1970年代 青春の下宿③

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】         

1970年代、私は山口大学経済学部に入学した。蛮カラの気風が色濃く残る鳳陽寮・北寮で2年間、暮らした後、3年生になって山口県庁近くの下宿に引っ越した。

 ◇運転免許証

下宿暮らしになれたころ、突然、思い立った。

そうだ。

運転免許証をとろう。

自動車教習所は山口駅方面にあった。

さっそく、手続きを済ませ、下宿から自転車で自動車教習所に通った。

今は、教官がとても親切に教えてくれるそうだが、当時は違った。

傲慢・不遜・強圧的・・・。きわめて不評だった。

私の担当教官もまた、横柄だった。

しかも、趣味(?)は海岸に行って、ナマコを拾うこと。

へんな中年男だった。

 

横暴な指導にしばしば、むかつくが、彼が書類にハンコを押さなければ、次の段階に進めない。

従うしかない。

なんとか、仮免許、本免許と進み、念願の運転免許証を取得した。

◇ホンダZ

次は自動車の購入だ。

私は相当額の貯金を持っていた。

北九州の実家からは仕送りがある。

そのうえ、毎日のように昼も夜もアルバイトをして稼いでいた。

欲しかったのはトヨタS800。小型のスポーツカータイプで、通称「トヨ8」

山口の中古自動車店を回って探したが、販売していなかった。

次に欲しかったのがホンダZ。

後部の窓が水中眼鏡のような独特のデザインだった。

オレンジ色のホンダZ(中古車)を見つけた。気に入った。即、買った。

下宿の近くに駐車場があったのでさっそく契約。

大学には自動車で通学するようになった。

講義に出席するためではない。活動のためである。

◇山下洋輔トリオ

 私は大学祭実行委員会の幹部だった。

秋の大学祭にジャズ界で人気だった山下洋輔トリオを呼ぼう。

交渉の結果、来演決定。

彼らは羽田空港から宇部空港にやってくるという。

大学祭の予算は限られている。宇部⇒山口間を送迎するタクシー代はない。

 大学祭実行委員で車を所有しているのは私だけだった。

私がひとりで宇部空港に迎えに行くことになった。

空港で予定通り合流。助手席に山下洋輔さん。後部座席にメンバーふたりを乗せ、宇部空港を出発。あれこれ話をしながら、無事、山口に到着した。

 ライブ当日。会場の山口大学体育館は満席となった。

山下洋輔トリオは絶好調。白熱のライブに学生たちは熱狂した。

◇ソウルで再会

後日談がある。

私は大学卒業後、新聞社に入社。1980年代、ソウル特派員として赴任した。

ちょうどその頃、山下洋輔トリオがソウルで公演することが決まった。

当時、韓国では反日の機運が高く、日本人の音楽家が公演することはまれだった。

よし。取材しよう。

私は早めに会場に入った。山下さんたちはリハーサルをしていた。

リハーサルが終わって休憩中、声をかけた。その場で取材を申し込む。

アポなしだったが、山下さんは気さくに取材に応じてくれた。

インタビューが終わった。まだ、時間があるようだ、

私は彼に聞いた。

―1970年代、山口大学で公演したことを覚えていますか。

 「ええ、覚えていますよ」

―私が宇部空港に車で迎えに行ったのですよ。

 「えっ、あの時の学生が君なの」

 彼は驚いた様子だった。

 

※その後も話が弾み、旧交をあたためることができました。

   【続く】

(鳳陽会東京支部 S)

2025年春の山口駅

 

露天風呂の日

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんの投稿

『6.26』…はどんな日?

