回顧・馬関戦争①内憂外患の長州

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年4月トピックス】

第二次大戦の時にも戦時中に外国の軍隊が日本本土に乗り込んできたことはなかった。

しかし、第二次大戦のおよそ100年前に、武力戦争に衝突の結果、本州の一角に外国軍が上陸、沿岸の砲台が占拠され民家が焼かれた。

その場所は長州・山口。

その武力衝突は戦場となった地名から馬関戦争と呼ばれる。

馬関とは下関のことだ。

下関の古称・赤間関(あかまがせき)を赤馬関とも書いたことから、赤が取れて馬関(ばかん)と呼ばれるようになったとされる。

馬関戦争とはあまり聞きなれない事件であり、日本が、ではなく長州が外国との間で戦われた情けない負け戦だったのだが、この戦いが日本の歴史的な大転換につながる結果をもたらしたという意味では重要な事件であった。

◆無謀な戦い

何とも無謀な戦いをしたものだ。

特に18648月の戦いでは、相手は当時「七つの海を支配する」英国を始め、近代砲を備えた艦船を有する仏・蘭・米四か国。対する我が国は長州藩一藩だ。

また当時長州はこの時、禁門の変から朝敵となり、砲撃を受ける十日ほど前に朝廷から長州追討の勅令が下りっていたのだ。

幕府が長州征伐に向かう中、英・仏・蘭・米四か国連合艦隊の砲撃を受ける。

難しい藩内事情の中で、列強国連合と無謀な戦いをしたものだ。

時の政権、すなわち幕府は何をしていたのか。

どのような態度でこの戦争の経緯を眺め、どのように対処し、その結果どのような事態を招いたのか。

幕府が最も恐れていたこと、すなわち雄藩のベクトルと外国勢力のベクトルが結びつき、雄藩が軍備の近代化に走ることができ、幕府が統制ができないような事態が本当に起きてしまったというのが本当のところかもしれない。

・・・続く

(学23期kz)

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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