回顧・馬関戦争④幕府の動き

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年4月トピックス】

四国連合艦隊が長州を報復攻撃(元治元年=1864年)することになり、幕府は慌てた。

もっとも幕府内では第一次長州征伐の命が下った後であり、伊能忠敬が作成した地図を連合国に渡し、長州攻撃に手を貸すべしとの話も出たという。

しかし、結局自国内のことであり自らの手で長州を懲罰するとの意向を示した。文久38月の薩英戦争の顛末のように、戦争後の講和で薩・英が直接の関係を持つことを嫌がったのだ。

しかし、結果的には幕府が懸念していた事態が現実となる。

◆馬関戦争の結果

歴史はどう動いたのか。

外国の艦船、商船への無通告砲撃(下関事件)は当初「藩難を招く愚挙」とされた。確かにそうであったが、馬関戦争によって長州は格が違う外国相手の攘夷の空しさを痛感し、一転して戦の勝負のカギを握る軍備の近代化に走る。

歴史の回転は想像以上に早く、一本道であった。

英国と結び、また英グラバーを通じた武器の調達により、長州は瞬く間に国内で一、二を争う軍事強国(藩)に躍り出て、薩摩と組み旧体制を壊し、新政府を樹立、世界の列強と肩を並べた。

◆関門海峡・壇ノ浦

関門海峡にある長門国赤間関壇ノ浦(現下関市)。

ここでの源平合戦で平家から源氏へ覇権が移る。

鎌倉時代から始まった武家の世は700年続くが、長州の外国船砲撃第一砲を端緒として歴史が急速に回転し始める。

長州藩による外国船を砲撃した第一砲が18635月。それからわずか5年で大政奉還、王政復古を経て、元号は明治に変わり、武家政権が幕を閉じる。

「無謀な攘夷」であったはずの馬関戦争であったが、外国軍の近代装備の前に無力を痛感した長州が近代的な武器の調達に走り、同じ外様であった薩摩藩と共に700年続いた武家政権を終わらせ、国民国家を誕生させる契機となった。

宋との貿易で平家の繁栄をもたらした馬関海峡。

馬関を死守しようとして壇ノ浦に拠点を構えた平家との戦いに勝ち、源氏の繁栄はここから始まる。

また馬関海峡の重要性を認識していた外国列強との戦いの場になった馬関海峡。

馬関海峡はいにしえから経済上、また地政学上の要衝であったのだ。

(学23期kz)

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回顧・馬関戦争③歴史を変えた第一砲

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【2023年4月トピックス】

馬関戦争とは①1863年の長州の外国船砲撃及び②1864年の四か国連合艦隊の下関報復砲撃の二つの戦争を指すとするものもあり、また後半(②)の報復砲撃のみを指すとするものもあったが、近年の歴史教科書では、馬関戦争を前半と後半に分け、「下関事件」、「四国艦隊下関砲撃事件」と記述している。

以下これに倣う。

◆外国船砲撃(下関事件)

攘夷決行は孝明天皇の意を汲み、幕府の布告に沿った外国船砲撃であった。

攘夷期限は文久3年(1863年)510日に定められ、最初の砲弾は馬関海峡を通る米国の商船に対して放たれた。二週間後に仏艦船を、その3日後には蘭艦船をと次々に砲撃を加えている。

いずれも馬関(下関)海峡を通る外国船に向けた無通告砲撃だ。特にオランダは幕府から、商館を構えることを許され、交流の実績を積んでいた国であったにも関わらず、長州の砲撃を受けたことに驚きが走ったという。

長州の砲撃に対し、翌月米国は軍艦ワイオミング号で長州の艦船2隻を撃沈したほか、もう1隻に再起不能の損傷を与えている。

また仏国も長州に報復攻撃し、陸戦兵70人、水兵180人が下関・前田村に上陸し、民家33戸を焼いた。

しかし、長州は砲台を修復し、小倉側も一部占領して新たな砲台を築き海峡封鎖を続けた。

◆四国艦隊の報復砲撃

翌年のことだ。

攘夷の姿勢を崩さず、挑戦的な姿勢を続ける長州に手を焼く。

この間馬関海峡を通る物流も滞ることになり、欧州本国では経済問題化したという。

このため挑戦的な姿勢を崩さない長州に報復を決意する。

元治元年(1864年)85日から7日にかけて、四か国の連合艦隊は長州に報復攻撃をおこなった。

四か国連合の先頭に立ったのが英国であった。英国は前年の下関事件では長州側から砲撃されてはいないが、海峡封鎖により貿易が出来ず、多大な経済的損失を受けていた。また、当時英国といえば七つの海を支配する強大な覇権国であり、米・仏・蘭も英国の呼びかけに応じ、報復攻撃に参加することになる。

