Beatlesのチカラ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

東京在住の山口県関係者が集う防長倶楽部の年次総会が開かれ、総会後の講演会のゲストスピーカーとして林前外相(下関出身)が招かれた。

講演後。

懇親会の会場には電子ピアノが置かれていた。

ビートルズが心底お好きだという林議員。

「アレ」が始まるかもしれない。

◆リバプール外相会合

2021年のG7外相のリバプール会合でのアノ話。

夕食会場はリバプール・ビートルズ博物館。

林議員の話によると・・・

「そこにはジョンゆかりのアノ白いピアノが置いてあり、博物館の方からこれはレプリカだとの説明があった後、お誘いがあった。

『どなたか座りませんか。弾くこともできます』

私が座ってImagineの弾き語りをやりました。最後は何と一同大合唱となりました」

・・・ということであった。

◆ミニ演奏会

懇親会も時半ばとなったころ、林大臣のミニ演奏会が始まった。

この日はLet it beから。

ポールっぽい空気が会場を包む。

2番まで。さらりと演奏が終わった。

「ブラーボ!」と一声。

会場からはアンコールの掛け声と手拍子が湧き起こる。

次には「アレ」が。

Imagineの弾き語りだ。

ここでも手拍子での合唱と相成った。

◆Beatlesのチカラ

Beatlesは強い。誰でも知っている。だからこそ誰が歌っても「合唱」にすることができる。

Beatlesが与えた影響はミュージシャンに対してだけではない。

例えば村上春樹。

彼の作品は世界の多くの国に翻訳されており、彼が「外国人に最も知られている日本人作家」になって久しい。

これは、彼の作品の中にBeatlesのテーストを織り込んでいることも人気の秘密のひとつだと思う。Beatlesの力を借りたといえるかもしれない。

Beatlesの影響はアーティストに対してだけではない。

ファッションもそうだが、本当のインパクトは別のところにある。

母国英国で旧い社会階級・恵まれない階層に光を与え、上流階級、女王陛下までも巻き込みファンにさせたこと。

固定化した階級・階層を溶かしたのだ。

また1964年の米国ツアーでは、観客席が白人と黒人に分けられた会場では「演奏しない」と表明し、人種差別に反対したこと。

暗にそうしたのではない。明示的に人種差別に反対したのだ。

しかも、ツアーの前年には公民権を推し進めたケネディーが暗殺されたという危ない頃に。

銃社会の米国おけるステージで、無防備に演奏をしている。

勇気の要る、身体を張った演奏。ずいぶん危ないことをしたものだ。

しかし彼らはどの政治家も、どの宗教家も、どの偉人も出来なかったことを、「結果として」、演奏活動を通じてサラリとやってのけた。

銃に対して無防備に身体を晒す演奏活動中に。暗殺されることもなく。

いや、むしろ熱狂的に愛されながら。

ホワイトアルバムの「Black bird」

You are only waiting for this moment to arise.

Black bird fly・・・

学生時代によく口ずさんでいたが、birdはイギリス英語の俗語で女性の意。ポールは「黒人女性に捧げる歌」としているのを後々知った。

ジョンのImagineも夢想的、牧歌的な歌ではないはずだ。

各種の社会的な摩擦、軋轢と闘ってきたBeatlesの一員であり、恵まれない少年時代を過ごしたジョンだからこそ、却って夢想的なImagineの歌詞が深みを持つ。

(学23期kz)

写真:防長倶楽部 相山氏撮影

師走のテニス部納会in渋谷 参加記 

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

◆おしゃれなテニス部

鳳陽会の先輩からお声が掛かり、テニス部の納会に参加させて頂いた。

12月に入った週末。

場所は渋谷。

会食会場は青山学院大に接したおしゃれな洋風レストランだ。

さすがテニス部。

私自身、中高とテニスに多少覚えがあり、社会人になってからも数年は職場の仲間とテニスの真似事をして週末のひと時を過ごした時期があった。

その後、週末に握る道具はラケットではなくゴルフクラブに変り、ラケットは物置きで埃をかぶっている。

テニス部が結構な頻度で会合を開いていることは耳にしていた。

最近鳳陽会の集いがあった折、テニス部重鎮・N先輩との立ち話で、部外者でも気軽にテニスがやれる会合がないものかと伺ったことがあったことから、今回お声が掛かったというわけだ。

