高校の同窓会に参加して (その1)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

先の11月11日(土)の東京は曇り空で肌寒い一日でした。
こうした中、午後2時に神田錦町の学士会館前で、一年先輩の市川市在住のN先輩と待ち合わせて、近くのロイヤルホストで、1時間半談笑。
その後、早めに会場入り。
16時の定刻に開催されたものの、再会を楽しみにしていた司会進行役のフジテレビ三宅正治アナ(一回り後輩)が急遽、仕事が入り冒頭のお詫びのビデオレターの挨拶、代役で、しょぼーん。
私もN先輩も同じ卒業年度の参加者は今回もゼロ。
二人で手持ち無沙汰気味で暫くは料理とビールを楽しんだ。
そうこうしていると2年先輩(18回生)のT先輩が参加されていて8年ぶりに再会。
妹さんが1年の時に私と同じクラスでしたが、以前、末期癌と聞いていましたが、先日、7周忌を済ませたと💧
笑顔が素敵な明るい生徒でした。

今回は山田洋次監督(山口大学の前身の旧制山口高等学校に在籍され、学生改革により、1年で卒業)の弟さんで演劇部顧問だった地学の山田正巳先生が担任だった生徒を探してヒアリングしたいと思っていましたが、何とT先輩の担任が山田正巳先生だった。
監督の弟さんらしく担任したクラスの生徒には寸劇を厳命されたと。(笑)
その内、中学、高校、大学迄一緒の昼休みにエスキーテニスをした2年先輩のSさん(山口大学工学部出身)、同じく中学が一緒だったY先輩も参加されていて再会。
中学時代の諸先生の当時のエピソードで大いに盛り上がりました。

母校出身の舞台女優の中村香織さん(熊毛郡田布施町が本籍)という方が参加されていて、広島勤務時代の25~32歳迄の7年間に新劇の舞台を100公演以上鑑賞した話をすると彼女は高校時代から演劇鑑賞をしていて事務局に勤務の共通の知り合いが二人いることが判明し、話が弾みFacebookでも友達になった。
これも何かの縁、気持ちだけでも応援して行きたいです。

校歌を斉唱し、記念の集合写真を撮り、19時に中締めとなりお開きになった。
(総勢120名超えの盛会)
高校入学時は市内5校の総合選抜制で憧れのF高校に入れず、しっくりしませんでしたが、39歳の時に2度目の広島勤務となったのを契機に同窓会に参加し、信じられない再会があり、大病で入院や自宅療養の時期以外は毎年参加し、後輩も学業やクラブ活動で実績を残し、今や私の自慢の高校です。

注)三宅正治アナとのスリーショットは4年前の写真を掲載
(学22期間 Y・Y)

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御殿山と伊藤博文公

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

◆品川・御殿山

品川・御殿山は家康が築いた「品川御殿」がその名の由来だ。目の前に海が開け、風光明媚で桜の名所として有名だったという。また歴代将軍が鷹狩りに興じる休憩場所であり、代々将軍家に諸大名をもてなす迎賓館として重用されてきた。現在では格の高い高級住宅地となっている。

◆英国公使館焼き討ち

外国からの外交攻勢にさらされていた時、井伊直弼の後を受けた老中・安藤信正は英・米・仏など列強の機嫌を取るため、風光明媚で桜の名所・御殿山に公使館を建てることを考えた。

英国公使館はペリー来航から10年後の文久2年(1963年)に着工し、翌年早々の完工後、公使が移り住んで執務を始めるはずだった。

その直前の12月12日。ここに攘夷に燃える長州藩士が建築途上の英国公使館の焼き討ちを決行した。

隊長 高杉晋作

副長 久坂玄瑞

火付け役 井上馨、伊藤博文

見張り役 品川弥二郎

またこの中には長州ファイブで、工業の父と呼ばれることになる山尾庸三もいたようだ。

東禅寺事件で英公使オールコックは横浜に執務場所を変えて職務を行っていたが、長州藩士は横浜でのオールコック暗殺を計画している。しかしこの計画は幕府に漏れたため暗殺は未然に終わっていた。

