古き、よき酒場「大万」①

        古き、よき酒場「大万」① 

          ◇初めて大万で飲む

1970年の春。夕暮れどきだった。

山口大学・鳳陽寮(当時、山口市亀山のふもとに健在だった)の廊下で

外出しようとした先輩(経済学部生)に声を掛けられた。

 「ちょうどいい。いっしょに飲みに行くか」

 「はい」(喜んで)

 先輩に初めて連れていかれたのが、山口市道場門前の

酒場「大万」だった。テーブル席とL字型のカウンター席。

おでんの湯気がもうもうとたちこめる。

わたしたちはカウンター席に座った。まずは瓶ビールを注文し、

飲み始めた。私が丸々太った女将さんに

初対面のあいさつをしたところ、いきなり、こういわれた。

 「あなたは 経済学部やろ」

 「はい、そうです」

 「やっぱ、経済の学生さんは、ちょっと違うね」

 そんなもんだろうかと思いながらも悪い気はしない。

     ◇経済学部生の試験心得

しばらく飲んでいると、隣に学生が座った。

彼もまた、経済学部の先輩だった。その先輩が

経済学部生の試験心得について語り始めた。

 「あのな、試験で、優なんか、とるもんじゃないぞ」

 「はあ」(なぜ、優をとってはいけないのか。私には理由がわからない)

 「といっても、不可は論外だ」

 「そりゃ、そうですね」

 「いいか、可が一番だ」

 「はあ」

 「経済の学生は可、可、可、可で全部、単位をとる。これだ」

私は先輩のいいつけをよく守った。 優は卒業論文だけ。他は、ほとんど可だった。

鳳陽寮の青春

◇入寮

1970年代、鳳陽寮は山口市亀山のふもとに健在だった。学生たちは伝統を誇る寮で暮らし、青春を謳歌した。

私が入寮したのは昭和45(1970)年春。旧制高校を思わせる蛮カラの気風が荒々しく、なにやら恐ろしく感じたものだ。

鳳陽寮は5寮で構成されていた。南寮、中寮、西寮、北寮、そして西北寮である。私は北寮2階の部屋を割り当てられた。北側廊下の窓ガラスはことごとく割れ、吹きさらしの状態だった。隣室の先輩の部屋には戸がない。真冬には雪が枕元に吹き込んだ。

それぞれの寮には独自の気風、伝統があった。寮長がいて、寮歌がある。ストームの流儀も異なった。   

4月、それぞれの寮で新入寮生歓迎会が開催される。最初に覚えるのが寮歌だ。

【鳳陽寮歌】

「花なき山の 山かげの

月も宿さぬ 川の辺の」

【山都逍遥歌】

「春を弔う落英か

朧(おぼろ)に流る 椹野川」

ときは春。一の坂川河畔の桜は満開だ。惣野旅館でしこたま酒を飲み、声高らかに寮歌を歌いながら、帰寮する。心地よい。ああ、快なるかな、快、快・・・。

◇ストーム

 コンパの後は、ストームだ。北寮寮長が寮務室でマイクを握り、館内放送する。

「ただいまより、北寮がストームを行う」

南寮の全寮生が勢ぞろいして待ち受ける。南北寮生がそれぞれの寮歌を歌う。そして最後に肩を組み、山都逍遥歌を高唱する。北寮生は南寮生の見送りを受け、意気揚々と次の中寮、そして西寮、最後に西北寮へと向かうのだ。西北寮の寮歌は“焼酎讃歌”だった。私は好んでよく歌った。

西寮のストームは独特だった。通称“パンツストーム”。西寮の寮長が館内放送でストーム開始を告げる。  

鳳陽寮は騒然となる。全寮生がそれぞれの洗面場に飛び出し、バケツに水をためて待機する。そこへ西寮生が走って来る。真冬でもパンツ一丁だ。盛大に水をかけ、大騒ぎとなる。

寮ごとの公式ストームとは別に個人ストームもあった。寮生は酔って帰寮し、高揚した状態で「ストーム」と叫びながらひと部屋、ひと部屋すべて回る。寮生は就寝中でも「ストーム」の声が聞こえると、布団をたたみ、正座して迎えるのが不文律だった。このとき、出身高校と学部、姓名を大声で名乗るのが流儀である。

