在京 鳳陽県人会

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年4月トピックス】

◆同期会の話題

総会に参加すると、まず同期同士が集まることになり、立ち話で近況を報告し合う。

やはり、同期が一番親しみやすく、話しやすい。

同期の間では、現役時代は仕事上の勇ましい話が多かったが、現役を退くと学生時代の懐かしい話や海外を始めとする遠出の旅行の話が出始めた。しかし最近では健康のことが話題にのぼることが多い。

どういう病状が出て、どのような手術を、どこで受け、費用はいくらかかったか。

同じような問題を抱える者にとっては大事な情報交換の場となる。

◆参加者名簿

総会には出席者名簿が配られる。

名簿は期別順に表示され、出身高校や出身ゼミも付記されている。

これが同窓のつながりを深める契機となることもある。

総会の後の懇親会の場で、私は名簿をもとに高校の同窓、あるいは同郷の先輩・後輩のところへ、またゼミの先輩・後輩のところへ挨拶しに行くようにしている。

一人の先輩と面識ができれば、先輩は同期の方を紹介してくれる。これがありがたい。

一人の後輩と面識ができれば、近々に一杯飲もうと持ち掛ける。何といっても後輩は愛すべき存在だ。

◆鳳陽会東京支部の県人会

九州にある私の同郷の同窓生の数は、おひざ元の山口県や同じ九州ながら山口の隣県である福岡県に比べて限られている。

それだけに参加者名簿を見た瞬間、同郷の高校名が付された先輩・後輩は自ずと目に飛び込んでくる。

昨年の総会の参加者名簿がきっかけで、同郷の先輩・後輩の皆さんと県人会を開催するようになった。

会場は神保町の中華料理屋と決めている。

1~2年違いの先輩や後輩ではなく、年が相当離れた同郷の先輩や後輩たちから話を伺う。

こうした場は得難いものだ。

当時の山口での生活、就職活動の話、現役時代の武勇伝。近況。

みなさん一人一人が順番で話すたびに、小宇宙が会場に広がる。

面白い。

止まらない。

終わらない。

この県人会、来るゴールデンウィークに第3回目の会合を開く。

(学23期kz)

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回顧・馬関戦争①内憂外患の長州

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【2023年4月トピックス】

第二次大戦の時にも戦時中に外国の軍隊が日本本土に乗り込んできたことはなかった。

しかし、第二次大戦のおよそ100年前に、武力戦争に衝突の結果、本州の一角に外国軍が上陸、沿岸の砲台が占拠され民家が焼かれた。

その場所は長州・山口。

その武力衝突は戦場となった地名から馬関戦争と呼ばれる。

馬関とは下関のことだ。

下関の古称・赤間関(あかまがせき)を赤馬関とも書いたことから、赤が取れて馬関(ばかん)と呼ばれるようになったとされる。

馬関戦争とはあまり聞きなれない事件であり、日本が、ではなく長州が外国との間で戦われた情けない負け戦だったのだが、この戦いが日本の歴史的な大転換につながる結果をもたらしたという意味では重要な事件であった。

◆無謀な戦い

何とも無謀な戦いをしたものだ。

特に18648月の戦いでは、相手は当時「七つの海を支配する」英国を始め、近代砲を備えた艦船を有する仏・蘭・米四か国。対する我が国は長州藩一藩だ。

また当時長州はこの時、禁門の変から朝敵となり、砲撃を受ける十日ほど前に朝廷から長州追討の勅令が下りっていたのだ。

幕府が長州征伐に向かう中、英・仏・蘭・米四か国連合艦隊の砲撃を受ける。

難しい藩内事情の中で、列強国連合と無謀な戦いをしたものだ。

時の政権、すなわち幕府は何をしていたのか。

どのような態度でこの戦争の経緯を眺め、どのように対処し、その結果どのような事態を招いたのか。

幕府が最も恐れていたこと、すなわち雄藩のベクトルと外国勢力のベクトルが結びつき、雄藩が軍備の近代化に走ることができ、幕府が統制ができないような事態が本当に起きてしまったというのが本当のところかもしれない。