このため長州藩士は暗殺に代えて、御殿山に建築中の英公使館焼き討ちを思いつく。

万全を期すため品川宿の飯売旅籠屋相模屋(土蔵相模)で決行者が集い、公使館焼き討ちに向けた綿密な打合せをして臨んだ。

空堀を超え、侵入を防ぐ柵が行く手を阻むも、伊藤が気を利かせて直前に入手していたノコギリで柵を切断、建築途上の建物に押し入り、火を放った。

高杉と久坂は燃えさかる英公使館を芝浦の妓楼でまるで花火を見るように燃え上がる公使館を眺めながら酒盛りをしたという。

放火された現場には銃一丁、ノコギリ、下駄片足、遊女の艶文が残っていたという。

この事件の犯人は不明ではあったが、幕府は長州の仕業だと睨んでいたという。

しかし、公使館建設には朝廷の反対もあったほか、品川の町民も公使館建設で御殿山名物の桜が切られたことをよく思っておらず、むしろ公使館焼き討ちを歓迎する向きも少なくなかった。

このためお上の追及は本格的なものにはならなかったという。

なお、現場にあった艶文とは書き手が「お花」とあり、宛名がなかったが、どうやら伊藤が落としたものだったという。

その後、伊藤博文は道一本隔てた八ツ山に広大な土地を手当てする。

毛利家の私邸があったところだ。

16500坪の土地。

目の前は海だ。

伊藤の大磯の別荘「滄浪閣(そうろうかく)」。

ここも目の前が海だ。

(学23期kz)

葛飾北斎 富岳三十六景 東海道品川御殿山ノ不二
品川区のホームページから

井上商店(萩)のしそわかめ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

山口市ファンクラブメンバーの井上 泰三さんと最近、友達になりました。
萩市出身で、現在は下松市在住のようですが、創業明治4年で海産物製造の(株)井上商店(本社萩市東浜崎町)の経営に携われているようです。

早速、我が家の主夫で買い物担当の私は人気商品のしそわかめ(ソフトふりかけ)を求めて、仕事が終わって、LIFE京浜蒲田駅前店に寄りましたら、何とありました。
1980年に発売された商品で、今や山口県下は勿論、東京を始め全国展開されていて、ロングセラーの大ヒット商品になっているようです。
私はこれまで全く知りませんでした。💦

私は広島出身ですので、物心ついた子供のころから田中食品のタナカのふりかけで、最近はずっと首都圏在住ですが、広島・三島食品のまぜごはんのもと、ゆかりとか、広島菜のひろしの話題となったふりかけを購入したことはあります。

井上商店のしそわかめは塩分が強くなく、わかめが小さく刻まれていてやわらかくて食べやすく、私はふりかけ主体で、残りご飯をおむすびにしたり、お茶漬けにして食べたりしています。
我が家の朝夕の食卓が楽しみになり、ご飯がススミます。
新山口駅にも店舗があるようで、山口市ファンクラブで縁の出来た方を気持ちだけでも応援して行きたいです。

最近では先に投稿しました東京や山口、大阪で和風居酒屋を展開するベアーズコーポレーション中嶋 唯雄社長や萩の地酒「長門峡」の岡崎酒造の岡崎 考浩社長を応援しています。

追記)
しそわかめは日本テレビで11月6日(月)朝放送のZIP!の「水卜あさ美と一緒にあさごはん」コーナーでも紹介されました。
(学22期 Y・Y)

