防長回天史 末松謙澄という男④

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【2023年3月トピックス】

◆編集のスタイル

当時は国家神道を基軸にした国体か、近代科学としての歴史学か、こうした競い合いがあり、明治の前半は多くの人が前者を良しとした。

史実のみを積み重ねるスタイルになれば無味乾燥なことになり、臨場感が出ない。

例えば天皇の歴史を綴る紀伝体。これは人物が中心になっている。

人物が中心となれば面白くはなるが、客観的な史実から離れていく。

他方、編年体。これは年ごとに編纂するもので、人物にはあまりスポットが当たらず無味乾燥なものとなりがちだ。

では奥深いところを書くのが良いのか。

しかし、そうはならない。

一部の者しか知らないような内情を語れば、典拠のない小説風の伝聞となり、客観性が損なわれる。

末松の回天史は朝廷、幕府側、長州藩側、それぞれのバランスをとりながら、典拠も本文中に示しつつ、双方の動きを時間を追って分かりやすく書いていくスタイルとなっている。

末松は数々の困難を乗り越えて編纂を完成させる。

小倉藩出の者が行う毛利・長州藩の歴史の編纂だ。嫌がらせもあった。次第に金にも底がみえ始めた。

しかし、それでも編纂を止めるようなことはしなかった。

資金が続かなくなると私財まで投げ打ったのだ。

こうなると執念だ。

◆投げ打った私財の中身

話は余談になるが、その投げ打った私財が見事だ。

末松のコレクションは多方面にまたがり、質が高かったとされる。

平安期の古筆、仏画、南宋の馬遼の中国絵画、紀貫之矢藤原定家の歌切(うたぎれ)、室町時代の雪舟、周文、狩野派の作品、茶道具、一級の墨蹟、明治の元勲の書、池大雅矢渡辺華山の文人画があったという。

このほかの軽井沢の別荘・泉源亭を売却し、今でいう億単位の金を作ったとされる。

◆末松が追い求めたもの

末松は「歴史とは何か、明治維新とは何だったのか」という問いについて、学者的良心に基づき問い続けたのだろう。新しい日本が生まれる過程を明らかにし、できるだけ客観的に証拠づけたかったのではないか。

もともと維新からあまり日が経っておらず、こうした問いの下での歴史の編纂を、様々な利害関係者が存命のうちに総括をするのは多少無理があったのかもしれない。末松自身も同時代人でもあるのだから。

しかし、それでも歴史の編纂を諦めなかった末松に感服する。

末松とは人物事典に載っている「官僚・政治家」ではなく、根っからの学究者だったのだ。

末松は大正9年(1920年)9月に執念で「修訂・防長回天史12巻」を脱稿する。

書き終えた後は疲労困憊していたのだろう。当時の流行り病・スペイン風邪に罹患し、急性肋膜炎を併発、脱稿した翌10月の5日、66歳で安らかな処に召された。

・・・完

(学23期kz)

追記

12巻の防長回天史。地元の図書館にあったのが1967年に柏書房から出たもので上・下巻に集約された図書であるが、上巻はもともと図書館で入手できておらず、下巻しかないという。しかも下巻この中は、一部10頁余り切り取られている。

切り取られた箇所を目次で追うと、防長回天史・第五編・下 第六十四章「諸隊及び干城隊の沿革」(前章は「慶応三年の軍事及び教育」)。

こうなると切り取られているところに何が書いてあったか知りたくなる。複写機は既に普及していた頃であり、なぜコピーする手間を惜しみ、切り取ったのか。知られたくないことが書いてあったのだろうか。

柏書房から出た本は国会図書館にもないという。

あるのは神奈川県立図書館と熊本県立図書館のみとのことであった。いつの日か、切り取られた箇所を見てみたい。

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天晴れ友達!

