

安政5年(1858年)6月19日 日米修好通商条約締結を手始めに、オランダやフランスなど安政の五か国条約のすべての調印者となっている。

思想的にも実務的にも優れた官僚であった。

つづく

(学23期kz)

岩瀬忠震とハリス

ソフトクリームクレーマー?

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年5月 トピックス】  

2007-3-10mixi投稿分より引用

◆介護施設に入居する前の母を自宅で面倒を見ていた時、深夜に無性にソフトクリームが食べたくなって母に買って来ようかと話すと、母も食べたいというので、自宅から5分もかからない、コンビニに行った。
朝はコンビニ弁当を買っていたが、いくらアイス類が好きでも朝からソフトクリームを買うことはまずなくて、昼間の時間に時々ではあるが買ったことはあった。

◆深夜1~2時に行くと、店員が、「この時間はソフトクリームの洗浄時間なので、出来ません。」という。
「だって、昼間、24時間オーダーを受け付けますという看板が貼ってあったではないですか。」
店員曰く、「機械の洗浄は、衛生上、一日一回は必要です。これはお客様のためにやっているのです。」
よく見ると昼間なかった「機械の洗浄中はご容赦願います。」との小さな看板が貼り付けられている。」
私曰く「だって、昼間、24時間オーダー可能と謳っているのなら、きちんと守るべきで、それなら、機械を2台用意するか、24時間オーダー可能の看板は下ろすべきではないか。」
機械は2台用意すると費用がかかりすぎて出来ないという。

◆店員の人にこれ以上話しても埒があかないので、後日、このコンビニの本部に電話をしたら、担当者が出てきて、趣旨を話したが、表示の看板は下ろすわけにはいかないという。
「24時間オーダー可能を謳い文句にしていながら、均質のサービスを受けられないのはおかしいのでは。」「今は、各人の生活も多様化していて、毎日、その時間帯にコンビニに行く人は、ソフトクリームを全く食べられないのですか。」
「洗浄時間が必要なら、お客が均等にサービスを受けられるように洗浄の時間帯も、毎日変えてはどうですか。」
「あなたの一存では決められないのはわかるが、会社のトップなり幹部の人とよく相談してみてはどうですか。」とアドバイスしたが、「変えられません。」の一点張りで、私には納得のいく説明もなく、これ以上話しても、パワーを取られるだけで、「私と同じような要望が出てきたら、検討してみて下さい。」と言って電話を切った。

◆このコンビニはソフトクリームを売りにしていて美味しいが、小さい。
子供用に買い易い値段の180円と設定すると、小さくなるのであろう。
私は高くてもいいので、ボリュームあるジャイアントなソフトクリームが食べたい。(笑)
こんなオヤジは世の中には珍しいのかもしれない。(笑)
【続く】

(学22期 Y・Y)

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幕末官僚の優れ者(その1) 川路聖謨②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 5月トピックス】  

◆プチャーチンの秘書官・ゴンチャロフとは

川路の人物を描写し、後世に伝えたのはイワン・アレクサンドロウィッチ・ゴンチャロフ。

ゴンチャロフがプチャーチン提督秘書としてパルラダ号に乗り込んだときはロシア大蔵省貿易局の係長であったが、当時既に文学作品も何冊か発表しており、文壇的にも認められていたという。

ゴンチャロフは母を亡くした精神的な打撃を受け、役所勤めに支障を来し、文学作品を書く筆も止めていた。こうした時に友人から遣日使節プチャーチンのために渡航記録を作る秘書を探していることを聞いた。

こうした精神的に塞いだ時期に広い海、遠い国々、見知らぬ人々。特に日本への遠征は「鍵をなくした玉手箱」であり、世界中に残されたほとんど唯一の謎の国たる日本の門を開くべき使命を持つものだ、として大いに食指が動いたようだ。

