私の命拾い 心筋梗塞 ①

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年4月トピックス】

◆過信

私は元来身体が丈夫な方だと思っていた。中学、高校は運動系の部活に入っており、体を動かすのが好きで、社会人になっても土日や休日には必ず汗を流す。

食欲も旺盛で、風邪で咳が止まらないときも、また熱が出たときも食欲は落ちない。出かける時、「行ってきます」と言うところを「いただきます」と言い、「ご苦労さま」とねぎらうところを「ごちそうさま」と、よく言い間違える。よほど食い意地が張っているのだろう。朝食の時には今日の昼飯に何を食べるか作戦を練りながら箸を運ぶ。

定期健康診断ではコレステロールや中性脂肪が多少高い程度であり、医者と相談して薬を続けていたものの、健康には自信があった。

◆予兆

還暦を少し過ぎた頃、近くのスポーツジムの会員になり、早朝からサイクリングを始めていた。

ある時から、朝起きた直後からサイクリングに出かけるが、ペダルを踏むと胸の真ん中がつかえたような違和感を覚えるようになった。胸の真ん中を2~3度叩けば、つかえたものが簡単にストンと落ちそうな軽微な違和感でもあった。

サイクリングから戻ると胸のつかえは止む。

仕事には全く支障がなく、仕事が終わった後、同僚とよく酒を飲んでいたが、酒の席で胸の違和感のことを話した先輩からは「恋煩いじゃないか」と冷やかされ、笑い話で終わっていた。

しかし、どうも気になる。症状のキーワードを入れてウェブ検索したところ「虚血性狭心症」と出た。

◆医者の見立て

「朝一番の運動と胸のつかえ」・・・これを話せば、専門家から異変の原因と適切な手当のアドバイスをもらえるに違いないと思い、職場の産業医の所に向かった。一通りの検査のあと医者が出した答えは「50%の確率で逆流性食道炎。そうでなければ肺、あるいは胃の上部の問題」ということであった。

◆セカンドオピニオン

朝いちの運動で出る違和感は取れなかった。産業医は言うことは間違ってはいないと思ったが念のため、セカンドオピニオンを求めて自宅近くの公立病院にかかり、産業医にかかったことは伏せて、検査を受けた。

すると奇妙なことに、その医者も全く同じ診断を下した。「5割の確率で逆流性食道炎・・・。今度症状が出たら内視鏡を飲んでみましょう」。

何か変だ。

食道炎という割には食道から酸っぱいものは上がってこないのだ。

それならそれで、大したことはないと思い、これまで通りの生活を続けたが、朝イチの運動に伴う胸のつかえは取れなかった。

(学23期kz)

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「幻の九蓮宝燈成る!!」

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【2023年3月トピックス】

話は、私が新入社員の頃ですから48年余り前の昭和49年のことです。
本社での4ヶ月に及ぶ新入社員導入教育を経て、8月に故郷の広島に配属されたのですが、ある日、ひょっこり、当時の支社長が独身寮に来られて、卓を囲むことに。
新入社員の私からすると当時200人余りの部下を率いる雲の上の存在の人で緊張もしたものです。
結構、旧き良き時代の人でいい意味で個性的でワンマンな人でした。

そしたら、その支社長がいきなり「九蓮宝燈」をやってしまったのです。
九蓮宝燈は一生に一回あがれるかどうかといわれる役マンで、この役をあがると、あまりにも運を使い過ぎてしまい、死ぬと言う噂があるほどの幻の役マンなのです。
何しろ9面待ちの純正9蓮であがったのですから。
支社長は大喜びでした。

そうこうしているうちに、これは休み明けに支社のメンバーに報告しないといけないという雰囲気になり、私が、掲示用の壁新聞を作ることに。
その時の見出しが、「T支社長、幻の九蓮宝燈成る!!」でした。
聴牌のカタチを絵にも描きました。
支社長のお墨付きをもらっているので、何も恐いものはありません。
誰も文句を言う人はいませんでした。
私もサラリーマン時代のヨイショはこの時が最初で最後で性に合わず続きませんでした。
結果は見ての通りの超スロー出世ぶりでした。(笑)