・・・続く

(学23期kz)

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クラシックコンサート(続編)

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【2023年4月トピックス】

クラシックコンサートを担当していた頃の思い出話です。
嘗て自分が勤務していた会社の人のことを書くのは何となく憚られましたが、もう時効だと思って書くことにします。

招聘した楽団に対して東京では、重要顧客の招待コンサートの初演の後に会社の会長とか社長のトップから、指揮者に対して、労いを兼ねて楽屋を尋ねて歓迎の挨拶をしてもらっていました。
大阪とか名古屋とか地方公演はその地域を束ねる支社長から、同様に指揮者に対して、地域の代表として終演後に楽屋を尋ねての挨拶が恒例となっていました。
終演後にあまり世界的に著名な指揮者を待たせるわけにはいかず、担当者としては苦労するところです。
地方では一般コンサートの中で、重要顧客を招待していました。
と言うことで営業の前線の支社長としては、重要顧客に対して、お見送りするのはいいのですが、ついつい長引きがちです。

あるコンサート会場で支社の支社長に重要顧客に対する挨拶もそこそこに急ぐように促したのですが、「大事なお客様がいるのに君はなんだ!」ということになりました。
営業の前線の支社長の気持ちもわかりますが、開演前にも挨拶しているのですから、割り切りも必要です。
ドレスデン国立歌劇場管弦楽団率いる世界的巨匠のジュゼッペ・シノーポリ氏のところに挨拶に行くのですから、待たせるわけには行きません。
それでなくてもシノーポリ氏は巷では、難しい人と伝わっていました。
経歴も精神医学を学び、考古学にも明るいということで、インテリ指揮者として周りはぴりぴりとしていました。
その役員クラスの支社長は、財界の重鎮といわれた人の御曹司で当時、父上の名前を聞いて知らない人はいないほどでした。
でも、人づてに言動を聞くにつけ、ひょっとして親の七光りで偉くなられたのでは?と私は思っていた程でした。

楽屋に入るなり、その支社長は英語を得意としているのか、英語でしゃべり始めました。シノーポリ氏は英語も喋れるようでした。
通訳もいたので日本語で喋ればいいものを。
演奏は素晴らしかったと労をねぎらったのはいいのですが、いきなりの次の質問に私は凍てつきました。
「あなたの楽団員のひとりが、あなたの指示に従わないようなことが起こったらどうしますか。」との質問でした。
仮定とはいえ、巨匠を前にしてする質問とは考えられません。
私は卒倒しそうになりました。
何度も会って旧知の仲ならまだしも、初対面の巨匠に対してです。
シノーポリ氏は一瞬、驚いた感じでしたが、私も動揺していて何と答えられたのか聴き取れませんでした。

役員なのに傍若無人というか常識を疑います。
結構、下の人は物事が前に進まなくて苦労したとの噂を聞きました。
弁護するなら、ご本人がご自身の管理能力に悩んでおられて、シノーポリ氏に助言を求められたのかも。

コネも人脈もなく何にもなく、実力(?)で入社し、ペーペーだった私の僻みかもしれません。
それに違いありません。
41回続いたその冠コンサートも昨年の開催を最後に41年間の幕を閉じました。