この結果、馬関すなわち下関と彦島の砲台を徹底的に破壊し、占拠した。

この時、住人はねじり鉢巻きの奇兵隊やいつもは威張っている武士が逃げ惑う姿を冷ややかに見ていたという記録が残っている。

この時、奇兵隊の高杉晋作はどうしていたか。

すなわち、高杉は戦いが始まっても参加せず、「無謀な戦い」として、止戦もしていない。伊藤・井上(馨)と共に経過を見守っていた。

止戦するより、戦わせて外国の威力を肌で感じさせた方が良いとの判断からだったという。

戦いは結果が見えており、高杉は講和要員として待機していたという。

(学23期kz)

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美しき角島へ

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【2023年4月トピックス】

角島(つのしま)。

山口県下関市豊北町沖の響灘に浮かぶ。

私たちが学生時代、聞いたこともない島だったが、美しい情景が評判という。

行ってみようではないか。

◇響灘沿岸をドライブ

下関でレンタカーを借りた。カーナビで角島を設定。妻とふたり、一路、豊北町へ向かう。響灘沿岸の道路を走る。快適なドライブだ。1時間余り走る。長い橋が見えてきた。角島大橋だ。

 橋長1780メートル。平成5年に起工し、平成12年に開通したという。

駐車場に車を停める。カメラを構え、写真を撮影する。コバルトブルーの海に白い橋が映える。

 さあ、橋を渡ろう。車窓の両側に海が迫る。数分で角島に上陸した。

◇角島灯台

 島中央の料理店に入る。店員は、島出身の若い女性。はつらつとしている。

海鮮どんぶりを注文。海を眺めながらいただく。おいしい。

 島の先端に灯台がすっくと建つ。角島灯台だ。

英国人技師、ブライトンの傑作といわれ、明治9(1876)年に完成した。

総御影石造りの洋式灯台で、国指定重要文化財。青空に映える。見事だ。

 周辺は夢崎と呼ばれる。海岸沿いに小さな鳥居が見える。行ってみよう。

夢崎明神。石垣に囲まれ、なにか感じる空間だ。

海女たちが仕事を終えた後、無事に感謝して海岸の石を1個ずつ運び上げ、石垣を造ったと伝えられる。ちょっといい話ではないか。

 帰りに牧崎風の公園に寄った。遊歩道が整備されている。岬から角島灯台が見える。周辺では牛の放牧が行われている。運よく、1頭の牛と遭遇した。牛は道を悠然と歩く。牛優先。私たちは道が空くのをしばらく待つ。

ゆったりとしたいい時間が流れる。

 (鳳陽会東京支部 S)

角島大橋

角島灯台

夢崎明神

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私と株主総会(その2)

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【2023年4月トピックス】

サラリーマンを辞めた翌年の6月に永年自分が勤務していた会社の株主総会に出席したことがあります。
1階のエレベータ付近で面識のある人に出会ったりして、何となく照れくさくて、自分としてはお忍びで出席している気持ちでした。
前の方のいい席を確保したくて早目に会場に行きました。
確か6~7列目に座れて開始時間を待っていましたが、少し時間が経過して60歳前後と思われる男性が、私の隣の席が空いていたので、「そこは空いていますか」と仰るので、「どうぞ、どうぞ」と答えたら、その男性は私の隣に座ったのでした。
大勢の株主が詰め掛けて、定刻となって社長が議長となり、株主総会が始まり、予定通り議事進行が進みました。

ところが、質疑応答の時間になるといきなり、私の隣の人が大声を張り上げて、待っていましたとばかりに「議長、議長!!」を連発した。
議長はその人を指名したが、その人の質問を聞いていて次第に従業員株主かそれに近い人とわかった。
第一会場に入り切れない株主の為に、第二会場ではテレビモニターによる中継が行われているようで、カメラが近づいて質問者付近を撮影するので、私は恥ずかしくてたまらなかった。
案の定、後日、社内モニターで私を見たという人から電話があった。
その従業員株主の人は、社内の人にしかわからないような難しい質問をしていた。
毎年、出席をして会社を困らせているような人のようで、途中から議長に多くの株主の質問に答えなくてはいけないのでと遠慮して下さいと云われていたが、私は恥ずかしい限りであった。
どうも、その人は私と同じ時期に退職して、正確にはOB株主であった。 
その後、議長は多くの株主の質問に丁寧に答え、2時間余りの株主総会はやっと終わりました。