納会当日は午前中に郊外でテニスをし、夕刻からは街中で乾杯。これが年末の恒例行事となっているようだ。

私は部外者。初めてのテニス部会合参加でもあり、夕刻の乾杯だけ参加させて頂いた。

◆元気な経済学部・鳳陽会

乾杯に集まったのは20名。

私を含めた山大卒の「友情参加者」が4名(経済3、人文1)、残りがテニス部のオリジナルメンバーで、16期から47期の皆さんだ。

会の中で簡単な自己紹介が入り、和気あいあいのうちに会が進んでいったが、気付いたことが二つある。

ひとつは、オリジナルメンバーのうち、ほとんどが経済学部卒、すなわち鳳陽会の仲間だったこと。

オリジナルメンバーで、経済以外のメンバーと言えば、医学部がお一人、農学部がお一人くらいか。

圧倒的な経済のプレゼンス。

また、午前中のテニス会場は経済H先輩の所属テニスクラブだったという。

これまた鳳陽会の先輩のご活躍。

ふたつ目は30期の皆さんを「発見」できたこと。

鳳陽会東京支部の各種会合では常々10期前半以降、オイルショックの影響が本格化する前の23期(S50年卒)までの参加者が多く、24期以降数期間の皆さんにはほとんどお目にかかれない。

30期台も同様、個人的な付き合いのある後輩以外、あまりお目にかかる機会はない。

しかし、この席には30期台のメンバーが7~8名も集っておられ、一大集団となっていたことには驚いた。

◆貴重な部活の繋がり

現役の時の同窓会といえば、ほとんど同期会か会社内の先輩や後輩だ。

会社によっては先輩も後輩もいないところも多い。

その点、学生時代のサークルを通じた会合では同期はもちろんのこと、かなり上の先輩や、かなり下の後輩との交流を持つことができる。もちろん男女の別も問わない。

逆に言えば、こうした部活の集まりがないところで同期以外の交流を探すことは難しい。

世代を超え、また学部を越えた、こうした交流はテニス部で活発なようだ。

テニス部のほかにはワンゲル部の集いもよく耳にする。

◆学生時代の4年間、この特別で濃密な時間

思い返せば、学生時代の4年間は特別な時間だったような気がする。

多感な二十歳前後の4年間。

お勉強は置くとして、一緒に語り、一緒に遊んだ濃密な時間だった。

こうした時間の記憶は何年たっても消えることはない。

いや、最近ではこの時に蓄積された「繋がり」のプレゼンスが、私の中で年々大きくなってきているような気さえする。

この時の繋がりをもう一度手繰り寄せ、味わうことが楽しみになってきた。

年をとった証かもしれない。

(学23期kz)

写真の提供先はいずれもテニス部

創部75年記念OBOG戦 2023年4月30日
同上
中四国OBOG戦山口大会(山口、広島、岡山、愛媛、松山、広島修道の各大学

対抗戦)2022年10月29日・30日

同上
同上
同上

若き日の悪戯

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

昔、昔のことですが、学生の頃、悪戯をしてまずかったことがあります。
入学してすぐに知り合った教育学部の友人の下宿(山口市の中市商店街の山口駅寄り)を行き来していましたが、彼の学部は多くの女子学生がいるのに、私の学部では、同学年で3人しかいませんでした。
彼には気に入った女子学生がいるようで、いつも名前が出ました。
ということで、当時、彼の下宿は階段をとことこと上がって、鍵もない自由に出入り出来る古いタイプの下宿でした。

そして私は簡単な置き手紙というかメッセージを女性の字に似せて書いたのです。
「私、K君を訪ねてきましたが、お留守ようなので帰ります。 S子」と。
後日、彼の下宿を訪ねると、有頂天の喜びようでした。
私も最初はすぐに種明かしするつもりでいましたが、余りの喜びように遂に言い出せなくなった記憶があります。
大分、日にちが経って話しましたが、自嘲気味でむっとしていました。
悪い悪戯をしました。今でもエープリルフールが来ると思い出し、胸が痛みます。
下関出身の彼は山口県庁に入り、教育関係の仕事に携わりました。
(学22期 Y・Y)

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ペリー来航、その時龍馬は

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

◆その時の龍馬

坂本龍馬はどこに行っても人気がある。今年生誕100周年となる司馬遼太郎が坂本龍馬の知名度を引き上げた側面がある。しかし、何と言っても朝敵となった長州と、第一次長州征伐で政府軍の主力部隊となった薩摩を組ませて討幕という大転換をもたらし、維新の立役者のひとりとなったとされる龍馬。若くしてこの世を去ったことも人気が絶えない一因なのか。