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【2023年3月トピックス】

サラリーマン時代に二度に亘る広島勤務でお付き合いのあった方にMさんという人がいます。
愛媛の新居浜高専卒ですが、私と大して年齢は変わらないので友達でした。

44歳の時に勤務している日本を代表する大手電気会社に見切りをつけ退職し、直ぐに中小企業に転職したものの年収は半減したそうです。
その数年後、広島で電気関係の会社を起業しました。
現役時代から技術士、社会保険労務士等色んな資格を取り、通信制の大学で教員免許(社会・英語・技術)を取得されたとか。
私は資格マニアかと思う程でした。
退職前はアフター5に居酒屋の片隅で会社の評価でお互いにぼやいた仲でした。(笑)

5年半前位には従業員70名と言っていたのに、今や120名とか。
従業員のことを考えると死亡事故が怖いので、飛行機や高速道路での移動は避け、安全な公共の交通機関を利用しているとか。

サラリーマンを続けていれば、不遇で出世とは縁は無く、精々、数人の部下なのに何が幸いするかわかりません。
ここまでこれたのも松下幸之助氏が言っているように自分は「95%が運で、実力は5%」だったと。
一歩間違えばテント生活だったと。
転職は早い方が良く30代が目安で、40代の転職はリスクが多く薦められないと強調されています。

広島ペンクラブに加入し、ペンネームで年2回投稿されたり、数年前には瀬戸内海の電気もガスもない無人島の瓢箪島(ひょっこり?ひょうたんじま)の入札に夢を感じ、札を入れられたとか。
評価価値の殆どないと思われる島に1千万1円の価格を入れられましたが、落札は1億円超えた会社が現れ、持って行かれたとか。(笑)

天晴れ友達!で私も嬉しくなって、いつも元気を貰っています。
「山大経済を出ていれば、経済的には中流以上の恵まれた生活をしている人が殆どだと思うが、その方々が書けないような投稿を下流社会で喘いでいるあなたには期待している。」とMさんから励まされています。💦

(学22期 Y・Y)


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防長回天史 末松謙澄という男③

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【2023年3月トピックス】

◆歴史の編纂

もともと、明治維新政府ができて間もなく、明治天皇は修史を編纂し、「永遠に朽ちることのない典籍」の作成に意欲を示している。

このため明治政府は明治21年(1888年)に毛利家、島津家、山内家、水戸徳川家の四家に藩の事跡を記述し史料を揃えて提出すべく特命を下している。期限は3年だ。

しかしどの藩も編纂することはできなかった。

なぜか。

実証主義というという歴史観がなかったからとされる。

牽強付会、我田引水、わが身のみを美化する史料では困るのだ。

同時代人の了解を得、後世の参考となる藩の事跡を記すには、相当の高みに立って、透明な見地から、文献や史料を読み重ね、歴史を綴る必要がある。

結局政府に提出するにふさわしいものができなかった。このため明治30年になって各家は政府に編纂期限の延期依頼を出している。

末松謙澄は最初から長州・毛利家の歴史編纂を任されていたのではなかった。当初、その任に当たっていた者が、新政府に提出するに足る歴史書を編纂することができなかったことから、事実上の毛利家後見人となっていた井上馨のところに歴史編纂の催促が行くが、井上はこれに困り、伊藤博文に相談したところ、末松謙澄を紹介された。

こうした経緯で末松は明治30年(1897年)に毛利家から長州藩の歴史編輯所(へんしゅうじょ)総裁を任命される。

◆ヘーゲルの歴史観

末松はヘーゲルの歴史観にヒントを受けた。

ヘーゲルは中国の歴史を、王朝が繰り返されても周囲は東夷、西戎、北狄、南蛮と位置付け、どこまで行っても発展性がなく停滞の歴史と映り、そこに疑問を呈する。

しかし、ギリシャ、ローマ、ゲルマンは異なる。発展の歴史がある。ルネサンス、フランス革命、産業革命という段階的発展を通して近代化が実現されているとした。

末松にとって、身近にあった明治維新。日本の歴史的発展を見るうえで明治維新とは何だったのか。

長州藩の歴史編纂に身を投じることが、「歴史の発展」を実証的に、客観的に調べる絶好の機会と捉えたのではないか。

◆編纂は難航

しかし、客観的な記述を期す編纂過程で末松は長州側から様々な嫌がらせを受ける。長州側としては、これまでの毛利家や長州藩、長州英傑の活躍ぶりなど、これまで慣れ親しんだ「親・長州史観」に基づく歴史の語られ方とは違っているからだ。