(学22期 Y・Y)
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私の命拾い 心筋梗塞 ②

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【2023年4月トピックス】

◆突然の脂汗

体調そのものは、そう悪くはなかった。しかし、それから間もなく職場で昼食を食べたあと急に気分が悪くなり、脂汗が噴き出した。

これはいかん、尋常じゃない。今から病院に行って徹底的に検査してくると言いおいて病院に向かったが、脂汗が止まらない。

職場の出口までも辿りつけず、職場の出口近くにあった簡易診療所で伏せた。

幸運だったのは、私が倒れたタイミングが絶妙に良かったということだ。

倒れたのが木曜日の午後だったが、診療所には毎週木曜午後のコマだけ、近くの総合病院から循環器の若い医者が来る。ちょうどそのタイミングと重なった。

若い医者は私を手早く診察するや、すぐさま救急車を呼び、病院でオペをする手配を要領よく済ませた。

◆あっけない手術

救急車の中では脂汗が引き、気分も戻った。仰向けのまま現在の状況を携帯メールで家族に知らせる余裕があった。

集中治療室に運ばれ、冷静な状態でオペを受けた。

部分麻酔をかけ、血管に造影剤を入れて不具合が生じた箇所を突き止める。ここをめがけて腕からカテーテルを入れ、ステントを留置した。手術時間は医者の説明、造影剤の注入、検査時間を含め、1時間もなかったのではないか。

腕からカテーテルを入れ、ステントを留置する作業だけなら、5から10分程度だったと記憶する。

これで一命を取り留めることができた。

便利な手術が開発されたものだ。

ひと昔前なら、胸を開き、場合によっては肋骨を折って手術をしたという話も聞いたことがある。

術後の説明では、後20分手当てが遅れれば、危なかったということだ。魚釣りやゴルフで遠出をしていたならと思うと、冷や汗ものだ。

私の場合、心臓の根本に近い箇所が不具合を起こしており、心臓の3分の一が壊死し、蘇生はしないということであった。

リハビリ時の意外な話

退院時、担当医に身体を動かす上でやってはいけない動き、例えば急に坂道を駆け上るなどの激しい運動は避けた方がよいのか聞いたところ、意外な答えが返ってきた。

問題ないと。

一番悪いのは、むしろ運動をしないことだと。

それ以降、スポーツジムに行って自衛隊の訓練もどきのハードなプログラムを週に3度やっている。

ある時、定期健康診断を受けた際、医者に聞いてみたことがある。心臓を鍛えるということなら、サウナで汗を流し、そのあと冷水を浴びるのも大丈夫じゃないかと。

その医者の答えは、止めておけとのことだった。

健康人でも血液がドロドロになり、血栓ができやすく、心臓には良くないと。

(学23期kz)

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私の命拾い 心筋梗塞 ①

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【2023年4月トピックス】

◆過信

私は元来身体が丈夫な方だと思っていた。中学、高校は運動系の部活に入っており、体を動かすのが好きで、社会人になっても土日や休日には必ず汗を流す。

食欲も旺盛で、風邪で咳が止まらないときも、また熱が出たときも食欲は落ちない。出かける時、「行ってきます」と言うところを「いただきます」と言い、「ご苦労さま」とねぎらうところを「ごちそうさま」と、よく言い間違える。よほど食い意地が張っているのだろう。朝食の時には今日の昼飯に何を食べるか作戦を練りながら箸を運ぶ。

定期健康診断ではコレステロールや中性脂肪が多少高い程度であり、医者と相談して薬を続けていたものの、健康には自信があった。

◆予兆

還暦を少し過ぎた頃、近くのスポーツジムの会員になり、早朝からサイクリングを始めていた。

ある時から、朝起きた直後からサイクリングに出かけるが、ペダルを踏むと胸の真ん中がつかえたような違和感を覚えるようになった。胸の真ん中を2~3度叩けば、つかえたものが簡単にストンと落ちそうな軽微な違和感でもあった。

サイクリングから戻ると胸のつかえは止む。

仕事には全く支障がなく、仕事が終わった後、同僚とよく酒を飲んでいたが、酒の席で胸の違和感のことを話した先輩からは「恋煩いじゃないか」と冷やかされ、笑い話で終わっていた。

しかし、どうも気になる。症状のキーワードを入れてウェブ検索したところ「虚血性狭心症」と出た。

◆医者の見立て

「朝一番の運動と胸のつかえ」・・・これを話せば、専門家から異変の原因と適切な手当のアドバイスをもらえるに違いないと思い、職場の産業医の所に向かった。一通りの検査のあと医者が出した答えは「50%の確率で逆流性食道炎。そうでなければ肺、あるいは胃の上部の問題」ということであった。