終了後、件の人は壇上に近づいて、これまで永年困らせ社長から退任したばかりの会長に今回を最後に田舎に帰るので株主総会に出席しないと云って挨拶をしていたが、会長も苦笑い気味で何とも異様な世界に閉口した。
その後、自分の勤務していた会社の株主総会には出席していませんが、あの人は、本当に田舎に引っ込んで、株主総会に出席しないでいるのだろうかと思うことがあります。
田舎から高い旅費を使って出席しているのではないかと。

同じ年に同業だったのN社の株主総会にも出席しましたが、いろいろと社内の内紛が噴出していた会社で、総会自体も、総会屋らしき数人のメンバーが出席していて、威圧するようなくさい芝居のようなやり取りには閉口した。
何も議長役の社長を掴まえて、おまえ呼ばわりはないと思うが、この時は、私は、社長にならなくて良かったと心底、胸をなでおろしたが(笑)、何とも変な自分に対する慰めであった。
本当に人生いろいろ、株主総会もいろいろである。
(学22期 Y・Y)

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私と株主総会(1)

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【2023年4月トピックス】

サラリーマン時代は日々の仕事に追われて、とても株主総会に行くなどという考えは思い浮かんだこともありませんでした。

会社を辞めて初めて株主総会に出席したのが、東証2部のM自転車でした。
私は介護関連に進出ということで投資していましたが、期待して行った株主総会も最前列に従業員株主を座らせての「異議なし」総会で、30分程度で終わった記憶があります。
その上、栄太郎飴を出席者におみやげとして持たせましたが、何とも不愉快で、株主の意見を真摯に聞こうという姿勢は全く感じられなくて、激怒して帰った記憶があります。
案の定というか、その後、不正な増資とか暴力団との付き合いが取り沙汰されたりして上場廃止となり、その後、すぐに破綻してしまった。
私は当時、損金処理の必要性から、確か株価2円で売却した苦い思い出があります。

その後、定食専門店のO社の株主総会に出席しました。
実際に横浜の店を食事で使っていて、凄く気に入っていた店で、実際に行列が出来るほどの人気でした。
株価は上場後に3,270円の高値をつけ、その後、高値から半値近くに下落していた。
私は株主総会で、我々株主の大半は御社の成長性に期待して株を購入しているのに、店舗展開には消極的で、株主になった意味があまりない旨の質問をしたりしました。
実際に優待券の食事券をもらったりしていましたが、高い買い物となっていました。
その後、株価はさらに半値の700~800円処に下落しました。
私は2年続けて株主総会に出席しましたが、保守的というか慎重な社長の姿勢は変わらずに落胆しました。こんな会社は非公開にして、株式公開すべきでないとまで思いました。
このような会社に資本市場を通じて資金調達されたのでは、株主は堪ったものではありません。
確かに、株価の為に経営があるのではないと思うし、会社は生き物であると思うが、風貌とは違って私より若いその二代目の社長は「若年寄」でどうしようもないと思いを強くして、結局、株主を辞めました。 

上記の2社は苦い思い出ではありますが、インターアクション、トランスコスモス、エイベックスは好印象の会社でした。
インターアクションは総会後に事業所の見学とちょっとした株主との交歓会がありました。
トラスコスモスは質問をしても、社長の受け答えが驚くほどしっかりしていました。
エイベックスは依田社長の時で、その後、騒動があったが、説明は丁寧でわかり易く、株主に対するもてなしの姿勢という面で非常にいい印象を持ちました。
浜崎あゆみ、BOA等の所属のアーティストによる株主の為のライブは素晴らしい。

最後に、私が言いたかったのは、株主総会に出席してみると意外とその会社の経営者の姿勢や会社のことがわかるということです。

写真は場立ち時代の昔の東京証券取引所

(学22期 Y・Y)
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回顧・馬関戦争② 長州の思惑と誤算

◆攘夷を巡る朝廷、幕府、そして長州の思惑

長州が煮詰まるまでの一年をみてみよう。

外国との関係を見るうえでの前提として、最高権威者・孝明天皇が

「攘夷」の意向を強く持っていたことは確かであろう。

この天皇の「攘夷の意思」を尊重し、前提としながら、開国を迫る列強国とどう向き合うかで、幕府と長州藩の間で見解が分かれる。幕府は天皇の意思を理解しながらも、ペリー来航以来、事を荒げず外国と穏便に付き合い、徐々に事実上の開国に向かう現実的な策をとろうとする。ただし、朝廷の勅許を得るという手続きは経ていない。