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維新後の毛利・高輪邸

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

◆長州藩邸、幕末に没収、そして維新後は

長州藩は江戸に上屋敷(日比谷公園)、中屋敷(麻布龍土町)、下屋敷(現ミッドタウン)のほか街並み屋敷や抱え屋敷を持っていた。

このほか支藩の屋敷もあった。

しかし、第一次長州征伐の後の元治元年(1864年)に江戸や京都の拝領屋敷はすべて没収されている。

そして維新。

新政府には長州藩の人材が多く配置されていた。

毛利家では長州藩最後の大名となった第14代藩主・毛利元徳(後に公爵)公が新政府と掛け合って姫路藩酒井家上屋敷跡の大手町の地を手にする。

しかしその後、近くに官庁街が整備されることに伴い、立ち退きを余儀なくされる。

明治政府との折衝で、高輪の筑後久留米藩有馬家の土地を手に入れることになったという。

港区高輪。品川駅西側の一帯で、海がよく見下ろせる景勝地だ。

ここで毛利元徳公は洋館の私邸を建てるが、この間の経緯については洋館建設を請け負った鹿島建設のホームページに掲載されている。

それによれば、毛利公は洋館の邸宅を指向。貴族の邸宅が洋風になるのは欧化政策がとられた明治13年(1880年)以降であり、そうした中鹿鳴館が竣工したのが明治16年(1883年)のこと。明治5年の時点では個人の邸宅が洋館建てというのは例がなく、毛利邸洋館が日本で一番古い日本人私邸の洋館ではないかとされる。ここでは行啓のための建物、あるいは明治政府の外国の賓客をもてなす迎賓館的な使われ方がなされたという。

また、毛利公は私邸建設にあたり、元長州藩士の井上勝に工事監督を依頼した。井上勝といえば、長州ファイブの一人で日本における「鉄道の父」だ。

明治5年(1872年)に新橋―横浜間に鉄道が開通するが、ちょうどそのころ毛利邸の工事が始まり、井上は多忙を極めたようだ。

◆城南五山

城南五山という高級住宅地がある。

当時は高台に建っておりJR品川駅のすぐ東に広がる東京湾が見下ろせる景勝地だった。

いずれも江戸時代から大名屋敷や大名の末裔の私邸があったところで高級住宅街になっている。

品川駅高輪口の前を走る第一京浜の向かい側は八ツ山。大崎寄りに御殿山。JR五反田駅の東に島津山(旧島津公爵邸、現清泉女子大)、五反田駅の北に池田山(備前岡山藩池田家の下屋敷跡)、JR目黒駅に近づくと花房山(外交官花房子爵別邸)がある。

◆八ツ山

現在は高輪といった方が分かりやすい。名称の由来は多説あるが、そのひとつに八人の諸侯の屋敷があったというものがある。

江戸時代には目黒川の洪水復旧、海防のための台場づくり、品川沖埋め立てなどのために山が切り崩されほとんど平地になっている。

明治期には伊藤博文の邸宅があったが、明治22年に三菱の2代目岩崎弥之助が土地を購入、洋館を建てた。今では開東閣という名称で呼ばれており、三菱グループの施設となっている。

また、日立金属が土地の一部を譲り受け、和彊館もあったところだ。

長州歴史ウォークでも訪ねるが、ここには高山稲荷神社が建っていた。品川駅から近く、国道を挟んだ向かい側に位置。この神社には毛利家からかなりの土地の寄進がされたという。

なお、この神社は2023年7月に閉鎖。国道か側から中に入ったところに移築されることになっている。

◆御殿山

桜の名所としても知られていた。徳川家康が建立した「品川御殿」があったことに因む。また江戸時代には歴代将軍が鷹狩の際の休憩所として利用されたようだ。

昭和期には1946年に日本橋で創業したソニーは翌年この地に移転しており、ここがソニー創業の地とされ、本社があった品川と五反田を結ぶ都道317号線には「ソニー通り」という名が付いている。その後2007年にソニー本社は港区に港南に移転した。

(学23期kz)

豹(ジャガー)の眼

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

1959~1960年にTBSで放映されたテレビ映画の「豹(ジャガー)の眼」をTSUTAYAから借りて来て観たことがあります。
小学生の3~4年生の頃にテレビに釘付けになって毎週、固唾を飲んで観ました。
大瀬康一が主演の「月光仮面」「豹(ジャガー)の眼」「隠密剣士」や波島進や千葉真一主演の「七色仮面」、勝木敏之主演の「快傑ハリマオ」は圧巻でした。