◆セカンドオピニオン

朝いちの運動で出る違和感は取れなかった。産業医は言うことは間違ってはいないと思ったが念のため、セカンドオピニオンを求めて自宅近くの公立病院にかかり、産業医にかかったことは伏せて、検査を受けた。

すると奇妙なことに、その医者も全く同じ診断を下した。「5割の確率で逆流性食道炎・・・。今度症状が出たら内視鏡を飲んでみましょう」。

何か変だ。

食道炎という割には食道から酸っぱいものは上がってこないのだ。

それならそれで、大したことはないと思い、これまで通りの生活を続けたが、朝イチの運動に伴う胸のつかえは取れなかった。

(学23期kz)

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「幻の九蓮宝燈成る!!」

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【2023年3月トピックス】

話は、私が新入社員の頃ですから48年余り前の昭和49年のことです。
本社での4ヶ月に及ぶ新入社員導入教育を経て、8月に故郷の広島に配属されたのですが、ある日、ひょっこり、当時の支社長が独身寮に来られて、卓を囲むことに。
新入社員の私からすると当時200人余りの部下を率いる雲の上の存在の人で緊張もしたものです。
結構、旧き良き時代の人でいい意味で個性的でワンマンな人でした。

そしたら、その支社長がいきなり「九蓮宝燈」をやってしまったのです。
九蓮宝燈は一生に一回あがれるかどうかといわれる役マンで、この役をあがると、あまりにも運を使い過ぎてしまい、死ぬと言う噂があるほどの幻の役マンなのです。
何しろ9面待ちの純正9蓮であがったのですから。
支社長は大喜びでした。

そうこうしているうちに、これは休み明けに支社のメンバーに報告しないといけないという雰囲気になり、私が、掲示用の壁新聞を作ることに。
その時の見出しが、「T支社長、幻の九蓮宝燈成る!!」でした。
聴牌のカタチを絵にも描きました。
支社長のお墨付きをもらっているので、何も恐いものはありません。
誰も文句を言う人はいませんでした。
私もサラリーマン時代のヨイショはこの時が最初で最後で性に合わず続きませんでした。
結果は見ての通りの超スロー出世ぶりでした。(笑)

この支社長は麻雀は好きでしたが、あまり上手ではなく、通常は部下の人が手加減をするので、そこそこ成績はいいのですが、麻雀大会となるといつも駄目でした。(笑)
皆が賞を狙って、ガチンコ勝負で必死に打つからです。
この支社長、既に鬼籍に入られていますが、元気だった頃は昔のメンバーで支社長を囲む会があると決まって自慢のタネとなっていたそうです。


(学22期 Y・Y)
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関門海峡 

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【2023年3月トピックス】

◆小倉―松山フェリー

昔、瀬戸内海を挟んだ山口の対岸、四国・愛媛県の松山市に勤務したことがある。松山から実家のある鹿児島本線沿いの熊本に行く際、もっぱら松山--小倉間を結ぶフェリーを使って九州に渡った。

かつては松山から熊本まで佐田岬の真上を飛ぶ天草エアラインの熊本線があった。ボンバルディア社のプロペラ機で低い高度で飛び、きれいな島々がよく見えるため気に入っていたが、採算が取れなくなったとみえて廃線となった。

鉄道を使うという手もあるが、四国から九州の鹿児島本線沿いの都市へは行きにくい。

松山から一度香川の高松まで戻り、瀬戸大橋を渡り岡山へ渡り、岡山から山陽本線を苦だって九州へ向かうことになる。「コ」の字型の経路になることになり、いかにも効率が悪い。