また末松の生まれは、長州とは対立する幕府側の小倉藩。馬関戦争では外国艦隊を長州側と小倉側から挟撃すべく小倉藩に話を持ち込むが幕府側に立つ小倉側に拒否されたこともあり、長州は良く思っていない。

また、馬関戦争では小倉藩は敗北を喫し、小倉城が落城。このため、小倉藩側からも末松に対し、馬関戦争当時敵方の長州藩の歴史編纂を行うことに批判も出ている。

こうしたことも「防長回天史」の編纂を難航させた。

・・・続く

(学23期kz)

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地元C電力会社のスーさん

地元C電力会社のスーさん
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【2023年3月トピックス】

広島勤務時代のことです。
地元C電力の人が、つかつかと事務所の私の席に入ってきて、広告出稿のお願いに参りましたと言う。
朝から忙しくしていた日であった。
初老の男性である。
渡された名刺を見ると、肩書きはC電力会社副社長Nとある。
何だ偉いさんの名刺を持たされた名代かと思って、応接コーナーで話を聞くことに。

何でも、電力会社で機関誌を年一回定期的に発行していて、広告の出稿のお願いであった。
確か、7~8万程度の金額と記憶していますが、てっきり名代とばかりに思っていたら、何と副社長ご本人であった。
といっても、こちらは、広告を出稿する立場であるから、それを知ったからと言って俄かに態度を豹変するわけにもいかない。
地元C電力さんは支社の大口顧客である。
支社ではいろんな営業窓口があるが、電力部というところがあって、めざとく副社長とわかって、大騒ぎとなった。
火力、水力、原子力の電力源の立地推進をする総責任者の副社長であった。
副社長が、わざわざ平社員のYのところにご挨拶に参上されたと。
こめつきバッタ状態(シツレイ)の営業部の人には信じられない光景である。

本来なら、会社から支社長か電力部長に一本の電話を入れれば済むことである。
ただ、私の場合は職務上のことであるが、今となっては釣りバカ日誌のスーさんとハマちゃん関係を思い出す。
そうはいっても、パチンコを一緒にやったとか個人的にお付き合いしたわけでもなく、C電力副社長だったNさんには失礼になりますが・・・

その後も毎年、私の席にわざわざ広告出稿依頼に来られたが、随分と頭の低い温和な人であった。
電話でいいのですよと言ったのですが・・・
サラリーマンとしてちょっと快感でした。(笑)

(学22期 Y・Y)

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防長回天史 末松謙澄という男②

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【2023年3月トピックス】

末松の東京での出会いの中で、最も重要なものが伊藤博文との出会いではなかったか。

◆伊藤博文との出会い

伊藤は銀座で福地に従っていた末松と出会うが、社説を書いているのが、この19歳の若者であることに驚く。これが最初の出会いである。

伊藤は末松と会うたびに気脈が通じることを実感していたのだろう。伊藤は末松を再三にわたり養子に迎え入れたいと口説くが、末松は「その分に非ず」と丁重に断り続ける。

ただ末松は後々、伊藤の次女・生子(いくこ)を娶ることになり、結局伊藤博文とは義理の親子になったのは面白い。

◆渡英

明治11年(1878年)、24歳で伊藤博文の推挙で英国に渡る。

「英仏歴史編纂方法研究」を目的に「英国公使館付一等書記官見習」として英国ケンブリッジ大に留学した。

伊藤としては明治天皇の歴史編纂に対する思いもあり、この時すでに末松に明治維新史を編纂させる腹積もりがあったのだろう。

◆筆と演説、内外で活躍

末松は多方面で活躍し、源氏物語の英訳なども手掛けた。

六尺(180センチ)に達する大男であり、筆も立つし、弁も立つ。しかし頭髪や髭には手を入れず、身なりには頓着しなかった。こうしたほほえましいアンバランスも人を惹きつけたのかもしれない。

