大相撲一月場所を終えて

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】  

照ノ富士、復活優勝‼
凄い。
琴ノ若、大関昇進へ。
今場所は初日に序ノ口から国技館観戦。
千秋楽まで優勝争いが繰り広げられ、照ノ富士、霧島、琴ノ若の3力士が千秋楽まで残りました。
豊昇龍が怪我で休場し、14日目に照ノ富士との一番や千秋楽の琴ノ若戦が観られなかったのは残念ですが。
霧島は最後まで優勝戦線に残ったのは立派ですが、下半身が安定しているものの横綱というにはもう少し力強さが物足りません。
照ノ富士は2敗した時は休場や引退を危惧しましたが、千秋楽まで良く頑張り、土俵が締まりました。
今場所、5日目が終わった時点で、優勝は琴ノ若か朝乃山と予想しましたが、朝乃山の怪我での途中休場は残念でしたが、再出場し9番勝ちました。
来場所以降に期待です。
序盤で休場した貴景勝は首の怪我の悪化で来場所も厳しいか。

今場所は負け越したものの熱海富士の巻き返し、新入幕の大の里、怪我で幕下に陥落した伯桜鵬の若手が力強く楽しみです。
直ぐに三役になりそうな程、逞しく圧倒的な強さです。
又、若隆景の幕下優勝と来場所の関取復帰は嬉しい。

応援している力士の中では阿炎が5連敗した時は今場所の大敗を覚悟したが、7連勝し勝ち越したのは良かったが、千秋楽に足がついて行かず、三役の可能性を逃したかと思いましたが、番付運に恵まれ、小結には復帰出来そうです。ほっ。
大関争いでは霧島、豊昇龍、琴ノ若に先を越されたが、来場所に期待。臥薪嘗胆。
平戸海、玉鷲8勝7敗。
幕下20枚目のご両親繋がりで応援している春日野部屋の栃神山が2勝5敗と負け越し。
関取への壁が厚く、臥薪嘗胆、頑張れ。
石川県羽咋市出身の深井3勝4敗。
錣山部屋の王輝、7番相撲で4勝3敗と勝ち越し。
山口市繋がりで応援している将軍、2勝5敗と負け越し。
千代大宝、2勝5敗。
式秀部屋の最上桜全勝ならずも6勝1敗。
大当利4勝3敗と勝ち越し。

最後に初代若乃花を彷彿させる若元春を今場所から応援力士に加えることにしました。
玄人好みする相撲は魅力です。
平成30年初場所前に両国わとんでの会で西幕下6枚目だった若元春さんにお会いしていたのを最近知りました。
東前頭14枚目だった阿炎関を囲んでの集合写真を撮って頂いた時のシャッター係でした。🙇
(学22期 Y・Y)
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冬の釜山にて真っ赤なフグ鍋を食らう

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス】  

冬。フグのうまい季節がやってきた。

前回は、山口大学経済学部の学生時代から「一生に一度は食べたいものだ」と願っていた本場・下関の名店、春帆楼(しゅんぱんろう)にてフグを食した。

今回(2024年1月)は、妻とともに韓国・釜山を訪れた。

目的はただひとつ。真っ赤なフグ鍋をいただく。

◇久々の成田空港

 成田空港から大韓航空機で釜山に向かう。電車で成田空港駅に到着。

第1ターミナル・北ウイングを目指す。現役時代は年に何回も成田空港から世界に飛び立っていたが、コロナ禍もあって久々の成田空港だ。

 大韓航空の受付で搭乗手続き。事前に航空機予約票をプリントして準備していたが、パスポートを提示するだけで手続きは完了した。保安検査を済ませ、出国手続き。12時45分発の大韓航空機に乗り込む。順調に飛行。玄界灘を越え、15時20分に釜山空港に到着した。

