日経平均株価 最高値更新の前夜に思う

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】  

あの1989年年末のバブルの最盛期に記録した日経平均株価38,915円87銭を今週末に、あるいは来週初めには超えようとしている。経済学徒の末席、端くれであった40年前を回顧してみよう。 

◆ある日の講義の中で、経済学部の看板教授安部先生が興奮をもって語られた瞬間があった。「日経平均株価が、今日1万円の厚い壁を突き抜けた!」と言う旬な話題である。84年になっていたと思われる。(ネット検索すると1984年1月9日?記録)

既に3年の学年の終了時には、少々の要領の良さもあり、卒業に必要な単位は卒論と演習Ⅱ(4年のゼミ)だけになっていたと記憶している。メーカーの就職活動は夏休み前後に始まる長閑な時代でもあったことで、4年生になっても自由に過ごしていた。(就職活動正式解禁は10月1日)せっかく時間があるのだから、学び足りない(否、学んでいない)授業をもう一度聴講も含めて、受講していた。

今思い出す限りでは、教養部から学部に上がって最重要科目”経済原論Ⅰ”(単位は2年に取得済)を改めて、隔年開催の”日本経済論”を受けた。両科目とも”かの”安部先生による高いレベルの講義内容で、そして博識、これを情熱と毒舌も持って開講されていた科目である。

(当時の安部先生の経済原論は毎月発行されていた「経済セミナー」に何カ月にかわたって連載される水準の内容であった)

(蛇足ついでに、「経済セミナー」(日本評論社)に連載された内容を再編集し、経済学の定番の教科書となったものは多い。中谷厳の入門マクロ経済学、伊藤元重のミクロ経済学等)

前年に開講された経営学特殊講義で4人の先生がリレー方式で一つの講座を持ち、その中で赤石先生の講義、”財務管理論”の中で株のことを話されていたので、”経済原論”の世界だけでなく、もう少し概要は掴めていたかもしれない。しかし、その歴史的な日の安部先生の興奮の度合いは尋常ではなかった。その後、バブルの仇花が咲き、そして膨らみ、バブルは弾けることとなる。

◆当時は、世界でのGNPを競う時代であった。一方、世論の中には「くたばれGNP」とも叫ばれた時代でもあった。日本がGNPで西ドイツを抜いて世界二位となったのは1968年である。大阪万博(”人類の進歩と調和”がテーマ)が1970年開催であるから右肩上がりのまさに高度成長期のど真ん中にいた。

その後各国経済のグローバル化の進展に伴い、経済指標としてのメルクマール(価値基準)としては、GNPからGDPへと変わっていった。2010年には日本はGDP指標で、中国に世界二位の席を譲り、第三位となった。そして、先日2024年2月15日に今度は第三位の席もドイツに譲り、第四位に転落したとの報があった。

ここは転落なのである。・・・(人口で換算し、一人当たりの額の比較、また為替の影響等々様々な要因はあるとしても、また、数字を読み取りをするうえで、都合の良いあり合わせの補正は捨象するとして)

◆そして、奇しくも2025年には大阪万博(”命輝く未来社会のデザイン”がテーマ)が開催される。

最近ニュースでコメントする経済アナリストの一部には、バブルの時の最高値更新の時とは違って、現在の日本経済は裏付けとなる実力を備えている時期だから、それほどの問題がないとのコメントもある。ほんとにそうなのであろうか?

◆1990年には安部先生の退官記念最終講義が行われた。おそらく400人以上収容できる経済一の収納人員規模の大会場の第二講義室で立見席も出る中、ある老齢に達し、退官を間近にあっても熱い熱い講義であった。

最終講義は”日本経済論”の授業の一コマを準備されていた。その演題を少しネットで検索すると、高商時代の「山口商業雑誌」の系譜にある「山口経済雑誌」90年発刊39巻3~4号にその概要が掲載されている。演題は「日本経済の変革課題は何か」という壮大な演題になっている。開催されてから既に40年の歳月が経とうとするが、改めて、心を平らにして一読に値する。

(岡山支部 B) 