そこで秘書官に応募したところ、大蔵省在勤17年子経歴から来る該博な造詣、本格的な語学力、優れた文学的才能から直ちに採用となったという。

◆川路の評価

川路はどの任務に就いても、日本のどこで仕事をしても、評価はすこぶる高い。

勉学に長け、ウィットのある川路はどこに行っても人気があり、川路を迎える方は川路を放したがらなかった。

この時代の知の巨人であり、辛口の横井小楠をして「非常の英物なり」と言わしめた。

外国との関係については消極的開国派と位置付けられるが、幕府を背負う立場からすると、

これまでの幕府が行ってきた事、諸関係の継続性という立場からは、こうしたスタンスは致し方のないところだろう。

◆幕臣の川路、あくまで幕府と共に

しかしこうした川路も将軍継承問題で、引っかかってしまう。

それでも川路は最後まで幕臣のど真ん中に居た。

安政の大獄で閑職に左遷され、桜田門外の変で再び、外国奉行・勘定奉行につくが、卒中を患い半身不随となる。

慶応4年、江戸開城3月15日、江戸城開城を前に自宅で自害。

左半身不随のため、右手一本で割腹し、さらにピストルで喉を打ち抜いて果てたという。

幕府に命を奉げた川路らしい壮絶な最期だ。

川路聖謨を描いた小説に吉村昭の「落日の宴」がある。

(学23期kz)

ゴンチャロフ

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幕末官僚の優れ者(その1)川路聖謨① 

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 5月トピックス】  

幕末を描いた本を開くと、「川路聖謨」の活字をいたるところに見つけることができる。

名は「としあきら」と読む。なかなか読めない。

◆露・プチャーチン来航

ペリーが来航した直後に、4隻を率いてフリゲート艦パルラダ号に乗って長崎に来航した露・極東艦隊司令官プチャーチン。

ロシアとの間には、米国とは異なり北方領土境界問題を抱えていた。

ペリーと異なり幕府の指示通り、長崎で通商交渉をする。

外国奉行川路聖謨が全権代表として対応したのが川路聖謨(としあきら)だ。

一度目はペリー来航直後に来航したが、ロシアはクリミア戦争に突入し、英国・フランスとも敵対関係にあったため一旦退却する。

翌年下田に再来航するが、安政の東海地震により、載ってきた軍艦を失い、条約交渉は中断した。

1855年2月に日露和親条約(日露通好条約)を締結し、国境を千島列島の択捉島と得撫島の間と決め、樺太については従来通り両国民混住の地とした。

また下田、函館、長崎などの開港を認めた。

この条約締結日2月17日を1981年(昭和56年)「北方領土の日」と定めている。

川路聖謨については吉村昭の「落日の宴」がある。

◆ロシア人の川路評

川路はほんの虫だ。籠の中、宿の灯下でも朱子学の「近思録」を読み、中国の歴史書「資治通鑑」を紐解いたという。

ウイットがあり、どこへ行っても、どの職務についても評価は高く、みんなが味方した。

川路の評判がすこぶる良い。

では、この川路はロシア側にどう映ったか。

プチャーチンの秘書官のゴンチャロフが記録に残している。

岩波文庫 日本渡航記 原題はフレガート「パルラダ」号より

井上満訳

交渉が長引き川路が細君のところに帰りたがっており、交渉を急いでいた。

「身はここに居るが、心は江戸へ行っている」

この川路を私達は皆好いていた・・・川路は非常に聡明であった。彼は私達自身を反駁する巧妙な法をもってその知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳にはいかなかった。その一語一語が、眼差しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウィットと烱敏(けいびん)と練達を示していた。明知はどこへ行っても同じである。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観まで違っていても聡明な人々の間には共通の特徴がある・・・・」

ゴンチャロフの確かな人物観察と、巧みな人物描写。

川路を観察し、記録を残したゴンチャロフとは何者か。

つづく

(学23期kz)

川路聖謨
露・極東艦隊司令官プチャーチン

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上田鳳陽先生の句 ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年5月 トピックス】  

◆花衣 八重九重に重ね着て つかへまつらせ 萬代までに

鳳陽翁が作った句であるが、80歳の時の句だ。

◆鳳陽翁に人柄について以前にも書いたが、飾らない性格で、感情豊か。儒学の本旨に沿って自らを厳しく律したが、人に篤く、丁重に接したという。好奇心に富み、食欲も旺盛だったようだ。

鳳陽翁は徹底的に健康志向であったかというとそうでもない。

翁が愛用していたとみられる煙管が墓所を移す時に出土している。

【写真参照】

煙管が副葬品として埋葬されていたということは、相当な愛煙家だったということだろう。

しかしそれでも老け込むことはなく、髪は晩年まで黒々としていたようだ。また老いても眼鏡なしで書を読み、歩くに際しても杖を用いなかったという。

江戸時代、平均寿命が40歳に届かない時代に80半ばまで年を重ねた鳳陽翁。

老いてもなお、心身ともに健康であったようで、見習わないといけない。

少なくとも旺盛な好奇心と旺盛な食欲だけでも。

(学23期kz)

副葬品として出土した鳳陽翁愛用の煙管(鳳陽会本部に展示)