 郊外の空港から地下鉄を乗り継いで港町の釜山市南浦(ナンポ)へ。韓国の地下鉄の進化に驚いた。地下鉄の駅には駅舎がない。駅員もいない。完全自動システムだ。

どうやって地下鉄に乗ればいいのか。

戸惑ったが、市民に乗車券の買い方(自動販売機)、乗り換え方法などを教えてもらい(私は少々、韓国語を話せる)なんとか、ホテルに辿り着いた。

◇いざ、釜山のフグ料理店へ

日が暮れる。ホテルを出発。地下鉄に乗り込む。ネット(日本語で釜山の料理店を検索できる)で事前に調べたフグ料理店「釜山ポクチブ(フグの店)」に向かう。交通の要所、西面(ソミョン)で下車。地上に上がる。道路は放射線状に伸びている。目指す「釜山ポクチブ」の住所は文化路25番地だ。手帳に記してある。さて、どの道を進めばいいのか。わからない。通りかがったおじさんに聞く。おじさんは適当にいった。

「こっちのほうじゃないか」

どうもあやしい。

若い男女2人組に改めて聞き直す。

若者はさっそく、スマホで店を検索してくれた。

若い女性が日本語でいった。

「この道をまっすぐ行って。左側にあります」

―えっ、日本語が上手ですね。どこで習ったんですか

「どくがく・・・。自分で日本語を勉強しました」

―すばらしい。ありがとう。

彼女が教えてくれた道を進む。確かに左側にフグの店があった。ネオンが輝いている。

         

◇フグ鍋に焼酎

 店内に入る。高級料理店ではなく、食堂といった雰囲気だ。おじさんグループや男女二人連れが焼酎をあおりながら、フグ鍋をつついている。

 店の女将さんに早速、注文する。

「フグ鍋2人前。それと焼酎1本」

サービスで小皿がたくさん、出て来る。フグの天ぷら。フグの皮のあえもの。海藻類。そしてキムチなど・・・。箸をつけずにじっと待つ。

 しばらくして、ぐつぐつ煮えたフグ鍋が運ばれてきた。ガスコンロの上に置く。

大量の唐辛子で真っ赤だ。フグのぶつ切り。フグの白子。セリなどの野菜類。全部、鍋にぶちこんで煮込んでいる。

 日本では大皿に盛った淡白で上品なフグの切り身をすこしずつ、鍋に入れ、煮えたところをもみじおろしとポン酢でいただく。高級店では女性従業員がなべ奉行を務め、給仕もしてくれる。酒は純米吟醸の冷酒がいい。盃に酒を満たし、静かに食する。

 だが、韓国は豪快である。フグ鍋には唐辛子とニンニクがたっぷり入っている。野趣あふれるフグ鍋をふうふういいながら、食らう。焼酎を一気飲みする。うまい。またたくまに焼酎が空になった。

 「おばさん、焼酎、もう一本」

 フグ鍋2人前を食べ切った。このあとにもうひとつ、楽しみが待っている。残った汁にごはんをいれて真っ赤なフグ雑炊に。これがまた、うまい。辛い。

 釜山のフグ鍋を堪能した一夜であった。

(鳳陽会東京支部 S)

 

講談師・神田京子独演会

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス】

◆あまりに平易なことばのなかに

1月25日(木)によみうりホールで行われた神田京子独演会—「金子みすゞ」伝。

歯切れ良く、気持ちの乗った抑揚のある神田京子の語り。

その語り口で、金子みすゞの詩を織り込みつつ、金子みすゞの26年という短い生涯が紹介された。

金子みすゞの詩。

あまりに平易なことばの中に、恐ろしく深い真理、時を突き抜けた真理を気付かせてくれる。

やはり金子は「天才」といってもいいかもしれない。

今では金子みすゞの記念館がは生まれ故郷の長門市仙崎にある。

◆蜂と神様

独演会の終わりに、あるセレモニーがあった。

この日、金子みすゞの「再発見者であり、伝達者」ともいえる金子みすゞ記念館館長・矢崎節夫氏が会場に来ておられ、神田京子のリクエストに応え、矢崎館長自らの朗読によって金子みすゞの詩がひとつ披露された。