この支社長は麻雀は好きでしたが、あまり上手ではなく、通常は部下の人が手加減をするので、そこそこ成績はいいのですが、麻雀大会となるといつも駄目でした。(笑)
皆が賞を狙って、ガチンコ勝負で必死に打つからです。
この支社長、既に鬼籍に入られていますが、元気だった頃は昔のメンバーで支社長を囲む会があると決まって自慢のタネとなっていたそうです。


(学22期 Y・Y)
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関門海峡 

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【2023年3月トピックス】

◆小倉―松山フェリー

昔、瀬戸内海を挟んだ山口の対岸、四国・愛媛県の松山市に勤務したことがある。松山から実家のある鹿児島本線沿いの熊本に行く際、もっぱら松山--小倉間を結ぶフェリーを使って九州に渡った。

かつては松山から熊本まで佐田岬の真上を飛ぶ天草エアラインの熊本線があった。ボンバルディア社のプロペラ機で低い高度で飛び、きれいな島々がよく見えるため気に入っていたが、採算が取れなくなったとみえて廃線となった。

鉄道を使うという手もあるが、四国から九州の鹿児島本線沿いの都市へは行きにくい。

松山から一度香川の高松まで戻り、瀬戸大橋を渡り岡山へ渡り、岡山から山陽本線を苦だって九州へ向かうことになる。「コ」の字型の経路になることになり、いかにも効率が悪い。

◆早鞆の瀬戸

フェリーは松山港を夜の10時に出て、小倉港には翌朝5時に着く。

関門海峡の東端である早鞆の瀬戸。下関・壇ノ浦と北九州門司との最狭部にあたる。

ここを通り、壇ノ浦の古戦場跡を通過し、関門橋をくぐり、彦島の脇を通って小倉港に入ることになる。

ここの潮の流れは速い。海上保安庁の外郭団体が作っている潮流表があるが、潮の干満によって、1日に6時間ごと4度、潮が変わる。

潮の流れは早い時で8ノットほど(10ノット=時速約19㎞)だという。過去には12ノットになった時もあったという。

下関の日の出は早い時で5時少し過ぎだ。空が明るくなるのは日の出の30分くらい前から。そのころには山の稜線が見え始める。

◆松本清張と関門海峡

清張の作品には下関、門司、小倉を舞台にした作品が多い。

清張の父は短編小説「父系の指」に描かれているのが恐らく本当か本当に近いのではないかという気がする。伯耆(鳥取県)の国で中国山地の山奥(鳥取県日野郡日南町矢戸)から、米国取引所などがあり活況を呈していた広島に出た後、小倉に住み、そこで清張は生まれた。

父は一旗揚げようと下関に渡る。このため清張も父に伴い11歳まで彦島で育ったが、父の商売がうまくいかず、一家は小倉に戻ったようだ。

清張の作品では、下関から見た指呼の間(しこのま)の和布刈(めかり)地区が舞台になった小説がある。フィルムをトリックに使った完全犯罪の作品「時間の習俗」。その出だしの見出しが「和布刈神事」とある。毎年旧暦の正月に神主が潮の引いた海に降りて鎌で若布を刈り、神前に供え海の幸の豊穣を祈るというもので、古事記にも出ており、2000年の歴史がある。

また清張には小倉に一時期滞在した森鴎外を題材にし、芥川賞を受賞した有名な「或る『小倉日記』伝」がある。

小倉滞在時の森鴎外を追う一人の青年。異才を持ちながらも障害を抱えたその青年と、青年を支える母。昭和初期を時代背景にした清張らしく重くて暗い作品だ。子を思い、美貌の容姿を持ちながらも自らを打ち捨て、不自由な我が子に思いを遂げさせようとする母の姿には胸がつまる。