普段は無口であるが、ひとたび演説させれば、場に居合わせたものはみな、引き込まれるように聴き入ったほど演説がうまくかったという。国内だけでなく、海外では「日本人論」で聴衆者をうならせ、欧州で有名人になったようだ。

なぜ演説をしたのか。

また、どのような演説をしたのか。

日本は日露戦争に勝ち、列強の一角に踊り出たが、当時は欧米諸国には厄介な黄禍論(黄色人種脅威論)も見られ、日本による台湾、大韓帝国、インドシナの植民地化に対する疑念があった。

こうした状況で国際的な理解を得られなければ日本が国際社会で孤立し、明治以来40年弱の努力が水泡に帰すことを懸念されたのだ。

日露戦争のさなかに当たる明治38年1905年3月、ロンドン芸術協会で講演した講演の一部が残っている。

演題は「日本の道徳原理」。

日本人は清楚と簡素、純粋と真面目で、漆器の如く外面よりむしろ内面がより綺麗に装飾されており、感情を大げさに表に出すことはしない。日本人は決して好戦的な国民ではないこと、英・米と日本が平和で友好的な関係を保つことが世界平和につながることを力説した。

外国での末松は、講演し、本を記し、新聞に寄稿し、日本を、また日本人を理解してもらうために尽力している。

こうした甲斐があり、当時流れていた黄禍論を抑え、日露戦争したのは何ゆえなのか、日本は欧州にとって決して脅威となる存在ではないことを訴えた。

筆と演説により、多方面で活躍した末松であった。

・・・続く

(学23期kz)

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ゴルフ、なんでそうなるの! ⑤真冬のゴルフ

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【2023年3月トピックス】

ようやく春が巡ってきた。

それでも北風が冷たく、厳しい朝を迎える日もある。

いつぞや真冬にやったゴルフを思い出した。

◆冬場の朝一番

北関東では、ティーが地面に刺さらないほど地面が凍っている場合が多い。

白い息を吐きながらティーグラウンドに立つと、凍てついたティーグラウンドにティーを刺す穴あけ器(ティー・ボーリング)が置いてある。

右手で鉄の取っ手を持ち上げ、凍った地面に振り下ろすのだが、取っ手も凍っており右手に痺れが残る。

右手に手袋が欲しいところだが、グローブをしているのは左手。何ともチグハグ。

左手で穴を開けようにも今一つ力が入らない。

やはり頼りになるのは利き手の右手だ。

◆真冬特有のゴルフ

真冬のプレーでは面白いことが起きる。

池に打ち込んでもボールは氷の上を跳ね、グリーンに出てくる。

「こいつはいいや!」

結構、トクをした気分になる。

しかし、そのあとに落とし穴が待っている。

グリーン近くから寄せに入るが、凍ったグリーンの上ではボールが止まってくれないのだ。

とてもスコアにならない。

鏡の上とは、まさにこのこと。

凍ったグリーンで特に困ったのは、かなりの段差があるパー3の打ち下ろしのホール。

グリーンを捉えたと思った打球はマジックボールのように2~3度強く飛び跳ね、大きな弧を描きながらグリーン脇の林へ消えた。

次のプレーヤーも同様。

一緒に廻ったパートナーの打球も全てロストボールになってしまった。

凍ったグリーン、恐るべし。

プレーヤーの予想や願望を、ことごとく打ち砕く。

◆止せばいいのに

凍てつく真冬にはゴルフを止めておけばいいのに、そうはいかない。

ひと月もふた月も前から、仲間と楽しみにしていたゴルフ。

仕事に段取りをつけ、家族を納得させ、プレー代の捻出にメドを付けて、仲間とのプレーを楽しむことに専念する。

そしてプレー後には特別の楽しみが待っている。

乾杯だ。

若い時は、雨が降ろうが、雪が降ろうがゴルフを決行!