「蜂と神様」

蜂はお花の中に

お花はお庭の中に

お庭は土塀の中に

土塀は町の中に

町は世界の中に

世界は神様の中に

そうして、そうして

神様は小っちゃな蜂の中に

◆バチカンで

会場では披露されなかったが、この詩にはあるエピソードがある。

バチカンにて。

金子みすゞの「蜂と神様」をご覧になったローマ法王は涙を流されたという。

「我々何万人の神父によっても、これだけわかりやすく、明快に(説法を)伝えられない」と。

(学23期kz)

品川神社を訪ねる

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス】

昨年の晩秋、長州歴史ウォークで訪れたスポットの一つに品川神社がある。

日本橋から京都までの東海道五十三次。

品川はもっとも江戸城に近い宿場町だ。

多くの人が行き交うところで、江戸を発ち、また江戸に入る大名行列も品川神社に立ち寄り、参拝した各地の藩主も多かったはずだ。

徳川家康もその一人。

天正18年(1590年)家康は秀吉の命で江戸城に居を移した。

慶長3年(1598年)に秀吉が薨去すると、次の天下人を決める戦いが始まる。関ケ原の合戦だ。

家康は慶長5年(1600年)9月1日に関ヶ原を目指して江戸を西進する。総勢3万2700名。

家康の行程をみると、1日目は神奈川のいずこか、2日目に藤沢、3日に小田原、4日目に三島に着いたとされる。

家康は品川神社に戦勝祈念に訪れたが、その行程からみると、当日の昼時に品川神社に参拝したのだろう。

品川神社の鳥居は双龍の鳥居となっている。

正面に向かって左が上り龍、右が下り龍。

また拝殿に向かい石段を上るが、かなりの傾斜だ。

宇部出身・庵野監督作品のシン・ゴジラ。

映画の中ではゴジラが品川一帯の建物を壊しながら闊歩する姿を、住民や通行人が、眺望がきく石段の「観客席」から不安げに眺めるシーンが出てくるが、この石段が品川神社の石段だ。

階段を上り切る途中、左手に富士塚の入り口がある。

富士信仰の集団「富士講」の人たちで実際に富士登山できない人々が富士山を拝めるような遥拝(ようはい)場として、築山が作られているが、ここを登り、「富士山」の頂上に登れば、海がいい角度で眺望できたのだろう。

家康は合戦の後、戦勝の御礼にお面と神輿を奉納する。

「天下一嘗(ひとなめ)の面」と「葵神輿」だ。

この面と神輿は拝殿の脇に展示されている。

◆板垣退助の墓

板垣退助の墓が社殿の裏側にある。

この品川神社を通らないと行けないところにある。

ここは東海寺の塔頭・高源院の境内だったが、関東大震災後寺だけが世田谷に移転し、墓だけがここに残ったという。

ここには「板垣死すとも自由は死せず」と記した石碑があり、熊毛郡田布施町出身の佐藤栄作が揮毫している。

品川神社の隠れた名所だ。

(学23期kz)

山口大学時代から110回目の献血ー鳳陽会岡山支部からの投稿

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス

能登半島地震の報道に接し、被災地の厳しい状況に思いを致し、心よりお見舞い申し上げます。命のありがたさを改めて感じ入ります。

 私は約40年前、山口大学経済学部に入学しました。教養部時代、友人に誘われて何気なく、献血を始めました。以来、献血を続けています。

 2024年の新年早々、人間ドックに行った後、献血に行きました。

101回目(のプロポーズ)を過ぎ、108(の煩悩)を超え、110回目の献血となりました。

 80回を超えたとき、「100回に挑戦してみよう」と思いました。そして100回を超えたとき、赤十字の看護師さんから「次は120回を」と声をかけてもらいました。その声に先達され、導かれています。