◆関門海峡の潮の流れに乗って 高商3年時の名物・海外渡航

明治40年(1907年)、高商の3年時に一か月程度の行程で「満韓地方や支那」へ向かう修学旅行が始まったという。商業施設や工場の見学をし、実業界各方面の講演を聞き、報告書や論文を提出させ、それが成績考査の対象とされたという。当時、授業の一環で海外渡航を実施する学校は例がなく、画期的な催しとして注目を浴びたようだ。

また、この時に先輩たち一行が被っていたカンカン帽の姿が有名になったという。

この時先輩たちが出航したのが下関港。

先輩たちは関門海峡の潮の流れに乗って響灘を通り、釜山や上海に行ったのだ。

(学23期kz)

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ブラジル

人口の7~8割は腰簑を巻いて毎日踊っていると思っていたが、あにはからんや、大西洋の対岸のヨーロッパ経済圏の一部として、存在感がある。

経済は少数のドイツ人やイタリア人が掌握すると聞く。

人種としては、インディオ、黒人、ポルトガル人他の欧州人の混合が7割近くを占めるが、詳細は数多くの出版物が出ており、それらを参照して頂きたい。

さて、私はブラジルのサンパウロで、1999年から3年間過ごした。

欧州駐在時代でも経験しなかったことがある。

第一にトイレでのこと。トイレ(大)には必ずゴミ箱が置いてあった。

よく見るとトイレットペーパーらしきものが入っている。現地の人に訊くと、ブラジルのトイレットペーパーの質が悪くトイレが頻繁に詰まるので、トイレに流してはいけない。用を足した紙はそのボックスに入れるというもの。

(→ 今は紙質が改善していることを望む)

サンパウロでの生活で有難かったのはメイドの存在。掃除、洗濯をまめにやってくれる。不可思議だったのは、アイロンをYシャツのみならず、パンツ、シャツ等の下着まで丁寧にかけること。

現地の人に訊くと、こんな話を聞かせてくれた。

主人が、時折背中が痒いと言っていた。ある日、とうとう我慢できず、奥様に背中を観てくれと言われ、主人の背中を観ると、ぽっかり穴が開き、幼虫のような物が顔を出していたとのこと。

すぐさまどこやらに飛んで行ったらしい。

洗濯物を外に干している間に、虫が卵を産み付けて、その卵が人の背中から体内に入り込んだものと判明した。

ブラジル人が下着までもすべての洗濯物にアイロンをかけるのは、生活の知恵なんですね。

学23期  倉田一平(ペンネーム)

地方移住

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【2023年3月トピックス】

往復の満員電車に揺られたサラリーマン生活に区切りが付き始めると、田舎での生活にあこがれるようだ。

また、最近ではコロナでリモートワークが進み、地方移住とはいかないまでも東京近郊の戸建て物件への需要が高まっているという。

ひと昔前、地方創生・地方活性化の機運が高まる中、地方移住の話が広がり、政府も各種インセンティブを付けて移住を後押しした。しかし蓋を開けてみると、思うように地方移住が進まなかった。

