ういろう① 菓子

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2022年2月 トピックス】

小田原に勤めていた友人から「ういろう」菓子を頂いた。菓子の箱には「小田原銘菓」、「室町時代から受け継ぐ食感と風味」とある。

山口にも、蒸し菓子の「ういろう」があり、山口土産として郷里に買って帰ったことがある。

◆「ういろう」・・・そうだったのか

その昔、中国元王朝の時代のことだ。浙江省で医術に通じ、薬も調達する「大医院礼部員外郎」という官職に就いていた陳延祐なる人物がいた。

しかし、仕えていた元王朝が明に滅ぼされたため、二朝に仕えることをよしとせず、陳延祐は筑前博多に渡る。いわゆる亡命だ。その際、彼は名前を「陳外郎=ちん・ういろう」と名乗る。辞書をみると外郎の「外」の読み「うい」は唐音とある。すなわち「ういろう」とは、元を辿れば中国の官職名の一部だったようだ。

陳外郎氏は医者としての腕も良く、調合した自前の薬も、苦みはあるが「万能薬」のように良く効いた。

医の腕と薬の評判は京にも届き、時の将軍・足利義満からお声が掛かり、外郎家二代目の時外郎家の居を京都に移す。

この薬、いわゆる外郎氏の「ういろう薬」は、薬としての効能だけではなく、冠の中に忍ばせておけば薬の表面が溶けて芳香を放つ効能もあった。このため、時の天皇から「透頂香(とうちんこう)」という名を賜ったという。

◆ういろう菓子

京にあって、外郎家では朝廷の典医を務めると同時に国賓等の饗応の役回りもこなすうちに、薬の苦い味を消すために菓子を作ることを考えた。

苦い薬と甘い菓子。

この菓子は、薬とのつりあいが良かったようで、「外郎(ういろう)氏の菓子」として評判になり、「ういろう」菓子が誕生した。

その後、五代目の当主の時、北条早雲が小田原にを築くにあたり外郎家が招かれることになり、城下小田原に移り住んだという。

小田原の外郎家では、外郎家の自前の万能薬である「ういろう薬」=「透頂香(とうちんこう)」と共に、お菓子の「ういろう」を売っている。

◆山口の銘菓に

ういろうは各地の土産になっている。早いところでは尾張・名古屋でも1600年代には、ういろうが作られていたようであるが、名古屋より山口の方が少し早く創業している。

なぜだろう。

中四国の覇者になった第24代・大内弘世公が京に魅せられたことが影響しているかもしれない。弘世公は京に似た街づくりを始め、正室を京の三条家から迎えるが、その時すでに姫は菓子「ういろう」を口にしていたかもしれない。

弘世公は姫君孝行だ。姫が淋しがらないように源氏ボタルを取り寄せて喜ばせ、また屋敷中を人形で埋め尽くして楽しませた。大内人形の起こりだ。

そうしてみると、姫を喜ばせるために、弘世公がいち早く京から菓子職人を呼んだのかもしれない。あるいは姫がねだったのか。

外郎と豆子郎

九州にはあまり見ない菓子で、読みにカナが振ってない。

ふざけ半分に「げろう」、「まめごろう」と読んだ友人がいた。

この外郎、山口では江戸時代から御堀にあった福田屋が作っていたが、先の大戦で後継者がいなくなり、福田屋の職人が「御堀堂」を立ち上げたという。

また、豆子郎の方は外郎の改良版で昭和23年の創業。創業者は外郎が好物のエンジニアだったようだ。参入した菓子業界では「しろうと」のため、「しろう」をつけ、「新参者で幼い」意の「豆」をつけたという。

小田原の土産の話に戻るが、頂き物のういろう菓子を早速食べてみた。

いかん。

差し歯が抜けかかり、健康な歯も持っていかれそうになった。

小田原の外郎はかなり粘着度が高いようだ。

学生時代、山口で食べた外郎で、こんなことはなかった。

若い時と違って、私の歯が情けなくなったのだ。きっと。

(学23期kz)

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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