 人間ドックで採血を担当した看護師も感慨深げにこういいました。

 「あなたの献血で救われている命が数々、あるかも・・・。そして、あったかもしれませんね」

 今までは小沢昭一さんのように「明日は明日の心だぁ~」って生き方に近かった私ですが、微力ながら献血を継続していこうと決意しました。献血は70歳の朝飯を食べるまでできます。健康状態や副用薬で制限を受けない限りできるのです。

 今回、献血を終えた後、顔なじみになった看護師さんが笑顔でいいました。

「また、来てね」

 私は健康管理の一環として朝の散歩をやっています。

今日もまた、力強く、一歩を踏み出します。

 (鳳陽会岡山支部 B)

「山口市が脚光!」に思う

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス】  

先日複数の知人から同時に、山口市が「2024年に行くべき52か所」の3番目に選ばれたとの報せがあった。

ニューヨークタイムズが独自の調査でランキングを付けたという。

世界有数の大新聞が山口市を3位に選んでくれたことは、大変ありがたい。宣伝効果は相当大きいのだろう。

嬉しく、名誉なことには違いないが、「何でまた」、というのが正直なところだ。

調べてみると、ニューヨークタイムズに推薦記事を書いたのは鎌倉在住の作家のクレイグ・ラモ氏。前年は盛岡市の推薦文を書いており、盛岡はロンドンに次ぐ2位に選ばれている。

彼が好むのは、東京や京都、奈良などの有名どころではなく、外国人に知られておらず、混雑していない、日本文化が色濃く残っているひっそりとした街だ。

都会でもなく、かといって過疎化が進んでいるわけでもない、歴史を有する小ぶりな町。

昨年彼が選んだ盛岡の人口は29万、今年は19万の山口だ。

日本人で、「萩には行った」、「下関には行った」という人も、山口市に行ったことがある人はそう多くはないのではないか。

我々鳳陽会の同窓生は十分馴染みのあるところだが。

◆挙げられた山口のスポット

山口が選ばれた要因として、山口の看板である「西の京都」、この触れ込みが効いている感がある。

具体的なスポットでいえば、

・瑠璃光寺五重塔・・・国宝、日本3名塔の一つで、姿が美しい。

・祇園祀り・・・これは八坂神社の7月の祭りで、600年の伝統があり鷺の舞が奉納される。

・湯田温泉・・・街中にある我々同窓生には馴染みの温泉。

また、大内文化、明治維新の跡もあるレトロな街並み。

そこにある古くからの店。そこもいいだろう。

◆残念なことに・・・

瑠璃光寺五重塔は、現在屋根の葺き替え工事中で、作業予定は令和8年3月まで続くようだ。

湯田温泉も店を閉めたところも多い。

ひっそりとした街ではあるが、これは空港からも遠いこと、新山口(旧小郡)からも遠い。

◆それなら・・・これを奇貨として

しかし、世界の大新聞がせっかく選んでくれたのだ。これを奇貨として山口を世界に宣伝すべきじゃないか。

・明治維新の策源地。

・日本の近代化をリードした偉人を多く輩出した地方都市。

・歴代総理を多く輩出した県。戦後も含めると、東京14人に次いで山口が8人、3番目が盛岡の岩手で4人だ。

また、瑠璃光寺が檜皮葺屋根の全面葺き替え工事で改修中なら、見本が世界に誇る宮大工による檜皮葺屋根の改修作業を披露してやろうじゃないか。

湯田温泉も日本を味わうスポットとして日帰り客ではなく「宿泊客」を本格的に呼び込んだらどうか。

温泉宿では日本文化が凝縮された空間を味わうことができる。ここでゆったりと湯に浸かり、日本海、響灘、瀬戸内海という三方の海の幸を食し、日本で評判となっている一流銘柄の山口の地酒を味わい、床に就く。そしてまた、朝湯だ。