◆早鞆の瀬戸

フェリーは松山港を夜の10時に出て、小倉港には翌朝5時に着く。

関門海峡の東端である早鞆の瀬戸。下関・壇ノ浦と北九州門司との最狭部にあたる。

ここを通り、壇ノ浦の古戦場跡を通過し、関門橋をくぐり、彦島の脇を通って小倉港に入ることになる。

ここの潮の流れは速い。海上保安庁の外郭団体が作っている潮流表があるが、潮の干満によって、1日に6時間ごと4度、潮が変わる。

潮の流れは早い時で8ノットほど(10ノット=時速約19㎞)だという。過去には12ノットになった時もあったという。

下関の日の出は早い時で5時少し過ぎだ。空が明るくなるのは日の出の30分くらい前から。そのころには山の稜線が見え始める。

◆松本清張と関門海峡

清張の作品には下関、門司、小倉を舞台にした作品が多い。

清張の父は短編小説「父系の指」に描かれているのが恐らく本当か本当に近いのではないかという気がする。伯耆(鳥取県)の国で中国山地の山奥(鳥取県日野郡日南町矢戸)から、米国取引所などがあり活況を呈していた広島に出た後、小倉に住み、そこで清張は生まれた。

父は一旗揚げようと下関に渡る。このため清張も父に伴い11歳まで彦島で育ったが、父の商売がうまくいかず、一家は小倉に戻ったようだ。

清張の作品では、下関から見た指呼の間(しこのま)の和布刈(めかり)地区が舞台になった小説がある。フィルムをトリックに使った完全犯罪の作品「時間の習俗」。その出だしの見出しが「和布刈神事」とある。毎年旧暦の正月に神主が潮の引いた海に降りて鎌で若布を刈り、神前に供え海の幸の豊穣を祈るというもので、古事記にも出ており、2000年の歴史がある。

また清張には小倉に一時期滞在した森鴎外を題材にし、芥川賞を受賞した有名な「或る『小倉日記』伝」がある。

小倉滞在時の森鴎外を追う一人の青年。異才を持ちながらも障害を抱えたその青年と、青年を支える母。昭和初期を時代背景にした清張らしく重くて暗い作品だ。子を思い、美貌の容姿を持ちながらも自らを打ち捨て、不自由な我が子に思いを遂げさせようとする母の姿には胸がつまる。

◆関門海峡の潮の流れに乗って 高商3年時の名物・海外渡航

明治40年(1907年)、高商の3年時に一か月程度の行程で「満韓地方や支那」へ向かう修学旅行が始まったという。商業施設や工場の見学をし、実業界各方面の講演を聞き、報告書や論文を提出させ、それが成績考査の対象とされたという。当時、授業の一環で海外渡航を実施する学校は例がなく、画期的な催しとして注目を浴びたようだ。

また、この時に先輩たち一行が被っていたカンカン帽の姿が有名になったという。

この時先輩たちが出航したのが下関港。

先輩たちは関門海峡の潮の流れに乗って響灘を通り、釜山や上海に行ったのだ。

(学23期kz)

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ブラジル

人口の7~8割は腰簑を巻いて毎日踊っていると思っていたが、あにはからんや、大西洋の対岸のヨーロッパ経済圏の一部として、存在感がある。

経済は少数のドイツ人やイタリア人が掌握すると聞く。

人種としては、インディオ、黒人、ポルトガル人他の欧州人の混合が7割近くを占めるが、詳細は数多くの出版物が出ており、それらを参照して頂きたい。

さて、私はブラジルのサンパウロで、1999年から3年間過ごした。

欧州駐在時代でも経験しなかったことがある。

第一にトイレでのこと。トイレ(大)には必ずゴミ箱が置いてあった。

よく見るとトイレットペーパーらしきものが入っている。現地の人に訊くと、ブラジルのトイレットペーパーの質が悪くトイレが頻繁に詰まるので、トイレに流してはいけない。用を足した紙はそのボックスに入れるというもの。

(→ 今は紙質が改善していることを望む)