この時、地方移住を検討する場合、一番の抵抗勢力は「奥さん方」ということになった。

奥さん方が抵抗したのは、子供の教育問題もさることながら、一番の問題は「生活が不便になること」だった。

◆理想と現実

東京を離れ、田舎暮らしを求め山梨に居を移した山口・岩国出身の小説家・樋口明雄氏。

あこがれの田舎暮らし。

彼は田舎暮らしの実体験を『田舎暮らし「毒」本』にまとめているが、本の見出しには次のように書かれている。

【理想】

豊かな自然、美しい風景、広大な敷地、ログハウス、ウッドデッキ、薪ストーブ、井戸水、バーベキュー

【現実】

草刈り、雪かき、薪作り、狩猟問題、悪臭問題、地下水問題、地元民との溝、そして美しいものにはいずれ飽きが来るという現実

樋口氏いわく、この中で一番の難物は、「地元民との溝」だったという。いつまでたっても「よそ者」扱いされたのだという。

◆溝を埋める奥さん方

こうした人間関係の厄介な溝。

こうした溝を埋め、地域の人と自然なつながりを作るきっかけを早く作ることができるのが、奥さんと子供たちだ。

私のこれまでの経験に照らしてもそういえる。

ご主人同士はプライドがあり、周りの住人に挨拶もろくに交わさない。

しかし、子供が学校でクラスメイトができると、自然と奥さん同士が仲良くなる。

この絆が大きくなれば、徐々に地元民との溝が埋まる。このタイミングでご主人がその輪に入るのが自然で、すわりが良い。

兄妹や親せき同士、町内会でもそうだが、子供を通じた奥さん同士の仲の繋がりが最も自然であり、一番強い。それにご主人が乗っかれば、世帯同士の付き合いがうまくいく。

その逆、すなわちご主人同士の仲が良いサークルがあるとしよう。ご主人は半ば家族孝行でバーベキューや日帰り旅行に奥さんや子供を巻き込みたくなる。しかし奥さんや子供が付いてくることは、まずない。

奥さん方の絆やネットワークは、殿方とは違った深みや広がりがある。

脱サラで飲食業を始めるとする。この時、ご主人は当時の上司や同僚、部下、友人をお客として見込む。しかしこうした昔の仲間は当てにならず、ましてや常連になる客になることは少ないという。一番客を引っ張ってくるのは奥方たちの仲間であり、力を発揮するのは奥さん方のネットワークだという。

奥さんには頭が上がらない。

どの家庭でもそうだ。

大臣だってそうだ。

大臣よりも偉い人は誰か。

それは大臣の奥さんだという。大臣でも奥さんには頭が上がらない。

(学23期kz)

樋口氏は令和4年11月に防長倶楽部で講演しており、その講演録が会報誌『防長倶楽部』の令和5年1月号に掲載されている。

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防長回天史 末松謙澄という男④

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【2023年3月トピックス】

◆編集のスタイル

当時は国家神道を基軸にした国体か、近代科学としての歴史学か、こうした競い合いがあり、明治の前半は多くの人が前者を良しとした。

史実のみを積み重ねるスタイルになれば無味乾燥なことになり、臨場感が出ない。

例えば天皇の歴史を綴る紀伝体。これは人物が中心になっている。

人物が中心となれば面白くはなるが、客観的な史実から離れていく。

他方、編年体。これは年ごとに編纂するもので、人物にはあまりスポットが当たらず無味乾燥なものとなりがちだ。

では奥深いところを書くのが良いのか。

しかし、そうはならない。

一部の者しか知らないような内情を語れば、典拠のない小説風の伝聞となり、客観性が損なわれる。

末松の回天史は朝廷、幕府側、長州藩側、それぞれのバランスをとりながら、典拠も本文中に示しつつ、双方の動きを時間を追って分かりやすく書いていくスタイルとなっている。

末松は数々の困難を乗り越えて編纂を完成させる。

小倉藩出の者が行う毛利・長州藩の歴史の編纂だ。嫌がらせもあった。次第に金にも底がみえ始めた。

しかし、それでも編纂を止めるようなことはしなかった。

資金が続かなくなると私財まで投げ打ったのだ。

こうなると執念だ。

◆投げ打った私財の中身

話は余談になるが、その投げ打った私財が見事だ。

末松のコレクションは多方面にまたがり、質が高かったとされる。

平安期の古筆、仏画、南宋の馬遼の中国絵画、紀貫之矢藤原定家の歌切(うたぎれ)、室町時代の雪舟、周文、狩野派の作品、茶道具、一級の墨蹟、明治の元勲の書、池大雅矢渡辺華山の文人画があったという。