自分を取り戻す空間として価値があることをアピールしてみよう。

ただし、アクセスが悪いのは難点だ。

山口駅からは「山口市周遊観光バス」を格段に充実させる必要がある。乗り放題500円はありがたいが9月~11月の週末のみで8:30~16:00まで、1時間に一本とは、使い勝手がかなり悪い。

大幅に拡充すべきだろう。

また、新山口(旧小郡)からの山口線は単線で無人駅も多い。

しかし、国内でも世界でも大都市を除いて単線が多く、無人駅も増えている。

それならそれで、駅での対応はAIを組み込んだロボットを入れたらどうか。

無賃乗車する者については、AI を組み込んだ監視カメラでモニタリング。

無賃乗車は許さないことを示すこともできる。

各界から意見を聞いて、官民一体で取り組んでみよう。

こういうチャンスは滅多にやってこない。

大急ぎでやってみよう。

観光客から、ブーイングが起きる前に。

というよりも、

山口の活性化のモデルとして。

いや、過疎化しかかった地域再生のモデルともなるように、山口でやってみようじゃないか。

(学23期kz)

ワンゲル部で知った山の魅力

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス】  

私は大分県の城下町の高校を卒業しました。

山口大学経済学部に進学。ワンダーフォーゲル部に入部したのです。高校時代に登山経験があったわけではありません。「全国あちこち行けるかな」と思ったからです。

ワンゲル部の練習は足腰の鍛錬から始まりました。入部早々、連日、走り込みです。平川の神社の階段を、部員を背負って昇り降りしました。土日は錬成です。テントと食糧、調理道具、寝袋、そして砂袋(これが重い!)をリュックに詰め、担いで鳳翩山に登ります。リュックの重さは30キロ・・・。体験した人でないと実感できないでしょうが、相当重い。吉田キャンパスを歩いて出発します。鳳翩山の麓まで行き、険しい山道を登るのです。きつい。とても、きつい。やめた新入部員も多かった。

 1年生の夏合宿で北海道の大雪山系を踏破しました。2年生の夏合宿は北アルプス、そして3年生の夏合宿は南アルプスでした。山登りはつらい。でも、大自然の中、仲間とのテント生活は楽しい。険しい山道を登り、頂上に立つ達成感はなんともいえません。ワンゲル部で山の魅力を知ったのです。

◇台湾のニイタカヤマ

 大学を卒業して東京の会社に就職しました。韓国、台湾、中国など海外に駐在して仕事をしてきました。社会人になっても登山を続けました。印象深いのは台湾の玉山(標高3952メートル)です。日本人にとっては「ニイタカヤマ」といったほうがわかりやすいかもしれません。日米開戦を告げる日本軍の暗号電文「ニイタカヤマ ノボレ」は有名です。ご存知でしょうか。

 玉山は入山規制があります。許可がないと、登れないのです。台湾駐在時代、登山申請を提出しました。半年後、ようやく許可が出ました。11月下旬、登りました。寒い。山頂付近はマイナス2~3度でした。

 通常、玉山を登る場合、途中で山荘か、テントで一泊。翌未明、頂上を目指すのです。

 私は自分の体力を過信していました。一泊せずに一気に頂上を目指したのです。頂上まであと100メートルほどの地点までなんとか、たどり着きました。

ところが、疲労でふらふら状態。もう、足が動かない。しかも、まもなく日が暮れそうです。これ以上、登ったら、たいへんなことになる。登頂断念。やっと、やっと、テント場にもどることができました。

◇山の仲間

 2023年12月2日(土)、山大ワンゲルOBの仲間と奥多摩・高水三山に登りました。みなさん、60代~70代ですが、元気です。けっこう険しい山なのですが、ぐんぐん登って行きます。

