防長回天史 末松謙澄という男④

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年3月トピックス】

◆編集のスタイル

当時は国家神道を基軸にした国体か、近代科学としての歴史学か、こうした競い合いがあり、明治の前半は多くの人が前者を良しとした。

史実のみを積み重ねるスタイルになれば無味乾燥なことになり、臨場感が出ない。

例えば天皇の歴史を綴る紀伝体。これは人物が中心になっている。

人物が中心となれば面白くはなるが、客観的な史実から離れていく。

他方、編年体。これは年ごとに編纂するもので、人物にはあまりスポットが当たらず無味乾燥なものとなりがちだ。

では奥深いところを書くのが良いのか。

しかし、そうはならない。

一部の者しか知らないような内情を語れば、典拠のない小説風の伝聞となり、客観性が損なわれる。

末松の回天史は朝廷、幕府側、長州藩側、それぞれのバランスをとりながら、典拠も本文中に示しつつ、双方の動きを時間を追って分かりやすく書いていくスタイルとなっている。

末松は数々の困難を乗り越えて編纂を完成させる。

小倉藩出の者が行う毛利・長州藩の歴史の編纂だ。嫌がらせもあった。次第に金にも底がみえ始めた。

しかし、それでも編纂を止めるようなことはしなかった。

資金が続かなくなると私財まで投げ打ったのだ。

こうなると執念だ。

◆投げ打った私財の中身

話は余談になるが、その投げ打った私財が見事だ。

末松のコレクションは多方面にまたがり、質が高かったとされる。

平安期の古筆、仏画、南宋の馬遼の中国絵画、紀貫之矢藤原定家の歌切(うたぎれ)、室町時代の雪舟、周文、狩野派の作品、茶道具、一級の墨蹟、明治の元勲の書、池大雅矢渡辺華山の文人画があったという。

このほかの軽井沢の別荘・泉源亭を売却し、今でいう億単位の金を作ったとされる。

◆末松が追い求めたもの

末松は「歴史とは何か、明治維新とは何だったのか」という問いについて、学者的良心に基づき問い続けたのだろう。新しい日本が生まれる過程を明らかにし、できるだけ客観的に証拠づけたかったのではないか。

もともと維新からあまり日が経っておらず、こうした問いの下での歴史の編纂を、様々な利害関係者が存命のうちに総括をするのは多少無理があったのかもしれない。末松自身も同時代人でもあるのだから。

しかし、それでも歴史の編纂を諦めなかった末松に感服する。

末松とは人物事典に載っている「官僚・政治家」ではなく、根っからの学究者だったのだ。

末松は大正9年(1920年)9月に執念で「修訂・防長回天史12巻」を脱稿する。

書き終えた後は疲労困憊していたのだろう。当時の流行り病・スペイン風邪に罹患し、急性肋膜炎を併発、脱稿した翌10月の5日、66歳で安らかな処に召された。

・・・完

(学23期kz)

追記

12巻の防長回天史。地元の図書館にあったのが1967年に柏書房から出たもので上・下巻に集約された図書であるが、上巻はもともと図書館で入手できておらず、下巻しかないという。しかも下巻この中は、一部10頁余り切り取られている。

切り取られた箇所を目次で追うと、防長回天史・第五編・下 第六十四章「諸隊及び干城隊の沿革」(前章は「慶応三年の軍事及び教育」)。

こうなると切り取られているところに何が書いてあったか知りたくなる。複写機は既に普及していた頃であり、なぜコピーする手間を惜しみ、切り取ったのか。知られたくないことが書いてあったのだろうか。

柏書房から出た本は国会図書館にもないという。

あるのは神奈川県立図書館と熊本県立図書館のみとのことであった。いつの日か、切り取られた箇所を見てみたい。

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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