「福岡県立〇〇高校出身、花の経済学部1回生、〇〇 〇〇」

経済学部生は「花の経済」と美称を付けて名乗る。経済学部生は誇り高かった。

  ◇寮生の日常

鳳陽寮は、自治寮だった。

学生が自らの力量で寮を運営していた。重要な事案は寮生大会で議論し、決した。

外部からの電話を取り次ぐのも学生(当番制)だ。館内放送で呼び出す。

「〇寮の○○君、電話です」

女子学生からの電話が入ると・・・。

「〇寮の○○君、お電話です」

違いがわかるだろうか。「お電話」が入ると、寮生は寮務室にバタバタと駆けて行ったものだ。

大食堂で食事をした。若い女性スタッフが献立を考えていた。スコッチエッグなど、しゃれた料理を初めて食べたのも鳳陽寮の食堂だった。

新入生向けに社交ダンス講習会も開かれた。ダンス上手の先輩が指導する。踊る相手は寮生(男子)・・・。1~2週間後、ようやく椹野寮生(女子)と合同練習を行うことができた。

酒を飲みに行くこともあった。道場門前の「大万」。日本一安いというふぐ鍋が名物だった。確か、580円だったと記憶している。

深夜、空腹になってくると、寮生たちは町に出かけた。行先は「蛇の目寿司」。寮生が寿司を注文することはまずない。カツ丼だ。うまかった。満腹になった。

  ◇寮祭

鳳陽寮が最高潮に盛り上がるのが寮祭だ。寮祭の準備は樽みこしを作ることから始まる。5寮がそれぞれ工夫して作る。

北寮生は一の坂川近くの造り酒屋(蔵元)に押し掛け、空いた酒樽を担いで帰る。続いて長い縄を寮の廊下に伸ばし、しめ縄を作る。寮生が総出で縄を持ち、先輩の掛け声に合わせ、より合わせていく。大相撲の横綱作りと同じ要領だ。作業を繰り返すと、太いしめ縄が出来上がる。

2本の竹の上に酒樽を組み上げ、しめ縄で括り付ける。笹の葉を飾って樽みこしの完成だ。

寮祭当日、寮生たちはみこしを担いで道場門前を練り歩く。市民があたたかく、迎えてくれた。そうだ。あの頃の山口は「学生さん」を大切にしてくれたように思う。

ところが、伝統を誇る鳳陽寮は老朽化が進んでいた。山口大学経済学部の平川移転も重なった。鳳陽寮は廃寮となることが決まった。

1970年代。寮祭が敢行された。寮祭最終日の夜、ファイアーストームが行われた。寮生たちは焚き火を囲む。全員、肩を組み、山都逍遥歌を高唱した。

通常は逍遥歌4番の「消えゆく鐘に目覚むれば 弦月白し鴻の峰」を2回繰り返して終わる。

だが、この夜は違った。何度も、何度も、いつ果てることなく繰り返した。鳳陽寮の終焉を惜しむかのように。若い歌声が鴻の峰に消えていった。

              (元鳳陽寮北寮寮長)

令和3年仕事始め

令和3年の正月を迎えました。

鳳陽会東京支部事務局は本日(1月4日)、仕事始めです。

同窓生の方から「今年をもっとよい年に」と記した

年賀状が届いていました。

東京の冬の空は青く、澄んでいます。

コロナ禍ですが、山大経済の絆を大切にして

明るく、元気に同窓会活動を展開できることを願っています。

            鳳陽会東京支部事務局

令和2年仕事納め

お元気ですか。

鳳陽会東京支部事務局は本日(12月28日)で仕事納めです。

令和2年、新型コロナウイルスの影響で、支部総会や日本寮歌祭などが中止となりました。会員の皆様の安心・安全のため、やむを得なかったと思います。

コロナ禍での同窓会活動の一環として会報「東京鳳陽」を10月末に発行しました。1面と最終面をカラー化。山口の情景などを掲載し、紙面も工夫しました。おかげさまで「見栄えがいい」「読み応えがある」などと好評でした。元鳳陽寮生の先輩からは長文のお手紙を頂戴しました。「東京鳳陽の記事を読んで、共感と懐かしさを覚え、思わず筆をとった次第です」と記されていました。

 また、会報発行時、支部年会費の納入を呼びかけたところ、大きな反響があり、続々と支部年会費、寄付金が寄せられました。山大経済の絆を感じました。ありがとうございました。10月にご逝去された会員のご家族からは「最後の会費を納めさせていただきます。長い間、ありがとうございました」との知らせが届き、ほろりとしました。