鳳陽会メンバーの方の中でも、私以上の年齢の方でないとご覧になられていないのであのワクワク感は理解出来ないと思います。
一回り下の横浜の友人はこれらの番組をTVK(テレビ神奈川)の再放送で観たと言っています。

そしてこれらの作品の大半は広告会社の宣弘社がプロダクションとして関わっています。
サラリーマン時代に仕事で宣弘社とはお付き合いがありました。
(展示会やフェアの際のブースの会場設営、屋外広告のネオン看板等)
会長をされていた小林利雄さん(1921年~2007年、享年86歳)の名前がプロデューサーとして出てきます。
月光仮面の撮影では制作費が足りないので、苦肉の策で中学生の息子さん(後の社長)を新聞少年として起用されたとか。
宣弘社は作詞家の阿久悠氏が新卒として7年間勤務していた会社でもあります。

♪「豹(ジャガー)の眼」歌詞♪

正義のために決然立って
もえる血潮をたぎらせる
悪をこらしめひとすじに
苦難の道を恐れない
撃つぞ豹 撃つぞ豹
出て来い豹(ジャガー)

追記)
小学3年生の頃に漸く我が家にもコロムビア製の白黒テレビが入りました。
それ迄は好きな大相撲中継は近所のお金持ちの家で見させて貰っていました。
当時、テレビを観ない時は画面をスダレ型の緞帳のような布で上から垂れ下げて被っていました。
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伊藤博文公の墓前祭に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

ハルビンで暗殺された命日にあたる10月26日(木)、墓前祭が行なわれた。

墓は西大井にある。

墓前祭の主催は伊藤公追頌(ついしょう)会(会長・林芳正議員)、防長倶楽部。

伊藤公の出生地である山口・光市束荷の束荷神社から森重宮司を祭主に迎えて祭礼が執り行われ、伊藤公の遺徳を偲んだ。

日本国憲法の制定、内閣制度設立の功績から初代内閣総理大臣になった。「初代」というのが光っている。

初代内閣総理大臣を選任するにあたり、三条実美公が最有力視されていたという。

誰を選任するか。

同郷の親友・井上馨が決め手となるひと言を発する。

「総理は英語が読めなくではならない」

これで伊藤公の「初代」が決まる契機となった。

井上馨とは同じ松下村塾の仲間で、公使館焼き討ち事件でも行動を共にし、共にロンドンで学び、馬関戦争勃発の時には二人で緊急帰国した仲だった。

◆伊藤公の語学力

領収ファイブの一人としてロンドンの大学で学んだ際、他の日本人と異なり外国人の前で堂々と英語を話し、その姿が外国人の間でも評判となったという。

また、伊藤を出世に導いた事件がある。「神戸三宮備前兵事件」。明治新政府に西宮の警備を命じられた備前兵が、兵の隊列を横切った外国の水兵に発砲した事件だ。この時、両国の間に入って交渉をまとめたのが伊藤公であり、これが評価され伊藤公の明治政府における後々の途が開かれる端緒になったという。

墓前祭には伊藤公の血筋を引くご家族も参列され、94歳の最長老の方は伊藤公に顔かたちがよく似ておられた。

また、墓前の奉献酒は東洋美人、獺祭、それに貴、などであった。

(学23期kz)

皇太子殿下、雅子妃の思い出

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

日本ボーイスカウト連盟に会社として協賛していて1997年でしたが、帝国ホテルでの75周年記念パーティに広告部長の名代として休日を返上し、来賓として列席したことがありました。

皇太子殿下、雅子さまがご臨席されるとは事前には知らされておらず、パーティ会場に到着して初めて知り吃驚しました。
会社も事前に判っていれば私のようなペイペイには参加させなかったでしょう。
当時、社長、会長を歴任されたS相談役が理事長でした。
粗相があっては断じて許されません。