と言う問いに右手を高く掲げて答えようとされる御仁がいたら、その道のかなりの通である。

その心は、”ろく-てん-ふろ”とも読め、『露天風呂の日』となる。

ある大学では温泉学と言った講座も開設されているようだ。
その日に講義があれば、さぞかし湯気が立ち昇る熱い講義になるだろう。
さて、前振りはここまで…


露天風呂の日を制定してこれを町興しに活用している町がある。

昔から岡山県北を「美作の国」と呼び、その地にある温泉地を総称して「美作三湯」と呼ばれているようだ。

湯原、湯郷、奥津とあり、その頭の湯原がその『露天風呂の日』を制定した温泉町だ。



当日は6:26に始まる早乙女による早朝の源泉からの湯の汲み取り、木桶による湯床への注ぎ入れ。

地元の神社の禰宜も招いてのこととなるから、念が入ったしっかりした儀式だ。

また来訪者へのご褒美は湯原ダム下の砂湯の露天風呂は勿論、各旅館の露天風呂も時間限定ではあるが無料入浴が出来る仕掛けである。



経営には儀式の大切さを指摘した「シンボリックマネージャー」なる本もあるくらいだから、儀式は大切だ。
これが古より伝承されてきたものを引き継いだものではない。

『露天風呂の日』を提唱し、町興しに!と決意した時に考案され、継続して実施されてきている。

その話を耳にするとなお、新しい文化の萌芽を感じる。

そして、今全国の温泉地では「温泉」を世界文化遺産制定への活動をしているというから、つい応援したくなる。

吉幾三の「おら、東京さ行くだ」の歌詞にある意味、無い無い尽くし田舎町かも知れない。

しかし、そこに住む、そして生業を営む人のこころに「魂」があれば、町興しの胎動は始まる。温泉につかる前からなんか、ほっこり♨

写真はある雑誌が割付を行った東西温泉番付表!
ここまではある意味冷静であった…

番付を縦に横に、そして斜めに読んでも「湯田温泉」の名が無い…湯本温泉の名も…
年寄(行事役)欄に弘法大師、行基聖人の名が連なるとそうやすやすと異は唱えられないかも知れないが、山口愛を自認する小生からすると熱く”物言い”を唱えたい!(笑)

(岡山B)

第7回 カフェ・ド・ちゃぁみぃ 吉安健太郎 絵画展

第7回 カフェ・ド・ちゃぁみぃ
吉安健太郎 絵画展

(学22期 Y・Y)

◆6月21日(土)の東京は晴れたものの最高気温34℃と暑い。
こうした中、大井町駅から京浜東北線、山手線、西武新宿線を乗り継いで、狭山市駅で降りて、昨年の10月以来2度目の参加となりました。
6月16日の週は派遣先の仕事で色々とあり、凹みました。
自分の老いから身体が言うこと聞かなくなったと自覚せざるを得なくなり、ここ3週間は、土日は自宅で身体を休めて自重していましたがメンタルを何とかしないといけないと悲壮な決意をして、往復6時間の遠出となりました。

◆吉安健太郎さんは元力士(力士歴3年半)の画家の方で、私が大ファンだった北の湖さんと同じ昭和28年生まれです。
日本相撲協会退職後は警視庁に32年間勤務されました。

◆冒頭、展示してある絵画の個々の作品の全体説明を受けました。
私は子供の頃から絵心が皆無で、特に実技の写生は苦痛の時間でした。
高校時代に体育の水泳の時間はカナヅチの為、中耳炎と仮病を使っていましたが、美術の実技の時間は不参加の理由もなく、参加せざるを得ませんでした。

◆大半の時間を最近の大相撲の話題中心に意見交換しました。
白鵬の宮城野親方の日本相撲協会退職の件を始め、幕内格の行司の木村銀治郎氏の舟券購入による使い込み発覚の懲戒解雇等多岐にわたりました。
木村銀治郎さんはFacebookで友達になっていて理論派で格調高い人だったので、ショックで勿体ない。
吉安健太郎さんとはFacebookで友達になって4年ですが、ほぼ同世代の為、懐かしい力士名が出て来ても大抵はわかります。
最後に興福寺の阿修羅像は完売済でしたが、再度描いて頂き、購入することになりました。
あっという間の2時間半でした。

訪れた美術館)
ひろしま美術館
広島現代美術館
大原美術館
足立美術館(島根県)
MOA美術館(熱海)
横浜美術館
東京国立博物館
東京都美術館
西洋美術館
上野の森美術館

追記)
写真5枚目は1996年プランタン銀座での北の湖親方のジョイント油彩展
(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
※コメントを宜しくお願いします。
①トピックス末尾の「コメントを残す」欄から。
あるいは
②私のメールアドレスへ
0rb6672r388367t@ezweb.ne.jp

随筆 横目で眺めた経済学 ⑨経済学の教科書

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

◆経済学の教科書

サミュエルソンの教科書が定番だった。シカゴ大からハーバード大の大学院で数学や物理を修め理数的分析で頭角を現し、近代経済学の発展に多大な貢献をしたことで文句ないノーベル経済学賞を受賞している。