 下山後、お楽しみが待っています。奥多摩の蔵元、小澤酒造直営の野外酒場、清流ガーデン澤乃井で打ち上げです。さわやかな汗をかいた後の酒がうまい。同行者の中に日本百名山登山を達成した人がいて、みんなで祝福しました。

 私は地元の山の会にも入り、関東の山に登っています。富士山をいろんな角度から見るのがおもしろい。異業種の人たちとワイワイ、話しながら、山に登るのは楽しいものです。

実は、登ってみたい山があります。

ボルネオ島北部のキナバル山(標高4095メートル)です。近い将来、挑戦してみたいと思っています。

 (山口大学ワンダーフォーゲル部OB T・H)

小冊子 ぶちええ やまぐち!

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス】

東京首都圏にある山口県ゆかりの店約140店舗を紹介した150頁ほどのポケットサイズの小冊子がある。

「ぶちええ やまぐち!」

ここには長州鳥など山口の食材を使った料理、東洋美人・獺祭・貴など山口の酒が飲める店が紹介されている。

また、萩出身の明治の元勲・山縣有朋の邸宅であった「ホテル椿山荘東京」や、店の女将が岩国高校出身で新橋駅に近く、高校別のノート(3400冊)に客が自由に寄せ書きできることで有名な「有薫酒蔵(ゆうくんさかぐら)」なども掲載されている。

巻末にはエリアごとの銘酒が紹介されている。

最近評判が高い「金雀」。これは岩国エリアで紹介されており、純米吟醸「金雀飛翔」には「緑の渓谷と清流が醸す一期一会の極上の一品」との説明が付されている。

この冊子は山口県東京事務所が事務局を務める「首都圏・山口ネットワーク協議会」が発行しており、鳳陽会も協議メンバーとして参加している。

ここで紹介されている店に行けば無料配布されており、山口ゆかりの店を紹介した便利なガイドブックだ。https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/press/229524.html

このガイドブックの最初に紹介されている店が長門市出身の往年の名優ユル・ブリンナー似の精悍な顔立ちをした中嶋氏が社長を務める店「福の花」。

年の瀬に、鳳陽会同期で、高校の同窓であるⅯ君と大門・浜松町にある「福の花・別邸」で、コロナ禍を経た再会の祝杯をあげ、久闊を叙した。

7千円と少し高めだが、メニューにある銘酒が飲み放題。

最初に飲んだのが純米大吟醸・海響(下関酒造)。

次に東洋美人、獺祭、貴、原田、五橋・・・

福娘もメニューに載っていたが、そこまで回らなかったのが悔やまれる。

また、ここには金雀は入っていなかったのも残念。

◆自宅近くの山口ゆかりの店

自宅近くに、夜にはライトアップされる看板がよく目立つ店がある。

店の名は「やっぱり ビールが すき」。

この店もガイドブックに載っている店で、フィットネス・ジムから帰り際に、一緒に汗を流したジム仲間と生ビールで乾杯する店だ。

阿知須町出身で愚息と同年代の若者A君がひとりで切り盛りしているカウンターバー形式の小さな居酒屋で、2011年の東日本本大震災の年にオープンしたという。

店の客の年恰好はマスター同様、男女とも若い一人客が多く、いつも賑わっており、若者の出会いの場となっているようだ。

また店の看板は同級生の友人が描いてくれたとのこと。

ビールが「すき」とひらがなで書かれているのがよい。

(学23期kz)

「夢売り」 金子みすゞ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 1月トピックス】

金子みすゞは明治43年(1903年)に大津郡仙崎村(現長門市)に生まれる。

20歳のころを境に次々と作品を発表し、一気に人気を集め、何と齢23の時に「童謡詩人会」への入会を認められている。

この詩人会、メンバーの顔触れがすごい。

一流どころばかりだ。

男性会員には西城八十、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、若山牧水など。女性は与謝野晶子(当時48歳)と若い金子みすゞの二人だけだったという。