龍馬は天保6年(1835年)11月15日に生を受けている。

吉田松陰や大久保一蔵(利通)と5歳年下、桂小五郎(木戸孝允)とは2歳年下になる。

ペリーが来航したのは嘉永6年6月3日。浦賀沖に現れ、米国大統領の国書を差し出し開国を迫る。

龍馬が江戸遊学のために土佐を発ったのが同じ年の3月。歳は数えで18の時だ。

江戸へのぼって3か月程度しか経っていない。

◆浜川砲台と龍馬

その間龍馬は剣の稽古で土佐藩の上屋敷(神田鍛治町)の長屋から目と鼻の先の千葉道場に通っていた。北辰一刀流の創始者・千葉周作の弟千葉定吉の道場だった。

ペリー来航の翌4日早朝には、早くも「異国船渡来」を告げる高札が千葉道場に向かう道筋に立った。

一大事になりかねないことを知らせる高札だ。この高札で江戸の町が狼狽し、各藩の江戸屋敷では臨戦態勢を強いられことになる。

安穏な日々に慣れた武士たちは剣や槍を揃え、あるいは質屋から買い戻し、兜や鎧などの防具も手当てすることを余儀なくされた。このため戦時の武具の値は高騰したという。

高騰したのは武具だけではない。

江戸湾内では船の行き来が止まり、荷舟が入らないために食料や一般物資も急騰した。

◆土佐藩の沿岸警備

土佐藩では海に近い品川・浜川に下屋敷を持っており、龍馬も品川の沿岸警備に駆り出されている。

また、ペリーが翌年に再来することを言い残して帰ったため、幕府としては全国各地お台場(砲台)構築を進め、その数は800か所とも1000か所ともされる。もちろん江戸でも海岸端にお台場が設けられた。

土佐藩では下屋敷近く、浜川河口に抱(かかえ)屋敷があり、その敷地内に浜川砲台が構築された。

ここには江戸詰めの土佐藩士らが動員された。龍馬にも「臨時御用」がかかり、ここで警備の任に当たった。

現在、砲台の跡地には、当時据えられた8門の大砲のうち、発砲時の仰角が大きく、弾道が大きな弧を描く特徴を持つホーイッスル砲が原寸大で復元展示されている。

また有名な龍馬のことだ。龍馬がこの地に訪れたことを記念した龍馬像が立ち、人を集めている。

龍馬は死してもなお、足跡を残した町の町興しに活躍している。

(学23期kz)

浜川砲台跡
齢二十の頃の龍馬
立会川龍馬通り

高校の同窓会に参加して (その2)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

高校の同窓会に参加しての(その1)に続きます。
参考になればと。
1)
①和歌山高商の流れを汲む、和歌山大学経済学部出身で商社勤務だった3歳年上の親友のTさんとLINEで話す機会がありました。
今の若い人は同窓会参加に仕事に追われ、忙しいこともあるが、メリットを感じていない。
又、大先輩に対して、畏敬の念というか、ある種の近寄り難さを抱いているのでは。
和歌山大学経済学部東京支部の同窓会&懇親会の参加状況も同程度。
②高校は芦田均総理を輩出した伝統ある兵庫県の丹波市の柏原(かいばら)高校であるが、東京支部の同窓会に今年も135名が出席。
同窓会の前にイベントを抱き合わせで実施。
同窓会に併せて、前後に同期会も東京で実施。
日頃から横の連絡を緊密に取り合っている。

2)
①広島基町高校のF東京支部長に電話でヒアリング。
今回は会場から本部に対してライブ中継の新しい試みをした。
後日、会員は視聴も出来、出席出来ない人には魅力を感じて貰う狙いもある。(機材持ち込みに伴う費用や撮影は会員のボランティア)
②今回の開催に世話人20名で分担し、対応した。
兎に角、この10年は大学生や若い世代の同窓生に対して関心を持って貰うことに注力し、漸く成果に結びつくようになった。
③ただ、高校の同窓会は会員の故郷はほぼ同じであるのに、大学は故郷が多岐に渡るので、同じようには論じられない。
(学22期 Y・Y)
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高校の同窓会に参加して (その1)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