しかし、サムエルソンの経済学の教科書(経済学―入門的分析 上・下)には数式がほとんど出てこないのでありがかった。

◆2000年代に入るとマンキューの経済学の教科書(2019年)が良いとの評判が聞こえてきた。

マンキューかぁ。

学生のころ、マンキューならぬマンリョー(定食屋)にはえらくお世話になったが・・・

29歳でハーバード大教授を務め、CEA(大統領経済諮問委員会)委員長を務めた秀才だ。

マンキューの教科書にも数式が出て来ず、具体的でわかりやすい説名だが、サミュエルソンの教科書の二番煎じの感がある。

彼の本では比較優位の説明に、セリーナ・ウィリアムスとフォレスト・ガンプを登場させ、どちらが芝刈りをした方が得かという問いを立てる。

庭の芝刈りにセリーナは2時間、フォレストは4時間かかる。

ではセリーナが芝刈りをした方が早いが、その方が「得か否か」が問題だ。

機会費用の話だ。

稼ぎを考える。

同じ時間で多く稼ぐにはセリーナは芝刈りをせず、テレビに出た方が得だ。

この場合、結果的にフォレストが芝刈りに比較優位を持っていることなる。

マンキュー家でもマンキューがベストセラーになるような本を書くことに専念できた結果、印税で家を建てたということなのだろう。

◆日本でもノーベル経済学賞を受賞した大家が書いた教科書の翻訳で家を建てたといわれる、経済学者にもいた。

私大の先生で、ノーベル賞経済学者J.スティグリッツの下で学んだ先生だ。

スティグリッツの教科書(2012年)の翻訳もしている。

もちろんその本を「指定図書」にしたのだろう。

(学23期kz)

毛利家の先祖と末裔 ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

◆大江広元をさらに遡った神話の世界(その2)

毛利家の系図をみると大江広元が毛利家第35代とされている。

では初代は誰なのか。

古事記の世界のアメノホヒノミコト(天穂日命)とある。

神話の世界だ。

天照大神と須佐之男命が生んだ五男三女神の一柱。

農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神として信仰される。

この末裔に出雲国の勇士、野見宿祢(のみのすくね)がいる。

【画像】

第14代だ。

なお、第13代の襲髄命(かねすねのみこと)が野見宿祢と同一人物のため、野見宿祢を13代とする説もある。

◆皇族の血

この系譜を下っていくと、28代目が大江音人(おとんど)で平城(へいぜい)天皇(桓武天皇の皇子)の皇子・阿保(あぼ)親王の子にあたるという。

このように皇族の血が入っているとされる。

この家系を下ると・・・

35代が大江広元となり、毛利元就が52代、毛利輝元が54代となる。

さらに下って・・・

毛利輝元から数えて13代藩主・毛利敬親は、初代から数えると毛利家67代にあたり、最後の藩主となった毛利元徳(1839~1896年)は第68代となる。

◆爵位

版籍奉還・廃藩置県でお殿さまは「藩主」と名乗れなくなったが、その代わりに明治17年の華族令で爵位が与えられることになった。

毛利家には「公爵」の位が。

公・侯・伯・子・男。

毛利元徳公には徳川幕府で歴代将軍を輩出してきた徳川宗家と同様、最高位である公爵の位が授与された。

(学23期kz)

毛利元徳公

1970年代 青春の下宿➁

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

 1970年代、私は山口大学経済学部に入学した。蛮カラの気風が色濃く残る鳳陽寮・北寮で2年間、暮らした後、3年生になって山口県庁近くの下宿に引っ越した。

  

◇下宿の朝

県庁に近い清閑な住宅地。

白壁。門。庭のある屋敷が並ぶ。

わが下宿はその一角にある。大家さんの家にも塀とりっぱな門、そして庭があった。 

下宿には、「ストーム」がない。鳳陽寮では伝統の「ストーム」(深夜、寮生が部屋に押しかけてくる)がほぼ毎晩、襲来してきたが、もう悩まされることはない。ぐっすり、安眠できるぞ。朝寝坊しよう・・・。のはずだった。

 ところが、眠っていると、下宿の前の道路から大きな掛け声が響いてくるではないか。

目が覚める。なにごとだろうか。

 

「イチ」―。「ニ」―。「サン」―。「シ」。(指揮官)

「イチ、ニ、サン、シ」。「ニイ、ニイ、サン、シ」(隊員)

集団で早朝ランニングをやっているようだ。

 

ベッドの中で考える。

ははあ・・・。

近くに山口県警本部がある。

おそらく若い警察官たちが訓練の一環として走っているのだろう。

その日以来、この早朝ランニングの掛け声が私の目覚まし時計代りとなった。

 

◇優雅な朝食

洗顔して朝食の準備にとりかかる。

ポットでお湯を沸かす。インスタントコーヒーを淹れる。

冷蔵庫から牛乳を取り出し、ミルクコーヒーに仕立てる。

食パンに厚切りのソーセージを挟む。キャベツをちぎる。

コップと皿をベランダのテーブルに並べる。

四季折々の花が咲く庭を見ながら、優雅な朝食をとる。

 