氷雨の国葬 山縣有朋 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】  

◆山縣公の評価見直し

前稿で述べた西郷隆盛の件に限らず、山縣公はあまり良い評価がなされてこなかった。

陸軍公金汚職(山城屋事件)、徴兵制の導入、秩禄処分、日清戦争へと暴走させた人物、藩閥政治、強い猜疑心など。

しかし、専門家による史実の研究が進むにつれ、山縣の「悪評、悪人説」は根拠がないとする見方が強まっているようだ。

陸軍汚職には関与していないこと、徴兵制の導入はむしろ軍隊の近代化をもたらしたこと、

秩禄処分は公債を出して「士族」の首を切り、士族の怒りを買ったが、改革断行により国の財政に余力ができ、西欧列強と伍する軍備の調達だけでなく、産業の近代化や教育改革を進める原資となった。

また藩閥政治の代名詞にもなった山縣の人材囲い込みも、民主的な政治勢力が未成熟ゆえの信頼すべき子飼いの人材登用だったことにある。

昭和陸軍暴走の遠因説説も、むしろ山縣は対欧米協調路線の慎重派であったとする評価がなされ始めている。

◆山縣公の実務能力

奇兵隊でのナンバーツーにあたる「軍監」、戊辰戦争での実戦経験、新政府内務大臣時代の地方自治制度、選挙制度定着、教育勅語交付など、実務能力が高かったようだ。このため大久保利通からも信頼を得ており、長州藩士の兄貴分で、明治の三傑の一人、木戸孝允からも厚い信頼を得ていた。

それゆえ失脚しかかっても、またすぐに重用されている。

新政府にあってはこうした高い実務能力は代えがたい魅力があったのだろう。

私人としてもの山縣は趣味人で、和歌や漢詩を好み、筆も達者だ。

また庭園づくりには高く評価されている。

椿山荘然り、小田原の古希庵然り、京都の無鄰菴(むりんあん)然り、

山縣の三大名庭園といわれ、日本の近代庭園の傑作とされる。

◆山縣公の最期

「陽の伊藤、陰の山縣」と言われてきた。

しかし、最期はどうであったか。

伊藤公は68歳の時に外地で凶弾に倒れる。

片や山縣公は享年85歳で永眠した。

眠りについた処は、自慢の庭園である小田原の古希庵であった。

(学23期kz)