素顔の広島太郎さん

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年5月 トピックス】

◆広島太郎さんは、広島では本人の弁では広島東洋カープ監督だった山本浩二氏に次ぐ知名度NO.2の人です。
好感度であればいいのですが、大抵の人は忌み嫌い、どちらかというと鼻をつまむ人が多い。
ということで、広島に縁があり、多少なりとも知っている人は、これ以上は読まないで下さい。

◆頭は長髪で、身体にはキティちゃんや時計やいろんなグッズを沢山つけている。
奇人、変人の類の私は、かれこれ、お付き合いが始まって、31年になろうか。
(最近は帰省することもなく、会っていませんが。)

◆広島勤務時代に、毎週土曜日に広島YMCA外語学院に英会話に通っていて、校内のスピーチコンテストで二位になったことがあります。
二位になったといっても、レベルが低い方のコースだったので、大したことはありません。
5分程度でしたが、安直は認められていなくて、大勢の前で、しかも英語で頭の中が真っ白になるのではないかとの不安もあったのですが。
その時の題が、「Taro Hiroshima unmasked」(素顔の広島太郎)であった。

◆私と広島太郎さんとの付き合いは、私が42歳の時に、歓楽街の流川で酔っ払っていて声をかけたのがきっかけであった。
26歳の時に始めたフーテン生活(本人はホームレスという言葉を嫌がって認めない)も、スピーチコンテスト時点で20年、現在でかれこれ50年になる。
普通、数年程度なら一時的に人生に挫折してフーテン生活をする人はいるが、ここまで続いている人は珍しいというか、筋金入りで呆れる。
地元の広島大学の政経学部を卒業して、マツダに勤務したようだが、好きな女性を東大卒の人に取られてショックを受け、会社を退職して、フーテン生活が始まったという。

◆何でもマツダ関連の下請けといっても、地元では有名な会社の御曹司のようである。
お父様が亡くなった時も、会社から使者の人が来て、葬儀には参列して呉れるなと親族から伝言があったという。
一時は、百貨店の地下の試食コーナーで食いつないでいたようであるが、次第にシンパが増えて、サインやチップで生活出来るようになった。
ただ、最低限の食事代や好きなビール以外は、競輪、競馬、競艇につぎ込むので、お金は残らない。
もらったチップを恵まれない人の為、寄付するとかの社会性も全くない。
路上生活で風呂に入らないので、悪臭が常軌を逸している。
何度かスナックにカラオケを歌いに行ったが、エレベータの中は最悪である。
持ち歌は、舟木一夫の「高校三年生」を始め、フランク永井の「夜霧の第二国道」等レパートリーは広い。
三田明の「美しき十代」や「月光仮面」は一緒によく歌った。
男性はもう卒業したのかと思いきや、スナックのママさんのヒップを突然触って悦に入っている。
広島時代は公園で、二人でよくビールにつまみで一杯やった。
歓楽街の路上で懇意に話していて、勤務先の支社長と地元の有力代理店の社長が目の前を通り過ぎてひゃっとしたこともある。
昔は、全国放送の11PMやトゥナイトに出演したようで、時間当たりのギャラを自慢して売りにしている。
比較的最近ではNHKの「ドキュメント72時間、広島太郎を探して」と題して紹介されました。

◆いつか地元の高校で吉田拓郎と同級生だったというので、たまたま卒業名簿を見る機会があり、本名のKという名前がなかったというと、血相を変えて何でそんなことをするのかと怒った。以来、友人としてそのことには触れないことにしている。(笑)
不良社員だった私も何度か、風呂に入って身奇麗にして多少なりとも仕事をして好感度で勝負してはと薦めたが、本人は、それでは広島太郎が広島太郎でなくなると言う。
身綺麗になれば、地元のサウナのCMにも入浴前、入浴後ということで出れると思うのだが。。。

◆まあ、私も将来、今の生活が出来なくなれば、弟子入り出来るので、お付き合いするのは将来のヘッジのつもりもある。
兜町近くの鎧橋から飛び込む前に、広島に帰り、路上で一緒に生活すればいいことである。
私はあまり差別意識や偏見というのはもたない。
皆、五十歩百歩で、似たようなものである。
一時の仮の姿なのであると思うようにしている。
(学22期 Y・Y)

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上田鳳陽先生の句 ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年5月 トピックス】  