先の11月11日(土)の東京は曇り空で肌寒い一日でした。
こうした中、午後2時に神田錦町の学士会館前で、一年先輩の市川市在住のN先輩と待ち合わせて、近くのロイヤルホストで、1時間半談笑。
その後、早めに会場入り。
16時の定刻に開催されたものの、再会を楽しみにしていた司会進行役のフジテレビ三宅正治アナ(一回り後輩)が急遽、仕事が入り冒頭のお詫びのビデオレターの挨拶、代役で、しょぼーん。
私もN先輩も同じ卒業年度の参加者は今回もゼロ。
二人で手持ち無沙汰気味で暫くは料理とビールを楽しんだ。
そうこうしていると2年先輩(18回生)のT先輩が参加されていて8年ぶりに再会。
妹さんが1年の時に私と同じクラスでしたが、以前、末期癌と聞いていましたが、先日、7周忌を済ませたと💧
笑顔が素敵な明るい生徒でした。

今回は山田洋次監督(山口大学の前身の旧制山口高等学校に在籍され、学生改革により、1年で卒業)の弟さんで演劇部顧問だった地学の山田正巳先生が担任だった生徒を探してヒアリングしたいと思っていましたが、何とT先輩の担任が山田正巳先生だった。
監督の弟さんらしく担任したクラスの生徒には寸劇を厳命されたと。(笑)
その内、中学、高校、大学迄一緒の昼休みにエスキーテニスをした2年先輩のSさん(山口大学工学部出身)、同じく中学が一緒だったY先輩も参加されていて再会。
中学時代の諸先生の当時のエピソードで大いに盛り上がりました。

母校出身の舞台女優の中村香織さん(熊毛郡田布施町が本籍)という方が参加されていて、広島勤務時代の25~32歳迄の7年間に新劇の舞台を100公演以上鑑賞した話をすると彼女は高校時代から演劇鑑賞をしていて事務局に勤務の共通の知り合いが二人いることが判明し、話が弾みFacebookでも友達になった。
これも何かの縁、気持ちだけでも応援して行きたいです。

校歌を斉唱し、記念の集合写真を撮り、19時に中締めとなりお開きになった。
(総勢120名超えの盛会)
高校入学時は市内5校の総合選抜制で憧れのF高校に入れず、しっくりしませんでしたが、39歳の時に2度目の広島勤務となったのを契機に同窓会に参加し、信じられない再会があり、大病で入院や自宅療養の時期以外は毎年参加し、後輩も学業やクラブ活動で実績を残し、今や私の自慢の高校です。

注)三宅正治アナとのスリーショットは4年前の写真を掲載
(学22期間 Y・Y)

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御殿山と伊藤博文公

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

◆品川・御殿山

品川・御殿山は家康が築いた「品川御殿」がその名の由来だ。目の前に海が開け、風光明媚で桜の名所として有名だったという。また歴代将軍が鷹狩りに興じる休憩場所であり、代々将軍家に諸大名をもてなす迎賓館として重用されてきた。現在では格の高い高級住宅地となっている。

◆英国公使館焼き討ち

外国からの外交攻勢にさらされていた時、井伊直弼の後を受けた老中・安藤信正は英・米・仏など列強の機嫌を取るため、風光明媚で桜の名所・御殿山に公使館を建てることを考えた。

英国公使館はペリー来航から10年後の文久2年(1963年)に着工し、翌年早々の完工後、公使が移り住んで執務を始めるはずだった。

その直前の12月12日。ここに攘夷に燃える長州藩士が建築途上の英国公使館の焼き討ちを決行した。

隊長 高杉晋作

副長 久坂玄瑞

火付け役 井上馨、伊藤博文

見張り役 品川弥二郎

またこの中には長州ファイブで、工業の父と呼ばれることになる山尾庸三もいたようだ。

東禅寺事件で英公使オールコックは横浜に執務場所を変えて職務を行っていたが、長州藩士は横浜でのオールコック暗殺を計画している。しかしこの計画は幕府に漏れたため暗殺は未然に終わっていた。

このため長州藩士は暗殺に代えて、御殿山に建築中の英公使館焼き討ちを思いつく。

万全を期すため品川宿の飯売旅籠屋相模屋(土蔵相模)で決行者が集い、公使館焼き討ちに向けた綿密な打合せをして臨んだ。

空堀を超え、侵入を防ぐ柵が行く手を阻むも、伊藤が気を利かせて直前に入手していたノコギリで柵を切断、建築途上の建物に押し入り、火を放った。

高杉と久坂は燃えさかる英公使館を芝浦の妓楼でまるで花火を見るように燃え上がる公使館を眺めながら酒盛りをしたという。

放火された現場には銃一丁、ノコギリ、下駄片足、遊女の艶文が残っていたという。

この事件の犯人は不明ではあったが、幕府は長州の仕業だと睨んでいたという。

しかし、公使館建設には朝廷の反対もあったほか、品川の町民も公使館建設で御殿山名物の桜が切られたことをよく思っておらず、むしろ公使館焼き討ちを歓迎する向きも少なくなかった。