小田原 古希庵

氷雨の国葬 山縣有朋

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年2月トピックス】  

◆山縣公の葬儀

寒い冬の季節。この時期に雨が降ると山縣有朋公の葬儀を思い出す。

今から約100年前の2月初旬、山縣の葬儀が日比谷公園で行われた。

気の毒なものだったようだ。

このひと月前に、同じ日比谷公園で行われた大隈重信公の葬儀。

国葬ではなく「国民葬」であり、集まった弔問客は約30万人と新聞に報じられた。

片や山縣公の葬儀は「国葬」であったが、氷雨降るなか葬儀に参列したのは千人ほど。

参列者は軍人が多く「軍人葬」のようだったという。

しかし参列者が少なかったのは氷雨のせいだけではないようだ。

◆山縣公と伊藤公

江戸時代にあって、身分の低いものは逆立ちしても大きな出世はできなかった。

同じ長州藩で似通った境遇であった伊藤博文と山縣有朋。

二人は盟友であり、二人とも明治になって出世し、明治の元勲と呼ばれるまでに上り詰める。

伊藤は初代内閣総理大臣となり、山縣も二度にわたり総理大臣となり、日本陸軍の父として公爵にまでなるに至った。

しかし、伊藤公は「お札の顔」にまでになったが、山縣公の評価は否定的なものが多かった。

◆西郷隆盛が唯一心を通わせた長州藩士・山縣有朋

伊藤のように社交的ではなく、むしろ不器用だった山縣。

山縣は不器用、真面目で律儀な性格。

西郷も同じだ。

山縣は西郷とは京都で出会い、いち早く気脈を通じている。

その時長州は倒幕に動いていたが、長州一藩では討幕派難しく、このため山縣は薩摩の出方を見る要員として京都に配置されていたが、そこで西郷と出会うことになった。

山縣は身体同様、心も大きな西郷に惚れた。

西郷も山縣に自分の分身を見たようだ。

このため山縣は窮地に陥った時も幾度となく西郷によって救われている。

山縣の追い落としを狙う薩摩藩士から上がった数々の批判を西郷が抑え、山縣が窮地に陥った時も西郷が新政府と掛け合い、三たび、四たびと山縣救済に動いた。

しかし何とも皮肉なことに、田原坂で山縣は官軍の将という立場で、西郷と相対することになった。

慕うものの多かった西郷だ。

西郷は自決するに至るが、ここで山縣は「西郷を自決させた張本人」として悪評が立つ。

このほかにも山縣には、陸軍公金汚職(山城屋事件)、徴兵制の導入、秩禄処分、日本陸軍暴走の遠因、強い猜疑心を伴う藩閥政治といった否定的な評価がなされてきた。

しかし、最近の史実研究では、こうした評価が覆され、山縣公の評価見直しがなされている。

つづく

(学23期kz)

京都旅行記

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】

2月7日から9日まで2泊3日で妻と冬の京都を散策してきました。

職歴で20年前某電機メーカーの京都支店 に3年半の間駐在していました。町並みはあまり変わりませんでしたが、行きかう人々には変化がありました。

◆まずは実家が浄土宗ということで知恩院へ。法然上人生誕850年の垂れ幕がありました。支店のあった四条烏丸から祇園にかけては春節もあり、外国人(とくに中国人、韓国人)が多数派でした。特に錦市場は昼呑み酒場になっており、SNSで発信していました。清水寺周辺の2年坂、3年坂も同じでした。三条の池田屋騒動跡地(現状 居酒屋はなの舞)前も通りました。

翌日に行った京都御所は、ほとんどが日本人で京都在住者でした。

長州藩と会津・薩摩藩が戦った蛤御門の変、木島又兵衛が討ち死にした松の木の下も現存していました。

また、哲学の道からの銀閣寺(池に大内の石あり)は、ほとんど外国人観光客でしたが人数は少なめでした。

賀茂氏の氏神の下賀茂神社も糺の森から参拝しました。また、秦氏が養蚕、製鉄を営んだ嵐山の美空ひばり記念館は撤去されており、とくに中国人、韓国人が、竹林、渡月橋で情報発信していました。

◆ 歴史を紐解くと1,230年前の延暦13年(794:鳴くよ鶯 平安京)に平安京が誕生する前から現在の京都市中心部には人々が住み、歴史を刻んでいた。その担い手が渡来人の秦氏(新羅系)と賀茂氏(百済系)で、秦氏は桂川沿いを開発し、氏神は松尾大社です。賀茂氏は賀茂川沿いを開発し、氏神は上下賀茂神社と伏見稲荷です。両氏ともルーツは中国です。

過去の歴史と現在。京都はいつも渡来人を受け入れ、国際化の中でコロナ禍を乗り越え、発展し続けると確信しました。

食事はおばんざい料理、関西うどんでアルコールは控え目でした。
(大学 29期 K.Y)

大学時代の“ひとこま”を振り返る その③

Myz(鳳陽会宇部・山陽小野田支部 大学17期)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】

◆大学生活は、「野球バカ」であったわけではない。勉学にもそれなりに励んだ。 特に大学後期は、野球がシーズンオフとなり、できるだけ授業には出席をした。F 君(日本勧業銀行、現みずほ銀行)、Mf 君(TOTO)、H 君(住友金属から大学教授へ)、W 君(住 友不動産)などと、よく学内を散策し、これはと思う教授の授業には共に出席した。

彼らの下宿にもお邪魔し、いろんな青春を談義したものである。特に、F 君、Mf 君、H 君とは 卒業する前の“思い出作り”で私の自宅(山口市陶)に来てもらい、私の母の手料理で一晩中飲み明かしたことがあった。私の自宅の庭で撮った4人の写真が今も残っている。