仲間との無謀な初志貫徹の契り。

ああ、今となっては懐かしい。

(学23期kz)

穴あけ器(ティ・ボーリング)

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料理教室デビュー

写真を添付し再掲載

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【2023年3月トピックス】

(2月トピックス投稿の前号「家電ご相談センター勤務」に続く)

料理教室に行くきっかけになったのは、ある日、電子レンジを使って調理をしているお客様から問い合わせが入って、即、答えを求められたことでした。
相手のお客様は料理中で待ってくれない、そんな悠長なことは言っておれません。
このことがきっかけとなって電子レンジを使いこなし、ひとつでも得意な分野をつくるきっかけにしたいと思いました。

さっそく、料理学校をあたりましたが、男の料理教室を希望しましたがなくて、渋谷のTクッキングスクールの入門コースに通いました。
殆どが女性で5~6名毎のグループ編成がその都度行われ、先生のひととおりの講義の後、グループ毎に実践の料理を作る。
最初は、意気込んではみても、包丁を握ったこともなかった私は、いつの間にか安住の地の皿洗い場にいた。(笑)
誰かが、意地悪して追いやっているというのではなく、いつの間にかそうなっているのである。
入門コースといっても、経験に差があり、積極的な人はどんどん前面に出て料理を手がけていく。
最後は、グループ毎に試食するが、約1名の得体の知れないオジさんがいて、何とも場違いで恥ずかしい。
相手は何も思っていないのかもしれないが、私が勝手に自意識過剰なだけかもしれません。

英会話の教室にはいろいろと通いましたが、すぐに世代を超えて女性とも友達になりましたが、料理教室デビューは溶け込めずに失敗に終わった。
それでも、このクッキングスクールのレシピは素晴らしく、「料理は技術」というだけあって美味しい。
私は、「焼きそば」、「塩、胡椒のステーキ」、「グラタン」は今でも得意中の得意です。
グラタンは感動ものである。
といっても、レシピ通りに作っているだけですが。

料理教室に通った時の感想として、通っている人の殆どが女性で、その上、性格は手に取るようによくわかるので、若い男性には伴侶を見つけるには料理教室が絶好の穴場であると事ある毎に吹聴しています。
女性の性格は駆け引きなくわかり、お見合いなんかより余程いいと思う。
お見合い雑感のテーマになりそうです。

当時デビューしたばかりの無名の十代の松本まりかさんが同じクラスにいましたが、今や「どうする家康」にも出演している人気の女優さんです。

写真1枚目は講師陣の先生方と

写真2枚目は松本まりかさん



(学22期 Y・Y)

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【お詫び】

先に送信したトピックスには写真が添付されていませんでした。

お詫びいたします。

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防長回天史 末松謙澄という男①

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【2023年3月トピックス】

幕末や明治維新を描いた作品に原典として引用される防長回天史。

対象年は嘉永6年(1853年)のペリー来航から明治4年(1871年)の廃藩置県による中央集権確立までの長州藩の歴史を記した著作である。

回天とは時世を一変させることを指す。毛利家の史料から描かれた明治維新史である。山岡荘八や司馬遼太郎も作品を書くに際し用いた貴重な一次史料である。

これを編纂した男がいる。小倉藩出の末松謙澄(けんちょう)だ。

末松謙澄とは何者か。

小倉藩と言えば関門海峡を挟んだ長州藩の対岸。馬関戦争では長州の敵であった。薩摩と共に長州閥が主流となっていた明治時代にあって、東京に出てきた小倉藩出の若者が筆の力で出世を果たし、長州藩の明治維新史を纏めたところが、新しい明治の世を象徴しているように思える。