このためお上の追及は本格的なものにはならなかったという。

なお、現場にあった艶文とは書き手が「お花」とあり、宛名がなかったが、どうやら伊藤が落としたものだったという。

その後、伊藤博文は道一本隔てた八ツ山に広大な土地を手当てする。

毛利家の私邸があったところだ。

16500坪の土地。

目の前は海だ。

伊藤の大磯の別荘「滄浪閣(そうろうかく)」。

ここも目の前が海だ。

(学23期kz)

葛飾北斎 富岳三十六景 東海道品川御殿山ノ不二
品川区のホームページから

井上商店(萩)のしそわかめ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

山口市ファンクラブメンバーの井上 泰三さんと最近、友達になりました。
萩市出身で、現在は下松市在住のようですが、創業明治4年で海産物製造の(株)井上商店(本社萩市東浜崎町)の経営に携われているようです。

早速、我が家の主夫で買い物担当の私は人気商品のしそわかめ(ソフトふりかけ)を求めて、仕事が終わって、LIFE京浜蒲田駅前店に寄りましたら、何とありました。
1980年に発売された商品で、今や山口県下は勿論、東京を始め全国展開されていて、ロングセラーの大ヒット商品になっているようです。
私はこれまで全く知りませんでした。💦

私は広島出身ですので、物心ついた子供のころから田中食品のタナカのふりかけで、最近はずっと首都圏在住ですが、広島・三島食品のまぜごはんのもと、ゆかりとか、広島菜のひろしの話題となったふりかけを購入したことはあります。

井上商店のしそわかめは塩分が強くなく、わかめが小さく刻まれていてやわらかくて食べやすく、私はふりかけ主体で、残りご飯をおむすびにしたり、お茶漬けにして食べたりしています。
我が家の朝夕の食卓が楽しみになり、ご飯がススミます。
新山口駅にも店舗があるようで、山口市ファンクラブで縁の出来た方を気持ちだけでも応援して行きたいです。

最近では先に投稿しました東京や山口、大阪で和風居酒屋を展開するベアーズコーポレーション中嶋 唯雄社長や萩の地酒「長門峡」の岡崎酒造の岡崎 考浩社長を応援しています。

追記)
しそわかめは日本テレビで11月6日(月)朝放送のZIP!の「水卜あさ美と一緒にあさごはん」コーナーでも紹介されました。
(学22期 Y・Y)

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維新後の毛利・高輪邸

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

◆長州藩邸、幕末に没収、そして維新後は

長州藩は江戸に上屋敷(日比谷公園)、中屋敷(麻布龍土町)、下屋敷(現ミッドタウン)のほか街並み屋敷や抱え屋敷を持っていた。

このほか支藩の屋敷もあった。

しかし、第一次長州征伐の後の元治元年(1864年)に江戸や京都の拝領屋敷はすべて没収されている。

そして維新。

新政府には長州藩の人材が多く配置されていた。

毛利家では長州藩最後の大名となった第14代藩主・毛利元徳(後に公爵)公が新政府と掛け合って姫路藩酒井家上屋敷跡の大手町の地を手にする。

しかしその後、近くに官庁街が整備されることに伴い、立ち退きを余儀なくされる。

明治政府との折衝で、高輪の筑後久留米藩有馬家の土地を手に入れることになったという。

港区高輪。品川駅西側の一帯で、海がよく見下ろせる景勝地だ。

ここで毛利元徳公は洋館の私邸を建てるが、この間の経緯については洋館建設を請け負った鹿島建設のホームページに掲載されている。

それによれば、毛利公は洋館の邸宅を指向。貴族の邸宅が洋風になるのは欧化政策がとられた明治13年(1880年)以降であり、そうした中鹿鳴館が竣工したのが明治16年(1883年)のこと。明治5年の時点では個人の邸宅が洋館建てというのは例がなく、毛利邸洋館が日本で一番古い日本人私邸の洋館ではないかとされる。ここでは行啓のための建物、あるいは明治政府の外国の賓客をもてなす迎賓館的な使われ方がなされたという。