このほかの軽井沢の別荘・泉源亭を売却し、今でいう億単位の金を作ったとされる。

◆末松が追い求めたもの

末松は「歴史とは何か、明治維新とは何だったのか」という問いについて、学者的良心に基づき問い続けたのだろう。新しい日本が生まれる過程を明らかにし、できるだけ客観的に証拠づけたかったのではないか。

もともと維新からあまり日が経っておらず、こうした問いの下での歴史の編纂を、様々な利害関係者が存命のうちに総括をするのは多少無理があったのかもしれない。末松自身も同時代人でもあるのだから。

しかし、それでも歴史の編纂を諦めなかった末松に感服する。

末松とは人物事典に載っている「官僚・政治家」ではなく、根っからの学究者だったのだ。

末松は大正9年(1920年)9月に執念で「修訂・防長回天史12巻」を脱稿する。

書き終えた後は疲労困憊していたのだろう。当時の流行り病・スペイン風邪に罹患し、急性肋膜炎を併発、脱稿した翌10月の5日、66歳で安らかな処に召された。

・・・完

(学23期kz)

追記

12巻の防長回天史。地元の図書館にあったのが1967年に柏書房から出たもので上・下巻に集約された図書であるが、上巻はもともと図書館で入手できておらず、下巻しかないという。しかも下巻この中は、一部10頁余り切り取られている。

切り取られた箇所を目次で追うと、防長回天史・第五編・下 第六十四章「諸隊及び干城隊の沿革」(前章は「慶応三年の軍事及び教育」)。

こうなると切り取られているところに何が書いてあったか知りたくなる。複写機は既に普及していた頃であり、なぜコピーする手間を惜しみ、切り取ったのか。知られたくないことが書いてあったのだろうか。

柏書房から出た本は国会図書館にもないという。

あるのは神奈川県立図書館と熊本県立図書館のみとのことであった。いつの日か、切り取られた箇所を見てみたい。

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天晴れ友達!

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【2023年3月トピックス】

サラリーマン時代に二度に亘る広島勤務でお付き合いのあった方にMさんという人がいます。
愛媛の新居浜高専卒ですが、私と大して年齢は変わらないので友達でした。

44歳の時に勤務している日本を代表する大手電気会社に見切りをつけ退職し、直ぐに中小企業に転職したものの年収は半減したそうです。
その数年後、広島で電気関係の会社を起業しました。
現役時代から技術士、社会保険労務士等色んな資格を取り、通信制の大学で教員免許(社会・英語・技術)を取得されたとか。
私は資格マニアかと思う程でした。
退職前はアフター5に居酒屋の片隅で会社の評価でお互いにぼやいた仲でした。(笑)

5年半前位には従業員70名と言っていたのに、今や120名とか。
従業員のことを考えると死亡事故が怖いので、飛行機や高速道路での移動は避け、安全な公共の交通機関を利用しているとか。

サラリーマンを続けていれば、不遇で出世とは縁は無く、精々、数人の部下なのに何が幸いするかわかりません。
ここまでこれたのも松下幸之助氏が言っているように自分は「95%が運で、実力は5%」だったと。
一歩間違えばテント生活だったと。
転職は早い方が良く30代が目安で、40代の転職はリスクが多く薦められないと強調されています。

広島ペンクラブに加入し、ペンネームで年2回投稿されたり、数年前には瀬戸内海の電気もガスもない無人島の瓢箪島(ひょっこり?ひょうたんじま)の入札に夢を感じ、札を入れられたとか。
評価価値の殆どないと思われる島に1千万1円の価格を入れられましたが、落札は1億円超えた会社が現れ、持って行かれたとか。(笑)

天晴れ友達!で私も嬉しくなって、いつも元気を貰っています。
「山大経済を出ていれば、経済的には中流以上の恵まれた生活をしている人が殆どだと思うが、その方々が書けないような投稿を下流社会で喘いでいるあなたには期待している。」とMさんから励まされています。💦

(学22期 Y・Y)