末松について歴史辞典で調べてみると、「明治大正時代に官僚となり、法制局長官、逓信大臣、内務大臣を歴任した政治家で、伊藤博文の娘婿」とある。

◆地元での出会い、東京での出会い

時は明治。末松は地元で漢学の師と出会い、漢学を十二分に修めた後、17歳で上京し、多くの人と出会う。

  • 元での師・村上仏山との出会い

行橋、小倉藩で庄屋の四男として生まれる。父・七右衛門は国学を修め、和歌を好み、地域の行政にも関与しており、地元では中心的な人物であったのだろう。

1865年10歳で郷土の漢学者・村上仏山に漢学を学ぶ。第二次長州征伐が起こった余波で、高杉晋作の兵が小倉藩に攻め込み、小倉は混乱状態になり、この時起きた百姓一揆で末松家が焼かれる。しかし、これがきっかけとなり謙澄は村上仏山に預けられることになる。

この時仏山から習った漢学、文章力が末松の持ち前の見識、鋭い洞察力と相まって、優れた表現力を備えた若者に育ち、才能を開花させるに至る。                                                                                                                                                                                                                                                                                    

  • 橋是清との出会い

 九州から東京に出てきた末松謙澄は書生として学者の下を転々とするが、佐々木孝行の下で書生をすることに落ち着く。土佐藩士で公爵の佐々木は大政奉還の建白に関わり、また岩倉使節団の関係で司法制度調査を目的とした渡欧歴もある大物で、明治天皇の信任も厚かった人物だ。

末松は佐々木の次女・繁子が、英語の教え方が上手いとされたオランダ系米国人宣教師・フルベッキのところに英語を習いに行く際のお供役であったが、フルベッキ邸で書生・高橋是清と出会う。末松は高橋是清とたちまち意気投合し、高橋から英語を教わる代わりに、末松が高橋に漢学を教える仲になる。

  • 地源一郎との出会い

高橋と共に外国の新聞を訳出し、新聞社に売ることで生計を立てていたが、その縁で、記事を買ってくれていた「東京日日新聞社」(後の毎日新聞)に入社する。

翌年、同新聞社に主幹として迎え入れられた福地源一郎(長崎出身)と出会う。福地は使節団の一員として渡欧経験を有し、各界に人脈を持ち、西郷隆盛、伊藤博文、山縣有朋とも交流のある人物だ。この福地との出会いも末松が世に出る窓を大きく開いた。

福地は末松とウマが合ったのだろう。福地は末松の才能を買っており、若い末松を執筆陣に加えている。その時、末松は何と19歳。

この時から末松は新聞に「元老院批判」や「教務省廃止論」など大胆な社説を書くが、鋭い論評で、正鵠を射ていたのだろう。こうした活躍ぶりが、当時の陸軍卿・山縣有朋の目にとまり、給料を2倍出すから陸軍省へ来いとの誘いを受ける。結局、末松は西南戦争時、山縣の秘書官として九州へ従軍。山縣の要請で、西郷へ宛てた降伏勧告文を起草した。

・・・続く

(学23期kz)