サンパウロでの生活で有難かったのはメイドの存在。掃除、洗濯をまめにやってくれる。不可思議だったのは、アイロンをYシャツのみならず、パンツ、シャツ等の下着まで丁寧にかけること。

現地の人に訊くと、こんな話を聞かせてくれた。

主人が、時折背中が痒いと言っていた。ある日、とうとう我慢できず、奥様に背中を観てくれと言われ、主人の背中を観ると、ぽっかり穴が開き、幼虫のような物が顔を出していたとのこと。

すぐさまどこやらに飛んで行ったらしい。

洗濯物を外に干している間に、虫が卵を産み付けて、その卵が人の背中から体内に入り込んだものと判明した。

ブラジル人が下着までもすべての洗濯物にアイロンをかけるのは、生活の知恵なんですね。

学23期  倉田一平(ペンネーム)

地方移住

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年3月トピックス】

往復の満員電車に揺られたサラリーマン生活に区切りが付き始めると、田舎での生活にあこがれるようだ。

また、最近ではコロナでリモートワークが進み、地方移住とはいかないまでも東京近郊の戸建て物件への需要が高まっているという。

ひと昔前、地方創生・地方活性化の機運が高まる中、地方移住の話が広がり、政府も各種インセンティブを付けて移住を後押しした。しかし蓋を開けてみると、思うように地方移住が進まなかった。

この時、地方移住を検討する場合、一番の抵抗勢力は「奥さん方」ということになった。

奥さん方が抵抗したのは、子供の教育問題もさることながら、一番の問題は「生活が不便になること」だった。

◆理想と現実

東京を離れ、田舎暮らしを求め山梨に居を移した山口・岩国出身の小説家・樋口明雄氏。

あこがれの田舎暮らし。

彼は田舎暮らしの実体験を『田舎暮らし「毒」本』にまとめているが、本の見出しには次のように書かれている。

【理想】

豊かな自然、美しい風景、広大な敷地、ログハウス、ウッドデッキ、薪ストーブ、井戸水、バーベキュー

【現実】

草刈り、雪かき、薪作り、狩猟問題、悪臭問題、地下水問題、地元民との溝、そして美しいものにはいずれ飽きが来るという現実

樋口氏いわく、この中で一番の難物は、「地元民との溝」だったという。いつまでたっても「よそ者」扱いされたのだという。

◆溝を埋める奥さん方

こうした人間関係の厄介な溝。

こうした溝を埋め、地域の人と自然なつながりを作るきっかけを早く作ることができるのが、奥さんと子供たちだ。

私のこれまでの経験に照らしてもそういえる。

ご主人同士はプライドがあり、周りの住人に挨拶もろくに交わさない。

しかし、子供が学校でクラスメイトができると、自然と奥さん同士が仲良くなる。

この絆が大きくなれば、徐々に地元民との溝が埋まる。このタイミングでご主人がその輪に入るのが自然で、すわりが良い。

兄妹や親せき同士、町内会でもそうだが、子供を通じた奥さん同士の仲の繋がりが最も自然であり、一番強い。それにご主人が乗っかれば、世帯同士の付き合いがうまくいく。

その逆、すなわちご主人同士の仲が良いサークルがあるとしよう。ご主人は半ば家族孝行でバーベキューや日帰り旅行に奥さんや子供を巻き込みたくなる。しかし奥さんや子供が付いてくることは、まずない。

奥さん方の絆やネットワークは、殿方とは違った深みや広がりがある。

脱サラで飲食業を始めるとする。この時、ご主人は当時の上司や同僚、部下、友人をお客として見込む。しかしこうした昔の仲間は当てにならず、ましてや常連になる客になることは少ないという。一番客を引っ張ってくるのは奥方たちの仲間であり、力を発揮するのは奥さん方のネットワークだという。

奥さんには頭が上がらない。

どの家庭でもそうだ。

大臣だってそうだ。

大臣よりも偉い人は誰か。

それは大臣の奥さんだという。大臣でも奥さんには頭が上がらない。

(学23期kz)