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防長回天史 末松謙澄という男③

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【2023年3月トピックス】

◆歴史の編纂

もともと、明治維新政府ができて間もなく、明治天皇は修史を編纂し、「永遠に朽ちることのない典籍」の作成に意欲を示している。

このため明治政府は明治21年(1888年)に毛利家、島津家、山内家、水戸徳川家の四家に藩の事跡を記述し史料を揃えて提出すべく特命を下している。期限は3年だ。

しかしどの藩も編纂することはできなかった。

なぜか。

実証主義というという歴史観がなかったからとされる。

牽強付会、我田引水、わが身のみを美化する史料では困るのだ。

同時代人の了解を得、後世の参考となる藩の事跡を記すには、相当の高みに立って、透明な見地から、文献や史料を読み重ね、歴史を綴る必要がある。

結局政府に提出するにふさわしいものができなかった。このため明治30年になって各家は政府に編纂期限の延期依頼を出している。

末松謙澄は最初から長州・毛利家の歴史編纂を任されていたのではなかった。当初、その任に当たっていた者が、新政府に提出するに足る歴史書を編纂することができなかったことから、事実上の毛利家後見人となっていた井上馨のところに歴史編纂の催促が行くが、井上はこれに困り、伊藤博文に相談したところ、末松謙澄を紹介された。

こうした経緯で末松は明治30年(1897年)に毛利家から長州藩の歴史編輯所(へんしゅうじょ)総裁を任命される。

◆ヘーゲルの歴史観

末松はヘーゲルの歴史観にヒントを受けた。

ヘーゲルは中国の歴史を、王朝が繰り返されても周囲は東夷、西戎、北狄、南蛮と位置付け、どこまで行っても発展性がなく停滞の歴史と映り、そこに疑問を呈する。

しかし、ギリシャ、ローマ、ゲルマンは異なる。発展の歴史がある。ルネサンス、フランス革命、産業革命という段階的発展を通して近代化が実現されているとした。

末松にとって、身近にあった明治維新。日本の歴史的発展を見るうえで明治維新とは何だったのか。

長州藩の歴史編纂に身を投じることが、「歴史の発展」を実証的に、客観的に調べる絶好の機会と捉えたのではないか。

◆編纂は難航

しかし、客観的な記述を期す編纂過程で末松は長州側から様々な嫌がらせを受ける。長州側としては、これまでの毛利家や長州藩、長州英傑の活躍ぶりなど、これまで慣れ親しんだ「親・長州史観」に基づく歴史の語られ方とは違っているからだ。

また末松の生まれは、長州とは対立する幕府側の小倉藩。馬関戦争では外国艦隊を長州側と小倉側から挟撃すべく小倉藩に話を持ち込むが幕府側に立つ小倉側に拒否されたこともあり、長州は良く思っていない。

また、馬関戦争では小倉藩は敗北を喫し、小倉城が落城。このため、小倉藩側からも末松に対し、馬関戦争当時敵方の長州藩の歴史編纂を行うことに批判も出ている。

こうしたことも「防長回天史」の編纂を難航させた。

・・・続く

(学23期kz)

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地元C電力会社のスーさん

地元C電力会社のスーさん
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【2023年3月トピックス】

広島勤務時代のことです。
地元C電力の人が、つかつかと事務所の私の席に入ってきて、広告出稿のお願いに参りましたと言う。
朝から忙しくしていた日であった。
初老の男性である。
渡された名刺を見ると、肩書きはC電力会社副社長Nとある。
何だ偉いさんの名刺を持たされた名代かと思って、応接コーナーで話を聞くことに。

何でも、電力会社で機関誌を年一回定期的に発行していて、広告の出稿のお願いであった。
確か、7~8万程度の金額と記憶していますが、てっきり名代とばかりに思っていたら、何と副社長ご本人であった。
といっても、こちらは、広告を出稿する立場であるから、それを知ったからと言って俄かに態度を豹変するわけにもいかない。
地元C電力さんは支社の大口顧客である。
支社ではいろんな営業窓口があるが、電力部というところがあって、めざとく副社長とわかって、大騒ぎとなった。
火力、水力、原子力の電力源の立地推進をする総責任者の副社長であった。
副社長が、わざわざ平社員のYのところにご挨拶に参上されたと。
こめつきバッタ状態(シツレイ)の営業部の人には信じられない光景である。