※下宿の庭は、大家さんの家族が毎日のように手入れしています。

とてもきれいです。イタチが棲みついていました。イタチは警戒心の強い野生動物です。めったに人前に現れませんが、朝食のさい、ときどき、見かけました。 

  

朝食を食べ終わる。コーヒーを飲みながら、朝刊を読む。

1面から社会面までじっくり読み込む。これが後日、おおいに役立つことになろうとは当時は、思いもよらなかった。

◇アルバイトと活動の日々

さて、出かけるとするか。

大学に通学するのが学生の本分だが、私は大学の講義にはいっさい出席しなかった。ただし、ゼミ(小嶋ゼミ=現代中国経済)だけは毎回、出席した。

朝からアルバイトだ。老舗和菓子店の配達(山口県内全域を車で配送する)や報道機関の手伝い、危険なトンネル工事、夜のお仕事など様々なバイトをやった。

活動も忙しい。自治会系、体育会系、文化会系、大学祭系、音楽系など様々な活動を行った。よく時間をやりくりしたものだ。

バイトと活動については改めて記す。

鳳陽寮には大きな浴場があったが、下宿に風呂はない。

一日の活動が終わると、自転車に乗って一の坂川近くの銭湯に通った。

汗を流してさっぱりする。さあ、下宿に帰るか。

自転車で清流沿いを走る。

夜風が気持ちいい。

【続く】

(鳳陽会東京支部 S)

山口県庁近くの清閑な住宅地

 

同窓が三越・工芸作品展に出品

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

日本橋三越・伝統工芸展(6/18~23)に髙原氏(28期)の作品が展示される。

髙原祐二氏(28期・下関西高)は山口県の伝統工芸、赤間関硯の作家。

伝統工芸諸工芸展が6/18(水)~23(月)、日本橋三越で開催され、髙原氏が東京都教育委員会賞を受賞した【すみすり「瓜」】も展示される(写真参照)。

入場無料。

お時間ある方は是非いかがでしょう。

(事務局)

随筆 横目で眺めた経済学 ⑧比較優位の原理

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

◆比較優位

鈴木先生から習ったのは貿易論。国際分業の話だ。

どのように貿易した方が利益を得ることができるか。

比較優位とはAB2国、2財モデルで貿易を行う場合、両国は自国の「相対的に」優位な財の生産に特化した方が、交易量が多くなり、お互い経済厚生は大きくなるとする。

D.リカードが発見した大原理だ。

この比較優位説は経済学における大きな発見とされる。

◆サムエルソン

サムエルソンは教科書「経済学」の中で、比較優位を説く上で、この町一番の弁護士と、この町一番のタイピスト(秘書)がいる弁護士事務所というわかりやすい事例で説明している。

ここでは、タイピストの秘書より、弁護士の方がタイプを打つ速度が速いとしても、弁護士はタイプを打たずに弁護士業務をすべきとなる。

逆説的に言えば、秘書の方が弁護士の比べ、タイプに比較優位があることになる。機会費用が少ないからだ。

弁護士が同じ時間にタイプを打てば、そもそも稼げる大きな金額が逃げていく。

機会費用の問題だ。

サムエルソンは比較優位の原理について「経済学で最も美しい理論」とした。

◆タリフマン・T大統領と鈴木先生

トランプ氏が大統領になった1期目の時。

全国から集まった同期ゼミ生が鈴木重靖先生を囲んで会食会を開催した。

7~8年前の話。会場は維新志士ゆかりの宿・山口松田屋。

この時も貿易赤字を解消したいT大統領は関税をいじっていた。

そもそも、貿易の赤字と黒字。

マルチで考えるべきところをバイで考える、いただけない思考をベースに、関税を強権的にいじくるという、いただけないハイポリティクス。

T大統領もペンシルベニア大・ウォートンスクールで経済学を学んだ経済学士だ。

鈴木先生に、T大統領に「自由貿易の下で、比較優位に基づく貿易を行う方が、最も経済的に厚生を高めることができる」という大原則をレクチャーし、諭してはいかがかと問うてみた。

半分冗談交じりに。

すると鈴木先生は困り顔をされたのが思い出される。

(学23期・kz)