樋口氏は令和4年11月に防長倶楽部で講演しており、その講演録が会報誌『防長倶楽部』の令和5年1月号に掲載されている。

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防長回天史 末松謙澄という男④

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【2023年3月トピックス】

◆編集のスタイル

当時は国家神道を基軸にした国体か、近代科学としての歴史学か、こうした競い合いがあり、明治の前半は多くの人が前者を良しとした。

史実のみを積み重ねるスタイルになれば無味乾燥なことになり、臨場感が出ない。

例えば天皇の歴史を綴る紀伝体。これは人物が中心になっている。

人物が中心となれば面白くはなるが、客観的な史実から離れていく。

他方、編年体。これは年ごとに編纂するもので、人物にはあまりスポットが当たらず無味乾燥なものとなりがちだ。

では奥深いところを書くのが良いのか。

しかし、そうはならない。

一部の者しか知らないような内情を語れば、典拠のない小説風の伝聞となり、客観性が損なわれる。

末松の回天史は朝廷、幕府側、長州藩側、それぞれのバランスをとりながら、典拠も本文中に示しつつ、双方の動きを時間を追って分かりやすく書いていくスタイルとなっている。

末松は数々の困難を乗り越えて編纂を完成させる。

小倉藩出の者が行う毛利・長州藩の歴史の編纂だ。嫌がらせもあった。次第に金にも底がみえ始めた。

しかし、それでも編纂を止めるようなことはしなかった。

資金が続かなくなると私財まで投げ打ったのだ。

こうなると執念だ。

◆投げ打った私財の中身

話は余談になるが、その投げ打った私財が見事だ。

末松のコレクションは多方面にまたがり、質が高かったとされる。

平安期の古筆、仏画、南宋の馬遼の中国絵画、紀貫之矢藤原定家の歌切(うたぎれ)、室町時代の雪舟、周文、狩野派の作品、茶道具、一級の墨蹟、明治の元勲の書、池大雅矢渡辺華山の文人画があったという。

このほかの軽井沢の別荘・泉源亭を売却し、今でいう億単位の金を作ったとされる。

◆末松が追い求めたもの

末松は「歴史とは何か、明治維新とは何だったのか」という問いについて、学者的良心に基づき問い続けたのだろう。新しい日本が生まれる過程を明らかにし、できるだけ客観的に証拠づけたかったのではないか。

もともと維新からあまり日が経っておらず、こうした問いの下での歴史の編纂を、様々な利害関係者が存命のうちに総括をするのは多少無理があったのかもしれない。末松自身も同時代人でもあるのだから。

しかし、それでも歴史の編纂を諦めなかった末松に感服する。

末松とは人物事典に載っている「官僚・政治家」ではなく、根っからの学究者だったのだ。

末松は大正9年(1920年)9月に執念で「修訂・防長回天史12巻」を脱稿する。

書き終えた後は疲労困憊していたのだろう。当時の流行り病・スペイン風邪に罹患し、急性肋膜炎を併発、脱稿した翌10月の5日、66歳で安らかな処に召された。

・・・完

(学23期kz)

追記

12巻の防長回天史。地元の図書館にあったのが1967年に柏書房から出たもので上・下巻に集約された図書であるが、上巻はもともと図書館で入手できておらず、下巻しかないという。しかも下巻この中は、一部10頁余り切り取られている。

切り取られた箇所を目次で追うと、防長回天史・第五編・下 第六十四章「諸隊及び干城隊の沿革」(前章は「慶応三年の軍事及び教育」)。

こうなると切り取られているところに何が書いてあったか知りたくなる。複写機は既に普及していた頃であり、なぜコピーする手間を惜しみ、切り取ったのか。知られたくないことが書いてあったのだろうか。

柏書房から出た本は国会図書館にもないという。

あるのは神奈川県立図書館と熊本県立図書館のみとのことであった。いつの日か、切り取られた箇所を見てみたい。

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