本来なら、会社から支社長か電力部長に一本の電話を入れれば済むことである。
ただ、私の場合は職務上のことであるが、今となっては釣りバカ日誌のスーさんとハマちゃん関係を思い出す。
そうはいっても、パチンコを一緒にやったとか個人的にお付き合いしたわけでもなく、C電力副社長だったNさんには失礼になりますが・・・

その後も毎年、私の席にわざわざ広告出稿依頼に来られたが、随分と頭の低い温和な人であった。
電話でいいのですよと言ったのですが・・・
サラリーマンとしてちょっと快感でした。(笑)

(学22期 Y・Y)

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防長回天史 末松謙澄という男②

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【2023年3月トピックス】

末松の東京での出会いの中で、最も重要なものが伊藤博文との出会いではなかったか。

◆伊藤博文との出会い

伊藤は銀座で福地に従っていた末松と出会うが、社説を書いているのが、この19歳の若者であることに驚く。これが最初の出会いである。

伊藤は末松と会うたびに気脈が通じることを実感していたのだろう。伊藤は末松を再三にわたり養子に迎え入れたいと口説くが、末松は「その分に非ず」と丁重に断り続ける。

ただ末松は後々、伊藤の次女・生子(いくこ)を娶ることになり、結局伊藤博文とは義理の親子になったのは面白い。

◆渡英

明治11年(1878年)、24歳で伊藤博文の推挙で英国に渡る。

「英仏歴史編纂方法研究」を目的に「英国公使館付一等書記官見習」として英国ケンブリッジ大に留学した。

伊藤としては明治天皇の歴史編纂に対する思いもあり、この時すでに末松に明治維新史を編纂させる腹積もりがあったのだろう。

◆筆と演説、内外で活躍

末松は多方面で活躍し、源氏物語の英訳なども手掛けた。

六尺(180センチ)に達する大男であり、筆も立つし、弁も立つ。しかし頭髪や髭には手を入れず、身なりには頓着しなかった。こうしたほほえましいアンバランスも人を惹きつけたのかもしれない。

普段は無口であるが、ひとたび演説させれば、場に居合わせたものはみな、引き込まれるように聴き入ったほど演説がうまくかったという。国内だけでなく、海外では「日本人論」で聴衆者をうならせ、欧州で有名人になったようだ。

なぜ演説をしたのか。

また、どのような演説をしたのか。

日本は日露戦争に勝ち、列強の一角に踊り出たが、当時は欧米諸国には厄介な黄禍論(黄色人種脅威論)も見られ、日本による台湾、大韓帝国、インドシナの植民地化に対する疑念があった。

こうした状況で国際的な理解を得られなければ日本が国際社会で孤立し、明治以来40年弱の努力が水泡に帰すことを懸念されたのだ。

日露戦争のさなかに当たる明治38年1905年3月、ロンドン芸術協会で講演した講演の一部が残っている。

演題は「日本の道徳原理」。

日本人は清楚と簡素、純粋と真面目で、漆器の如く外面よりむしろ内面がより綺麗に装飾されており、感情を大げさに表に出すことはしない。日本人は決して好戦的な国民ではないこと、英・米と日本が平和で友好的な関係を保つことが世界平和につながることを力説した。

外国での末松は、講演し、本を記し、新聞に寄稿し、日本を、また日本人を理解してもらうために尽力している。

こうした甲斐があり、当時流れていた黄禍論を抑え、日露戦争したのは何ゆえなのか、日本は欧州にとって決して脅威となる存在ではないことを訴えた。

筆と演説により、多方面で活躍した末松であった。

・・・続く

(学23期kz)

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