これに対し、急進・過激な長州藩は、勅許を得ずに列強国と和親・通商条約を通じ開国を進める幕府の姿勢を天皇の意に背くものと非難し、天皇を担ぎ上げる形で、攘夷実行に向かおうとする。

幕府は朝廷や長州藩の攘夷の意に手こずり、510日を攘夷期限とする布告を出す形に追い込まれる。

これに勢いを得て、長州はすぐさま下関を通る外国船を攻撃した。

しかし、幕府としては列強国の外国船相手に攘夷の実行は所詮無謀であり、徹底的な攘夷は事実上できないという読みがあった。

他方、長州としては、幕府が反対しても長州藩単独で天皇を担ぎ出し、長州藩が単独で外国艦隊に砲撃を加えることを考えていた。

すなわち長州としては孝明天皇の意を得ての攘夷であると認識しており、この時は実際朝廷も外国船砲撃に対する長州の攘夷を賞したのだ。

◆長州の誤算

長州としては天皇を担ぎ、攘夷を決行することが260年にわたり苦汁を飲まされてきた徳川幕府を倒すことに直結する絶好の機会であるとの読みがあったのではないか。

しかし、幕府としては攘夷と開国要求という難問を前に、何とか事を穏便に運ぶことに腐心する。

実際のところ、孝明天皇の真意はどこにあったのか。

長州藩の読みでは、攘夷の意を示した孝明天皇は、勅許なく開国に向かう幕府を許すはずはなく、長州が向かう攘夷の実行に理解を示すはずだとみた。

しかしこうした読みはどうやら誤っていたようだ。

どこでどう読み違えたのか。

孝明天皇は、攘夷は幕府に任せ、天皇自ら陣頭指揮を執って徹底的に外国艦隊と戦うことを望んではいないようだということが徐々に明らかになってきた。

また、外国艦船による報復攻撃、さらにはフランス軍の馬関上陸を見て、徹底攘夷という当初の天皇の考えが変わったことも大いに考えられる。

ここに長州側の誤算、読み違いがあったのかもしれない。

しかし、それでも長州は「天皇の意を汲んだ」はずの攘夷を続けようとするが、こうした長州の姿勢、真の狙いは「天皇を担いだ倒幕」であり、幕府、そして公武合体派の薩摩・会津にとって、「天皇を利用した」無謀な攘夷と映る。

こうした危険な長州を京都から排除すべく、公武合体派や急進攘夷を危険視する公家の御注進により、長州を朝廷のある京都から排除せよとの命が下る。

文久3年(1863年)818日の政変だ。長州に与する公家の「七卿落ち」もこの時だ。

長州は機を伺い、京での再起を期すが翌年、池田屋事件で攘夷藩士が新選組に殺害されたことを契機とした禁門の変で御所に向かって発砲、とうとう朝敵となった。

その直後の723日に長州追討令が出され、同じ7月から12月にかけて第一次長州征伐が行われる。

追討令から十日ほど経った元治元年(1864年)85日から7日にかけて四か国連合艦隊の報復砲撃を受けることになる。

内と外からの内憂外患だ。

過激で無謀な長州。

どうしてそうなるのか。

関ケ原での負け組からの挽回意識、捲土重来を期す意識がよほど強かったのだろう。

・・・続く

(学23期kz)

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在京 鳳陽県人会

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【2023年4月トピックス】

◆同期会の話題

総会に参加すると、まず同期同士が集まることになり、立ち話で近況を報告し合う。

やはり、同期が一番親しみやすく、話しやすい。

同期の間では、現役時代は仕事上の勇ましい話が多かったが、現役を退くと学生時代の懐かしい話や海外を始めとする遠出の旅行の話が出始めた。しかし最近では健康のことが話題にのぼることが多い。