デビッド・リカード

毛利家の先祖と末裔 ①

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

毛利家は戦国武将の中では毛並みの良い家系とされているようだ。

◆大江広元

毛利の家祖は学問をもって朝廷に仕えた大江広元とされる。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも登場した栗原英雄演じる頼朝の側近・大江広元は頼朝が鎌倉幕府を開くにあたり、初代別当として京都から呼び寄せられ、幕府創設に貢献した功績により、出羽、上野(群馬)、武蔵、伊勢等7か国・13庄が授けられたという。

◆毛利を名乗った季光

この領地のうち大江広元の四男季光(すえみつ)は、承久の乱の戦功から幕府内で地位を高め、評定衆として幕政にも参加した。そこで相模国・愛甲郡毛利荘(神奈川県厚木市毛利台)を受け継ぎ、季光がここで初めて毛利の姓を名乗る。

しかし、季光は執権北条氏と母の実家三浦氏との間で戦った宝治合戦では三浦に付き、北条氏に敗北したため、季光は子らと自害、領地・毛利庄を失ってしまう。

しかし、ここで季光の家系が途絶えたわけではなかった。季光の子のうち、越後にいたため合戦時に参加しなかった四男経光(つねみつ)が生き残っていた。

経光は残った毛利の領地のうち、越後に拠点を移す。

そして安芸国吉田荘にあった領地を四男・時親(ときちか)に譲り、時親が安芸毛利を受け継いでゆく。

◆安芸毛利の祖・時親

その時親は大江広元の曾孫にあたり、北条得宗家との関係を強めたことから六波羅評定衆にまで出世して京へ居を移し、毛利氏の再興に一役買う。またこの時、時親が楠木正成に兵法を教えたとの伝承も残っている。

時親は南北朝内乱を契機に安芸吉田荘に居を移し、安芸吉田郡山城を築城、晩年を安芸吉田荘で暮らした。

また、時親の末裔は代々吉田荘を本拠としたため、吉田荘は1591年に毛利輝元が広島城を構えるまで、毛利家の本居城となったのであり、時親は安芸毛利の祖といわれている。

この地は現「安芸高田市」にあたり、そこは毛利元就公が死去した地であり、元就公の墓所がある。 元就の墓には「大江朝臣元就」と、先祖・大江の名が刻まれている。

つづく

(学23期kz)

栄光の男 逝く

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

◆1974年10月、当日小学校2年生であった私は、その人の引退試合を見るために、学校からの家路を急いだ。当時の福岡市西区(城南区)七隈は、今では想像し難いのどかな場所であった。

放課後に校庭で野球の真似事をして帰るのが日課であったが、「今日は長嶋の引退試合やけん、早よ帰るけんね、じゃあねバイバイ」 と稲刈りが終わった稲田の横を全速力で走った記憶がある。

この年の巨人軍は、V10を達成できずに、与那嶺監督率いる中日ドラゴンズにペナントを奪われた。ドラゴンズは、星野仙一や矢沢が投打で活躍していた。

引退試合というのに、平日のデーゲーム。

◆家に帰ると既に試合は始まっていたので、午後2時か3時の試合開始であったのだろう。

試合終了後のセレモニーで照明に照らされた

ブラウン管の中の長嶋の姿は今でも鮮明に覚えている。

ただ、「我が巨人軍は永遠に不滅です」の意味が分からず、翌日学校に行って「先生長嶋の言ってた永遠に不滅って何ですか?」

と朝一で聞きに行った。

◆この当時の地元福岡の球団は、太平洋クラブライオンズ。西鉄ライオンズの親会社西日本鉄道が経営不振で球団を売却。

ライオンズという名前はその後、クラウンライター、そして西武へと引き継がれて行くが、10年以上Bグラスが続き、平和台球場はいつも閑散としていた。

余程球団経営が厳しかったのか、真弓,竹之内などの主力選手でさえも、星の原団地という公団住宅に住んでいた。

◆私の親父は、西鉄ライオンズ黄金期に、全国紙のスポーツ担当記者で西鉄の番記者であった。

すでに20年前に他界したが遺品の中にあったスクラップブックには、親父が書いた記事がたくさん残されていた。

中西、仰木、稲尾などの名選手の活躍はもちろんの事、昭和33年の巨人との日本シリーズで3連敗の後の4連勝、奇跡の大逆転という野球史に残る試合では翌日の朝刊に戦評も担当している。

そこには、第四戦以降、西鉄バッテリーとベンチのスタッフが、長嶋の打撃を分析研究の末、徹底的に長嶋を抑えた事が流れを変えたと書かれてあった。

ご冥福をお祈りします。

大学37期 上野啓

1974年10月14日  長嶋引退
出典:時事通信