 今日の朝は小雨模様でしたが、午後から明るい陽光が差し、赤い東京タワーが青空にそびえ立っています。来年こそは、同窓会活動を明るく進めていけることを願っています。

  東京・三田の事務所にて   

                 鳳陽会東京支部事務局長 塩塚 保

松永支部長 語る

山口大学経済学部同窓会、鳳陽会東京支部の松永昭博支部長(学21期)に山口の青春時代や支部活動の課題などを聞いた。

―山口大学経済学部を志望したのは

「私は北九州市出身です。父親から旧制山口高商の伝統を受け継ぐ山大経済をすすめられ、受験しました。高校3年の春、初めて亀山校舎を訪れ、格調高い本館と講堂、そして亀山のザビエル教会が印象に残りました」

―学生時代は

「1960年代末期、大学闘争が盛んで、ストライキが決行されました。4月に入学したが、長期間、講義はありませんでした。卓球部に入り、アルバイト。鮮魚店やレストランなどで働いた。平川からリヤカーを引いて大殿大路まで引っ越した。下宿に友人が集まって大騒ぎの日々です。永倉ゼミ(株式会社法)でしたが、大学にはあまり行かなかった。学究とは程遠い生活でした。ただ、司馬遼太郎や三島由紀夫などの本はよく読みました。また、萩や津和野にもよく行きました」

―山口の好きなところは

「一の坂川が流れる後河原です。春の桜、初夏のホタル、一年中、素晴らしい。そして瑠璃光寺の五重塔。毎日のように通って池のほとりに座っていました。コンパをやった惣野旅館も思い出深い。女将さんと親しくなり、大学卒業後も行きましたね。一八のおでん、蛇の目寿司のカツ丼もなつかしい。山口は学生を大事にしてくれました」

―社会人としての歩みは

「大学掲示板を見て日立金属の面接を受け、入社しました。初任地は戸畑工場でした。その後、輸出部門へ。ドイツ、米国で18年間、海外勤務を続けました。企業買収や工場建設などの仕事を担当。東京本社に戻って役員に就任しました。40年間、いい会社人生でした」

―支部長就任について

「海外勤務が長く、鳳陽会活動にほとんど参加できなかった。だからこそ、同窓会への思いは強い。東京に戻ってから、大学時代の仲間との交流を再開、支部活動に参加するようになりました。上田精一前支部長(学19)から声がかかり、後任を引き受けることにしました」

―東京支部の課題は

 「会員が減少しています。若い会員の動向をつかむことが困難になっている。また、支部財政は赤字が続いています。支部会費(年5千円)が支部活動の財源です。今年度は9月末で300人を超す方々が会費を納めてくれました。さらに、10月末、発行した会報【東京鳳陽】で会費納入を呼びかけたところ、大きな反響があり、続々と会費や寄付金の入金がありました。ありがとうございます。

今年は新型コロナウイルスの影響で、6月開催予定の全国総会、支部総会などが中止となりました。支部総会は年に1度、同窓生が集まって交流。鳳陽寮歌や山都逍遥歌を元気に歌って、来年の再会を誓う大切な場です。中止となって残念でした。また、外出自粛で、気力、体力が落ちている会員がいらっしゃるのではないか・・・。心配しています」

―支部会員へ伝えたいこと

 「山口大学経済学部を卒業したからこそ、私たちは首都圏で就職し、生活の基盤を築くことができた。山大経済が私たちの共通のスタート地点です。学生時代には、楽しい思い出がいっぱいある。その縁を大事にして、みなさん、同窓会活動に参加しようではありませんか。切にお願いします」

鳳陽会東京支部会報10月末発行

鳳陽会東京支部の皆様

お元気ですか。

事務局は今夏より、東京支部の会報「東京鳳陽」第103号(8面)の準備を進めてきました。編集作業はようやく完了。令和2年10月末、発行する運びとなりました。

 「東京鳳陽」はこれまで写真が白黒でしたが、最新号から1面と最終面をカラー化。鳳陽会本部の協力を得て、美しい山口の情景などを掲載します。

 また、会員の皆様への取材や寄稿などで、紙面を充実することができました。

 「東京鳳陽」は近く、皆様のお手元に届きます。ご愛読ください。

 住所変更、新規登録などございましたら、東京支部にご連絡下さい。

   鳳陽会東京支部

   〒108-0073 東京都港区三田2-7-9

   サニークレスト三田1004号

   電話・FAX 03-6435-0523

    

 

   

  

  

塩塚保(23期)が事務局長に就任

去る6月6日(土)に鳳陽会山口本部で開催された第90回通常総会において塩塚

保氏(23期)が理事に選任されました。同時に東京支部事務局長にも就任致しま

したのでここにお知らせします。今後、髙木寛前事務局長との引継ぎ作業を進め

て、松永昭博支部長との新体制となりますのでご支援のほどよろしくお願いいた

します。