また、毛利公は私邸建設にあたり、元長州藩士の井上勝に工事監督を依頼した。井上勝といえば、長州ファイブの一人で日本における「鉄道の父」だ。

明治5年(1872年)に新橋―横浜間に鉄道が開通するが、ちょうどそのころ毛利邸の工事が始まり、井上は多忙を極めたようだ。

◆城南五山

城南五山という高級住宅地がある。

当時は高台に建っておりJR品川駅のすぐ東に広がる東京湾が見下ろせる景勝地だった。

いずれも江戸時代から大名屋敷や大名の末裔の私邸があったところで高級住宅街になっている。

品川駅高輪口の前を走る第一京浜の向かい側は八ツ山。大崎寄りに御殿山。JR五反田駅の東に島津山(旧島津公爵邸、現清泉女子大)、五反田駅の北に池田山(備前岡山藩池田家の下屋敷跡)、JR目黒駅に近づくと花房山(外交官花房子爵別邸)がある。

◆八ツ山

現在は高輪といった方が分かりやすい。名称の由来は多説あるが、そのひとつに八人の諸侯の屋敷があったというものがある。

江戸時代には目黒川の洪水復旧、海防のための台場づくり、品川沖埋め立てなどのために山が切り崩されほとんど平地になっている。

明治期には伊藤博文の邸宅があったが、明治22年に三菱の2代目岩崎弥之助が土地を購入、洋館を建てた。今では開東閣という名称で呼ばれており、三菱グループの施設となっている。

また、日立金属が土地の一部を譲り受け、和彊館もあったところだ。

長州歴史ウォークでも訪ねるが、ここには高山稲荷神社が建っていた。品川駅から近く、国道を挟んだ向かい側に位置。この神社には毛利家からかなりの土地の寄進がされたという。

なお、この神社は2023年7月に閉鎖。国道か側から中に入ったところに移築されることになっている。

◆御殿山

桜の名所としても知られていた。徳川家康が建立した「品川御殿」があったことに因む。また江戸時代には歴代将軍が鷹狩の際の休憩所として利用されたようだ。

昭和期には1946年に日本橋で創業したソニーは翌年この地に移転しており、ここがソニー創業の地とされ、本社があった品川と五反田を結ぶ都道317号線には「ソニー通り」という名が付いている。その後2007年にソニー本社は港区に港南に移転した。

(学23期kz)

豹(ジャガー)の眼

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

1959~1960年にTBSで放映されたテレビ映画の「豹(ジャガー)の眼」をTSUTAYAから借りて来て観たことがあります。
小学生の3~4年生の頃にテレビに釘付けになって毎週、固唾を飲んで観ました。
大瀬康一が主演の「月光仮面」「豹(ジャガー)の眼」「隠密剣士」や波島進や千葉真一主演の「七色仮面」、勝木敏之主演の「快傑ハリマオ」は圧巻でした。

鳳陽会メンバーの方の中でも、私以上の年齢の方でないとご覧になられていないのであのワクワク感は理解出来ないと思います。
一回り下の横浜の友人はこれらの番組をTVK(テレビ神奈川)の再放送で観たと言っています。

そしてこれらの作品の大半は広告会社の宣弘社がプロダクションとして関わっています。
サラリーマン時代に仕事で宣弘社とはお付き合いがありました。
(展示会やフェアの際のブースの会場設営、屋外広告のネオン看板等)
会長をされていた小林利雄さん(1921年~2007年、享年86歳)の名前がプロデューサーとして出てきます。
月光仮面の撮影では制作費が足りないので、苦肉の策で中学生の息子さん(後の社長)を新聞少年として起用されたとか。
宣弘社は作詞家の阿久悠氏が新卒として7年間勤務していた会社でもあります。

♪「豹(ジャガー)の眼」歌詞♪

正義のために決然立って
もえる血潮をたぎらせる
悪をこらしめひとすじに
苦難の道を恐れない
撃つぞ豹 撃つぞ豹
出て来い豹(ジャガー)

追記)
小学3年生の頃に漸く我が家にもコロムビア製の白黒テレビが入りました。
それ迄は好きな大相撲中継は近所のお金持ちの家で見させて貰っていました。
当時、テレビを観ない時は画面をスダレ型の緞帳のような布で上から垂れ下げて被っていました。
(学22期 Y・Y)

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