◆鳳陽先生の学風は荻生徂徠の古文辞学という説もあるが、国学や考証学にも造詣が深い。

また、故事にも詳しかったため、天保の改革に資するため、毛利敬親公が周防、長門の各村落に関する故事来歴や地理に関する調査を命じ、各行政区画の代官が取り纏め資料を差し出し、全37巻の「防長風土注進案」が作られたが、鳳陽翁は行政区分である山口宰判(4つの支藩を除いた萩藩を18に分けた行政区画のうちの山口の部)の編纂を担当した。鳳陽翁編纂の山口宰判定風土注進は、数ある風土注進案の中でも精緻さから高く評価されており、風土記の白眉とされている。

しかし、上田鳳陽先生が記した思想・哲学の単著はどうも残っていないようだ。

◆鳳陽先生の句

しかし山口の鳳陽会本部には鳳陽先生の句が残っている。

以下の句がそうだ。

花衣 八重九重に重ね着て つかへまつらせ 萬代までに

【写真参照】

中央に写っている肉太に書かれた句
 ・・・萬代までに纘明とあるが、「纘明」とは実名。鳳陽は雅号だ。 歳を花衣にたとえ、兄の長寿を寿ぐ綺麗な句だ。

句には注釈が記されており、

兄の君今年己酉(つちのととり)の春 高寿に・・・

となっている。

兄の高齢を寿ぐ句だ。

◆句を作った年

句を作ったのがのが干支の己酉(つちのととり)の年との注記がある。

これは嘉永2年(1849年)のことだろう。

鳳陽翁は明和6年・1769年に生まれ、嘉永6年12月8日=1854年1月6日)に没する。

翁の存命中に己酉を迎えたのは、鳳陽翁が80歳の時にあたる。

その前の己酉に当たるのは60年前の1789年。すなわち鳳陽翁が20歳の時ということになり、それはない。

句は鳳陽翁が齢80の時、翁が没する5年前の作品ということになる。

◆江戸時代の日本人の平均寿命は30代とされている中で、

当時80まで年を重ねることができたのは稀だろう。

この鳳陽翁より長寿の兄君、相当な高齢だったということだ。

兄の長寿を寿ぐ穏やかで心優しい句となっている。

解読協力

鳳陽会・学23期 岩田龍夫氏(防府市在住)

大田区立郷土博物館 築地氏

(学23期kz)

中央に写っている肉太に書かれた句
 「・・・萬代までに纘明」とあるが、「纘明」とは実名。鳳陽は号。 

京大出身・N岡先生の風貌

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年5月 トピックス】

岡山支部からの投稿

◆鳳陽会東京支部のHPに山口大学教養課程のN岡先生(物理)について

kzさんの投稿があった。N岡先生は京都大学で学ばれた気鋭の学者だった。

 私は、若き日のN岡先生の思い出を興味深く読んだ。おそらく、それから10年くらいたった先生の姿はkzさんもご存知ではないかもしれないと、後輩の私が筆を執った。

 毎週日曜日に楽しみにしているNHKの「光る君へ」風にkzさんへの返歌として書こう。

◆N岡先生は若くして教授になられていた。そしてその当時の授業の不文律のひとつ、授業開始時間より少し遅れて来られ、少し早めに終わる。この鉄則を励行されていた。

その授業はかなり難しい内容をさらりとやさしく講義されていた。時折、長髪を左手でかきあげる姿がいかにも京大出の先生の風貌であった。

◆入学したての学生にはある意味カルチャーショック的な場面に遭遇した。

ある春の晴れた日、先生は教壇に立ってこういった。

「今日はとてもいい天気だし、みなさんもソフトボールでもしたいでしょ。じゃあー、今日は机の上での授業はやめにして、みなさん、外で過ごしてください」

 そして先生は“風と共に去りぬ”(笑)となった。

 いつもふらりとあらわれ、楚々として(本来は女性向けの表現だが)去っていく、究極の姿であった。

 今、還暦過ぎにして思えば、大学入試で疲弊していた姿に映ったであろう教養生に、大学の自由さ、ONとOFFの切り替え、よく遊び、そしてよく学ぶ!ことの大切さをN岡先生一流のウィットで伝えたのかもしれない。しなやかに教えてくださったのではなかろうか。 

◆N岡先生を始め、山口大学教養部の自然科学の教授陣は充実していた。特に地学の村上教授、生物学の岡嶋教授の講義は印象深い。老練な教授が40年たっても陳腐化しない教養を授けてくださった。

 教養部無用論さえあった当時であるが、“専門馬鹿”ではない、ほんの少し幅広い視野で物事を眺めることが身についたとすれば、その恩恵は大きい。

 (岡山支部 B)