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春帆楼にてふぐを食らう

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【2023年2月トピックス】

冬。ふぐのうまい季節だ。

おいしいふぐを食べたい。

そうだ。下関に行こう。

向かうは名店、春帆楼(しゅんぱんろう)。

羽田空港から飛行機に乗る。妻とふたり旅だ。

 山口宇部空港に着いた。小型バスで下関へ。

関門海峡を望む下関グランドホテルに宿泊する。

◇歴史を誇る名店

 夕方、黒いコートを着てホテルを出る。宵闇迫る海峡沿いの道を歩く。

風は強い。寒い。そうとう寒い。だが、寒ければ、寒いほど、ふぐの味は増すというではないか。

 春帆楼に到着した。関門海峡を見渡す丘の中腹に建つ。煌々と明かりが灯る。

 春帆楼は明治時代の創業。130余年の伝統を誇る。

明治21年、初代総理大臣、伊藤博文公がこの料亭でふぐを食し、

ふぐ料理公許1号店となったそうだ。

明治28年には、日清戦争の日清講和条約(下関条約)締結会場となった。

 学生時代の思い出。寒い冬の夜、山口・道場門前の酒場「大万」で日本一安いといわれたふぐ鍋(私の記憶が正しければ580円)を友と囲み、熱い酒を飲んだものだ。

あのころから、人生で一度は春帆楼のふぐを食べてみたいと願っていた。

◇念願のふぐ

玄関を入る。格調高いたたずまい。壁には長州・山口出身の政治家ら歴代の名士たちの書が掲げられている。3階の部屋に案内された。

畳敷きの個室。窓の向こうに関門海峡が見える。

 和服姿。品のいい女性が接待してくれる。

「お飲み物はなんにいたしますか」

 メニューには山口の銘酒が並ぶ。迷う。

宇部の「貴(たか)」。究極の酒といわれる銘柄を選んだ。

きれいなグラスに清らかな酒が注がれる。

妻と乾杯。

 さあ、いただきます。

 まずはふぐの薄造り。箸ですくう。薬味を入れたポン酢にそっとひたす。

口に運ぶ。うまい。かみしめる。おいしい。

 「素材と味にこだわり、感動を提供する」(総料理長)

 熟練のプロが新鮮で良質なふぐを1匹、1匹目利きして 選び抜き、

歯ごたえ、うまみを最高の状態で調理しているという。

 お椀は、ふぐ真丈すまし仕立て。

 焼き物は、ふぐの香草焼き

 揚げ物は、ふぐ唐揚げ

 メインはふぐのちり鍋だ。熱々の鍋をふうふう、いいながらいただく。

 酒が進む。下関の「天美」に切り替える。

 〆(しめ)は、ふぐ雑炊。これがまた、うまい。

 よく食べた。よく飲んだ。ふぐを堪能した。至福の時が流れる・・・。

  窓から夜景を眺める。

関門橋が光を浴び、夜の海に浮かび上がっている。

 (鳳陽会東京支部 S)

春帆楼

関門海峡を望む部屋

見事なふく料理

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メシヤ、我が想い出 ⑤上高地

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【2023年2月トピックス】

気分を変えたいときには、たまにお婆ちゃんの喫茶店に行った。大学正門前、今は無き長門館の並びにあった「上高地」。

上高地・・・いい響きだ。

当時、新開地の平川地区で喫茶店といえば上高地くらいしかなかったような気がする。

店の入り口にはKEYコーヒーだったか、UCCだったか、大きな目立つ看板があったが、ここでコーヒーを飲んだためしがない。

注文するのは決まってカレーライス。

お婆ちゃん煮込んだ、こってりカレーが気に入っていた。

興が乗った時にはカレーのお供にチャーハンを注文した。

カレーとチャーハン。炭水化物の2丁拳銃。

インドと中国の両大国で古くから受け継がれてきた伝統の調理。

どちらも銀のステンレスの皿に盛られており、匙一本で交互に口に運ぶ。

納得のいく旨さに、時折こぼれそうになる笑みを独りこらえながら、黙々と完食に向かって匙を運ぶ。

最後のひとすくいを終え、まなこを閉じる。

そして、周りに悟られないよう小さく合掌。

このうまさ、この歓びが、抱えている様々な痛みや悩みを溶かす特効薬になってくれた。

ありがたや。

上高地のお婆ちゃんは物静かな上品な方であった。

小柄で、顔の作りはやや下膨れ。おっとり型で、右の口元に上品なイボがあったような気がする。ショートカットの髪には上品なパーマがかかり、淡い草色のワンピースが良く似合っていた。

これまでどのような人生を歩んでこられたのか。

もともと山口の方なのか。

待てよ。

お婆ちゃんだったが、当時、年の頃はいくつくらいだったのだろう。

当時二十歳の私からみたお婆ちゃん。

今思えば結構若かったのではないか。

長門館の双子のお嬢さんと同様、上高地のお婆ちゃんとも、世間話ひとつ交わすこともなかった。

(学23期kz)

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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