どういう病状が出て、どのような手術を、どこで受け、費用はいくらかかったか。

同じような問題を抱える者にとっては大事な情報交換の場となる。

◆参加者名簿

総会には出席者名簿が配られる。

名簿は期別順に表示され、出身高校や出身ゼミも付記されている。

これが同窓のつながりを深める契機となることもある。

総会の後の懇親会の場で、私は名簿をもとに高校の同窓、あるいは同郷の先輩・後輩のところへ、またゼミの先輩・後輩のところへ挨拶しに行くようにしている。

一人の先輩と面識ができれば、先輩は同期の方を紹介してくれる。これがありがたい。

一人の後輩と面識ができれば、近々に一杯飲もうと持ち掛ける。何といっても後輩は愛すべき存在だ。

◆鳳陽会東京支部の県人会

九州にある私の同郷の同窓生の数は、おひざ元の山口県や同じ九州ながら山口の隣県である福岡県に比べて限られている。

それだけに参加者名簿を見た瞬間、同郷の高校名が付された先輩・後輩は自ずと目に飛び込んでくる。

昨年の総会の参加者名簿がきっかけで、同郷の先輩・後輩の皆さんと県人会を開催するようになった。

会場は神保町の中華料理屋と決めている。

1~2年違いの先輩や後輩ではなく、年が相当離れた同郷の先輩や後輩たちから話を伺う。

こうした場は得難いものだ。

当時の山口での生活、就職活動の話、現役時代の武勇伝。近況。

みなさん一人一人が順番で話すたびに、小宇宙が会場に広がる。

面白い。

止まらない。

終わらない。

この県人会、来るゴールデンウィークに第3回目の会合を開く。

(学23期kz)

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回顧・馬関戦争①内憂外患の長州

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【2023年4月トピックス】

第二次大戦の時にも戦時中に外国の軍隊が日本本土に乗り込んできたことはなかった。

しかし、第二次大戦のおよそ100年前に、武力戦争に衝突の結果、本州の一角に外国軍が上陸、沿岸の砲台が占拠され民家が焼かれた。

その場所は長州・山口。

その武力衝突は戦場となった地名から馬関戦争と呼ばれる。

馬関とは下関のことだ。

下関の古称・赤間関(あかまがせき)を赤馬関とも書いたことから、赤が取れて馬関(ばかん)と呼ばれるようになったとされる。

馬関戦争とはあまり聞きなれない事件であり、日本が、ではなく長州が外国との間で戦われた情けない負け戦だったのだが、この戦いが日本の歴史的な大転換につながる結果をもたらしたという意味では重要な事件であった。

◆無謀な戦い

何とも無謀な戦いをしたものだ。

特に18648月の戦いでは、相手は当時「七つの海を支配する」英国を始め、近代砲を備えた艦船を有する仏・蘭・米四か国。対する我が国は長州藩一藩だ。

また当時長州はこの時、禁門の変から朝敵となり、砲撃を受ける十日ほど前に朝廷から長州追討の勅令が下りっていたのだ。

幕府が長州征伐に向かう中、英・仏・蘭・米四か国連合艦隊の砲撃を受ける。

難しい藩内事情の中で、列強国連合と無謀な戦いをしたものだ。

時の政権、すなわち幕府は何をしていたのか。

どのような態度でこの戦争の経緯を眺め、どのように対処し、その結果どのような事態を招いたのか。

幕府が最も恐れていたこと、すなわち雄藩のベクトルと外国勢力のベクトルが結びつき、雄藩が軍備の近代化に走ることができ、幕府が統制ができないような事態が本当に起きてしまったというのが本当のところかもしれない。

・・・続く

(学23期kz)

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クラシックコンサート(続編)

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【2023年4月トピックス】

クラシックコンサートを担当していた頃の思い出話です。
嘗て自分が勤務していた会社の人のことを書くのは何となく憚られましたが、もう時効だと思って書くことにします。

招聘した楽団に対して東京では、重要顧客の招待コンサートの初演の後に会社の会長とか社長のトップから、指揮者に対して、労いを兼ねて楽屋を尋ねて歓迎の挨拶をしてもらっていました。
大阪とか名古屋とか地方公演はその地域を束ねる支社長から、同様に指揮者に対して、地域の代表として終演後に楽屋を尋ねての挨拶が恒例となっていました。
終演後にあまり世界的に著名な指揮者を待たせるわけにはいかず、担当者としては苦労するところです。
地方では一般コンサートの中で、重要顧客を招待していました。
と言うことで営業の前線の支社長としては、重要顧客に対して、お見送りするのはいいのですが、ついつい長引きがちです。