◆翻って、本を全然読まなかったわけではない。時間があれば、山口米屋町にあった“文栄堂”によく行って、本を買って帰った記憶がある。その中で、私の精神的な成長を感じたのは、吉川英治の“親鸞”全集であろうか!数冊を徹夜で読み明かした記憶がある。高校時代までの何となくのんびりした幼さが残る性格から、大学時代は大人としての自分に目覚めた青春時代を過ごせたのではと、今ではラッキーだったと思っている。

◆今年、78 歳。往時を振り返ると“ああすれば、こうすれば”といろんな思いが湧き出てくる。でも、今の自分があるのは、それはそれでよったのだ、と清々しい気分にもなれる。五木寛之に言わせれば“人生 100 年、人生は登りよりも下りが難しい。

でも 70 歳代は黄金期”、80 歳代へ向かうこれから、何を見つけて挑戦していけばいいのか。それとも平穏無事 に、自然に逆らわず、あるがままに過ごしていくのか。

この年齢になっても邪念は続くのである。(了)

(大学17期Myz)

大学時代の“ひとこま”を振り返る その②

Myz(鳳陽会宇部・山陽小野田支部 大学17期)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】

◆秋のリーグ戦が終り、次のキャプテンは大学15 期の S さん(西日本相互、現西日本シティ)。

私は、2 年生となったが、体力的にはまだまだ。ヒットを打つのも内野の間を抜けるか、頭を越えるのがやっとであった。それでも、少しずつ練習の成果が出てきだしたのは2年の秋ごろからか、経済グランドの10周もそんなに辛くなく走り切れるようになった。

本当に力が付いたと感じたのは、3年生の春のリーグ戦。広島大学との試合で、初めてライトオーバーの3塁打が打てたことであった。当然、その試合は、久しぶりに広島大学に勝利した。

その当時の大学17期、同期の活躍も見逃せない。ピッチャーの M 君(三菱商事)、 サードで4番の O 君(山口銀行)、センターで2番の Y 君(福岡相互 現西日本シティ)、 セカンドで7番の M 君(郵便局)、そしてショートで 1 番の私(三和銀行)と、メンバーは揃っており、確か優勝し、西日本大会に出場を果たした記憶がある。私が3年半所属している中では、この時が一番強かったような気がする。

◆その年の秋のリーグ戦が終わり、17 期のキャップテンは O 君。しかし、春のリーグ戦後に彼は、足のケガで試合に出られなくなり、そのあと、M 君がキャップテンに。合宿・練習、そして後輩たちもうまい選手が何人か入部してきたが、その後、どうだったのだろうか、詳細の記憶はあまりない。いい成績ではなかったのか?

◆春のリーグ戦は、心地よい“久世球場での藤棚”の下での弁当、秋のリーグ戦は、つるべ落としの夕焼け、またリーグ戦が終わり、久世駅から津山経由で岡山駅へ、岡山駅乗り換え時は真夜中で、夜行列車の時間待ちにプラットホームでの“狐うどん”が美味であった。

◆野球に打ち込んだ青春時代を綴ってきたが、今思い返せば、この時に培った精神的・肉体的な強さが、社会人として約 35 年間を支えてくれた基礎になったのではと、感謝している。

つづく

(大学17期 Myz)

3年生時 春のリーグ戦(対広島大) ライトオーバーの3塁打を放つ 
    

大学時代の“ひとこま”を振り返る その①

~大学卒業後55 年、学生時代の青春を振り返ってみるのも悪くない~

Myz(鳳陽会 宇部・山陽小野田支部 大学17期)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】

◆昭和 40 年(1965 年)春、私の大学生活は始まった。入学式は経済学部の講堂で行われた。

当時の入学者(私が入った班)の写真が、いま手元にある。よく見ると“純真であどけなさ”と希望に満ちた学園生活(?)が始まる安堵感(1 年浪人)がうかがえる。

私は、小さい頃から野球が大好き、周りからも“上手だね!”といわれ、日が暮れるまで 草野球で遊ぶ毎日を過ごしていた。当然、高校時代の成績はもう一つで、1 年目の受験に失敗。浪人時代は、大学で思い切り野球を楽しむことを心に誓い、しばし、野球を頭から外して勉学に集中した。