特に西城八十は金子の才能に惚れ込んでいたようだ。

しかし、金子は私生活では恵まれず、23歳で結婚し娘を授かるが、厄介者の夫に手を焼き4年で離婚。子の親権を巡り夫と拗れ、可哀そうなことに26歳で服毒、夭折している。

彼女の代表作、「私と小鳥と鈴と・・・みんなちがってみんないい」は小学校の国語の教科書に採用されることが多い。

また「積もった雪」はかつて東大の国語入試で使われたようだ。

上の雪

さむかろな

つめたい月がさしていて

下の雪

おもかろうな

何百人ものせていて

中の雪

さみしかろうな

空も地面もみえないで

◆夢売り

年が明けたので心温まる金子みすゞの詩をもうひとつ。

「夢売り」

年のはじめに

夢売りは

よい初夢を

売りにくる

たからの船に

山のよう

よい初夢を

積んでくる

そしてやさしい

夢売りは

夢の買えない

うら町の

さびしい子等の

ところへも

だまって夢を

おいてゆく

(学23期kz)

金子みすゞ

ペリー来航、その時幕府は その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】  

老中首座・阿部正弘。

とにかく評判が良い。

江戸末期、幕閣トップの人物で、政治手腕が最も高く評価されている人物のひとりだ。

勝海舟は阿部を評して「数年の寿(とし)をもってすれば、薩長は抗敵とはならず、条約調印は勅許され、宮卿親藩の幽閉なく、志士の惨戮冤罪にかかることなく、水戸公も漸次持重の方針に傾きて、国備の年に整いしは必然なり」とする。

各方面をうまく調整することができる能力ありとみており、その政治手腕はなかなかのものだ。

例えば、阿部自身、異国船打払令の復活を度々諮問しているが、これは打払令の復活が阿部の本意ではなく、攘夷派のガス抜きのためにこうした策を講じたのではないかといわれている。

幕府内では、攘夷派と開国派に分かれており、井伊直弼大老が登場する2代前のトップである老中首座にあり、この中で大名クラスでは開明的な薩摩の島津斉彬、片や扱いの難しい攘夷派の水戸・徳川斉昭など、両方の側からの意見を聞き、砲台や反射炉製造のスペシャリストである江川英龍、砲術家の高島秋帆、勝海舟らを登用して海防の強化に努め、川路聖謨、岩瀬忠震、ジョン万次郎など家柄ではなく能力中心の大胆な人材登用を行った。

また、制度面では講武所、伝習所、洋学所を創設し、講武所は後の日本陸軍に、長崎海軍伝習所は日本海軍に、洋学所は東京大学の前身となった。

また、西洋砲術の推進、大船建造の禁を緩和し、幕政改革、いわゆる安政の改革を行った。

在任中は相当な苦労があったはずだ。

黒船だけではない。安政の大地震もあり、コレラの流行もあった。

精神的な面ではもちろんだが、肉体的な面でも苦労があったようだ。

肥満体であり、正座が苦痛だったにも拘わらず、人の話を聞くときは常に正座していたという。

たとえ長時間であっても。

以前、福澤諭吉の話で登場して頂いた木村芥舟(喜毅)の話がある。

木村も阿部正弘によって登用された逸材のひとり。

昌平黌で学んだ木村は阿部の推挙で目付となり、長崎海軍伝習所取締を経て、軍艦奉行・咸臨丸司令官となり遣米副使となり米国に渡り、帰国後は幕府海軍の西洋化に尽力した人物だ。

木村も幾度か阿部正弘と接する機会があったが、木村は、阿部が正座した跡をみると汗で畳が湿っていた、と記している。

肥満体で大酒のみの阿部正弘。

39歳。不惑を前に老中職のまま急逝するが、その死因については、がん、糖尿病、過労死、暗殺説もある。

臨終間際にはやせ衰えていたことから、酒好きに多い肝臓がん説が有力のようだが、外交問題を巡る激務が死期を早めたともされる。

(学23期kz)