あるコンサート会場で支社の支社長に重要顧客に対する挨拶もそこそこに急ぐように促したのですが、「大事なお客様がいるのに君はなんだ!」ということになりました。
営業の前線の支社長の気持ちもわかりますが、開演前にも挨拶しているのですから、割り切りも必要です。
ドレスデン国立歌劇場管弦楽団率いる世界的巨匠のジュゼッペ・シノーポリ氏のところに挨拶に行くのですから、待たせるわけには行きません。
それでなくてもシノーポリ氏は巷では、難しい人と伝わっていました。
経歴も精神医学を学び、考古学にも明るいということで、インテリ指揮者として周りはぴりぴりとしていました。
その役員クラスの支社長は、財界の重鎮といわれた人の御曹司で当時、父上の名前を聞いて知らない人はいないほどでした。
でも、人づてに言動を聞くにつけ、ひょっとして親の七光りで偉くなられたのでは?と私は思っていた程でした。

楽屋に入るなり、その支社長は英語を得意としているのか、英語でしゃべり始めました。シノーポリ氏は英語も喋れるようでした。
通訳もいたので日本語で喋ればいいものを。
演奏は素晴らしかったと労をねぎらったのはいいのですが、いきなりの次の質問に私は凍てつきました。
「あなたの楽団員のひとりが、あなたの指示に従わないようなことが起こったらどうしますか。」との質問でした。
仮定とはいえ、巨匠を前にしてする質問とは考えられません。
私は卒倒しそうになりました。
何度も会って旧知の仲ならまだしも、初対面の巨匠に対してです。
シノーポリ氏は一瞬、驚いた感じでしたが、私も動揺していて何と答えられたのか聴き取れませんでした。

役員なのに傍若無人というか常識を疑います。
結構、下の人は物事が前に進まなくて苦労したとの噂を聞きました。
弁護するなら、ご本人がご自身の管理能力に悩んでおられて、シノーポリ氏に助言を求められたのかも。

コネも人脈もなく何にもなく、実力(?)で入社し、ペーペーだった私の僻みかもしれません。
それに違いありません。
41回続いたその冠コンサートも昨年の開催を最後に41年間の幕を閉じました。

(学22期 Y・Y)
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私の命拾い 心筋梗塞 ②

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【2023年4月トピックス】

◆突然の脂汗

体調そのものは、そう悪くはなかった。しかし、それから間もなく職場で昼食を食べたあと急に気分が悪くなり、脂汗が噴き出した。

これはいかん、尋常じゃない。今から病院に行って徹底的に検査してくると言いおいて病院に向かったが、脂汗が止まらない。

職場の出口までも辿りつけず、職場の出口近くにあった簡易診療所で伏せた。

幸運だったのは、私が倒れたタイミングが絶妙に良かったということだ。

倒れたのが木曜日の午後だったが、診療所には毎週木曜午後のコマだけ、近くの総合病院から循環器の若い医者が来る。ちょうどそのタイミングと重なった。

若い医者は私を手早く診察するや、すぐさま救急車を呼び、病院でオペをする手配を要領よく済ませた。

◆あっけない手術

救急車の中では脂汗が引き、気分も戻った。仰向けのまま現在の状況を携帯メールで家族に知らせる余裕があった。

集中治療室に運ばれ、冷静な状態でオペを受けた。

部分麻酔をかけ、血管に造影剤を入れて不具合が生じた箇所を突き止める。ここをめがけて腕からカテーテルを入れ、ステントを留置した。手術時間は医者の説明、造影剤の注入、検査時間を含め、1時間もなかったのではないか。

腕からカテーテルを入れ、ステントを留置する作業だけなら、5から10分程度だったと記憶する。

これで一命を取り留めることができた。

便利な手術が開発されたものだ。

ひと昔前なら、胸を開き、場合によっては肋骨を折って手術をしたという話も聞いたことがある。

術後の説明では、後20分手当てが遅れれば、危なかったということだ。魚釣りやゴルフで遠出をしていたならと思うと、冷や汗ものだ。

私の場合、心臓の根本に近い箇所が不具合を起こしており、心臓の3分の一が壊死し、蘇生はしないということであった。

リハビリ時の意外な話

退院時、担当医に身体を動かす上でやってはいけない動き、例えば急に坂道を駆け上るなどの激しい運動は避けた方がよいのか聞いたところ、意外な答えが返ってきた。

問題ないと。

一番悪いのは、むしろ運動をしないことだと。

それ以降、スポーツジムに行って自衛隊の訓練もどきのハードなプログラムを週に3度やっている。

ある時、定期健康診断を受けた際、医者に聞いてみたことがある。心臓を鍛えるということなら、サウナで汗を流し、そのあと冷水を浴びるのも大丈夫じゃないかと。

その医者の答えは、止めておけとのことだった。

健康人でも血液がドロドロになり、血栓ができやすく、心臓には良くないと。

(学23期kz)

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