◆そのこともあったのだろか、入学式後に野球ができるという“嬉しさ” にひたりながら、経済学部グランド(当時は亀山)にあった野球部部室を覗き、入部を申し出た。硬式野球と準硬式野球部があり、私は準硬式野球部を選択した。この部を選んだ理由はよく覚えていないが、硬式野球ボールで野球をやったことはなく、硬式では何となく不安もあったのかなと、今では思う。

入部当初は知らなかったが、準硬式野球部の公式戦は、春、秋の中国リーグ戦と毎年 7 月 に開催されていた中国五大学戦が中心で、その他リーグ戦で優勝すれば、西日本大会や全国大会(神宮球場で開催)出場もできた。その他、下関市立大、山口印刷等との練習試合もあった。

その年は、4 月後半から本格的な練習を開始。当時のキャプテンは大学14 期の N さん (三菱重工業)。5 月のリーグ戦には参加できなかったが、7 月の五大学戦からレギラー(セ カンドで 2 番)で出場できた。この年は、広島大学が当番、野球は当時の広島市民球場で試合ができたことはラッキーであった。本活的な黒土のグランドは初めてで、プロはこんな素晴らしいグランドでプレーが出来るのかと、うらやましくもあった。ヒットも 1 本(センター 前)打てたことも、今では、いい思い出だ。

◆その後、9月初旬からの秋の合宿、確か 2 週間 (?)、それから秋のリーグ戦へと。

リーグ戦は、岡山の“久世”(真庭市、蒜山高原の近く)で、小郡(新山口)から、急行で岡山へ、岡山から津山線で津山へ、さらに姫新線で久 世へ、長旅であった。思い出したが、出発が早朝であったため、私の母が“おにぎり”、“た まごやき”を大量に作ってくれて列車の中で頬ばり、喜んでもらった記憶がある。

その後、 リーグ戦の都度、そのことがしばらく、慣例となった。当時の食料事情も十分ではなく、今 思えば、そのことが本当に懐かしい。

つづく

(大学17期 Myz)

前列右から5番目が筆者
2年生時 秋のリーグ戦で優勝した時の全員写真 表彰状が写っている。

映画「オッペンハイマー」

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】  

広島市中区八丁堀で、八丁座とサロンシネマの2館を経営されている(株)序破急 取締役総支配人の住岡正明さんから今年も年賀状の返信をいただきました。
広島勤務時代に知り合い、暫くして私は東京に転勤となりましたが、知り合って30年近くになります。
3月29日に日本公開される映画「オッペンハイマー」をどう感じるか自分の眼で観てみたい。

追記)
私からは11月に母校の広島基町高校東京支部同窓会で舞台女優の中村香織さんと知り合い、彼女が原爆を題材にした「アサガオの雫」という朗読劇をされていることに触れました。
(学22期 Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
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学生時代に ふく 食ふ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】

会報「鳳陽」180号に松永理事長が、学生時代にフグを食することへの憧れがあった話が掲載されていた。

そして、今回は東京支部のSさんが韓国釜山まで出向き、真っ赤なフグ鍋のおいしい話を伺ったら、40年前の学生時代のアルバイトの賄いの話をしないわけにはいかない。

製造業に携わったものには禁断の月一で放映されている「魔改造の夜」風に少しイニシャルを使用しよう。(例えば、日立製作所は「H」製作所となる)

学生時代湯田温泉にあった温泉旅館「M屋」でアルバイトをしていた。最初は皿洗いから始まり、少し出世して、板場(料理場)のお手伝いをするようになった。これは、学生時代からの無二の親友「K」隆さんの紹介であった。

板場のアルバイトの楽しみは、仕事が終わった後の賄いである。そして、大浴場の貸し切りの入浴。

冬は大概野菜たっぷりの鍋に、お造りをした残りの鮮魚を刺身の盛り合わせにして提供して戴いた。毎回、ビール付きで、時給が安い高いの世界を超越した、至福の時が待っていた。

卒業を控えたある夜、鍋に見慣れない鳥のブツのようなものが入っていた。そして、鶏唐げ?更に見たことのない、薄緑の大皿に菊の花弁のように盛り付けられた薄造り。もみじおろしに小葱のみじん切りに、さらにポン酢。

勘のいい方は、すぐ気づいたであろう。山口のふく!ひとまずのフルコースを準備してくださったのである。

 てっちり、ふくのから揚げ、てっさと揃っていたのである。

(蛇足ですがふくがてっぽう(鉄砲)と言われるのは、当たれば命にかかわるところからくる)最後にヒレ酒まで飲んでしまった。

山国育ちの自分には、今までに食したことのない食感、旨味。

 ひとこと、旨い!!

板長だった「S」井さん、「s」吉さん、「y」本さんと「「K」隆さん」と自分の5人で囲んだ鍋。

ある意味、学窓山口を出でていく春を控え、心のこもった、ちっちゃな門出の祝宴を準備して戴いたのであろう。

別の機会に、旅館の専務からも声をかけられた。「あんたたちは、時間が経つと偉ろうなるんやから、偉うなったら、うちの店を使こうてくれんさいよ」 返事は、勿論「はい!」

時がたち、山口を再訪する機会があった。宿泊先に先ずは「M屋」をと思い、宿泊の電話を入れようとした。電話は繋がらず、既に廃業されていた。一宿一飯の恩義は何としても果たしたいと思い、古い記憶を辿りながら、所在があった場所を歩いて探した。しかし、そこは既に更地になっていた。

卒業後、少ししてバブルの仇花が咲き、膨らみ、そして、バブルの泡は弾けた。

その後の失われた10年、いや20年・・・その中で時代に淘汰されてしまった湯田温泉街のホテルも少なくないはずだ。

山口は亀山時代は勿論、平川時代になっても学生を大切に、そして優しく育ててくれ続ける町である。 

今もっても、感謝、感謝です。        

(岡山支部 B)

雪の日の思い出

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】  

◆思い出(1)

 ワンダーフォーゲル部に所属し、春合宿の前だった。メンバーで訓練のための山行に臨んだ。山口からバスに乗り木戸山峠を越えていく途中雪が降り始めた。だんだん激しくなって積もり始める中、峠の急こう配に差し掛かる。心配していた通りタイヤがスリップして動けなくなった。運転手は無線でやりとりしていたが、救援の車がタイヤチェーンを持ってくるまで一時間ぐらい動けないという。メンバー6人で後ろから押してみましょうかと申し出た。じゃあやってもらえるか、だがスリップしてガードレールに挟まれたり、転んで後輪に轢かれる危険があるので、くれぐれも注意してくれと言われる。バスがエンジンをゆっくりふかす中、皆で力を合わせて後ろからぐーっと押す。すると大きなバスが少しずつ動き始めた。ゆっくりとバスが進む中、バスの乗り口に向かって皆で走る。バスを止められないので飛び乗ってくれと運転手が叫ぶ。後輩が皆乗り込んだのを見届け、最後に自分が飛び乗った。やったーという気持ちでほっとした途端、かたずをのんで見守っていたバスの乗客達から大きな拍手が起きた。思いがけず、でもちょっと誇らしかった。

思い出

◆思い出(2)

雪のしんしんと降る深夜だった。道場門前近くの友人の下宿から自転車で帰る途中、リヤカーを引くおばあさんを見かけた。一の坂川を越える少し勾配のあるところで、うーんと力を入れているが雪で滑ってだろうかリヤカーは動かない。とっさに自転車を道に乗り捨て、リヤカーを後ろから押した。おばあさんは驚いたようだったが、勾配を登りきったところで声をかけ自転車に戻った。倒れた自転車を起こし、大丈夫かなとリヤカーの方を見ると、おばあさんが私に向かって手を合わせている。周りには人はおらず、ただ真っ白な雪が降り積もる静かな夜だった。おばあさんはどこまで帰ろうとしていたのか、もっと押すのを手伝わなくてよかったのか、今でも思い出す光景である。

【元ワンゲル部員A】