ボーイスカウトがアーチを作ってお迎えしましたが、皇太子殿下、雅子さまとノーガードで90㎝の至近距離で拝顔することが出来、大感動でした。
勿論、写真は直前にNGを言い渡されましたが貴重な体験でした。

それから一週間は会社に出社しても、園遊会に招待されたような気分になり、自分が偉くなったような錯覚に陥り、上司や同僚がしもじもの者に見え、ぼうーっとしていましたが、一週間が経つと元の木阿弥で、ただの人になり、漸く我に返りました。(笑)
(学22期 Y・Y)

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ペリー来航と長州藩 その3 伊藤利助(博文)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

ペリー来航に伴い相州警備を任された長州藩。若き伊藤利助は相州・上宮田での陣屋勤めに就く。

しかし、相州・上宮田の陣屋勤めは1年で交代する。伊藤が配属された指揮官来原良蔵は伊藤が長州に帰る際、伊藤に来原の昵懇な友人・吉田松陰を訪ねるよう伝えた。

長州へ戻った利助はさっそく松下村塾の松陰を訪ねる。

松陰は利助を「才劣り、学幼き」と評しているが、続けて「質直にして華なし。僕、頗(すこぶ)るこれを愛す」としている。

松陰が久坂玄瑞に宛てた手紙では「中々周旋家になりそうな」ともしている。

周旋家。間に入って物事を取りまとめる人物。政治家にとって欠かせない才の一つだ。大物政治家になる素質があったのだろう。

安政5年(1858年)18歳の時、松下村塾の縁で三歳年上の山縣らと京都で情報収集にあたる「飛耳長目(ひじちょうもく)」として活躍している。これは行動の人松陰らしく、行動するには正確な情報が必要だとして松陰はこれを重視していたようだ。

またその年には、洋式兵術を学ぶため、長崎海軍伝習所に来原の手付(従者)として同行しており、来原の死後も来原の遺志を継いで活動する。

その翌年、安政6年には来原の義理の兄・桂小五郎の手付として江戸へ上る。

初めての江戸だ。見るもの聞くものが全て新鮮だったという。

ペリーが来航して5年ほど。大老・井伊直弼は開国論の下、安政5年(1858年)、米国(ハリス)と日米修好通商条約を締結したのを始め、オランダ、ロシア、イギリス、フランスなど4か国と修好通商条約(安政の5か国条約)を結ぶ。

世間では開国論と攘夷論が拮抗していたが、長州では攘夷運動が活発化していたこともあり、文久2年(1862年)には品川御殿山の英国公使館焼き討ち事件を起こす。

しかし、攘夷を実行しても所詮外国勢には敵わず、アヘン戦争の末路の二の舞ともなりかねない。むしろ外国から学ばなければ日本が立ち行かないとの機運が生まれ、長州ファイブの英国ロンドン行きにつながった。

◆恩人・来原良蔵

来原によって伊藤公が世に出る途が一気に開かれた。

来原によって、伊藤は吉田松陰の門を叩き、松下村塾で高杉晋作、山縣有朋らと出会う。また伊藤は江戸で来原の義理の兄・桂小五郎の従者として動き、「周旋家」としての器を広げ、磨いていった。

伊藤公が名をなした源は来原だった。

伊藤公は来原良蔵のことを「人生に渡り最大の恩人」としている。

◆来原良蔵の墓

来原は不幸にして34歳にして自害に至る。

来原の墓は山口とは別に「吉田松陰先生他烈士墓」として世田谷・松陰神社にも置かれている。

(学23期kz)

山大・花の経済学部 その8作田莊一

山口大学経済学部同窓会

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【2023年 11月トピックス】

河上肇(旧制山口高等学校—東京帝国大学)と同じ経歴を辿った河上の一年後輩に作田莊一(しょういち)がいる。明治11年(1878年)12月生まれ、防府・三田尻出身。

家が貧しかったため作田家の養子に入ったことで上級学校への進学が可能となった。

◆河上との交流

学生時代は旧制山校の前身である山口高等中学校の寮で河上と1年間同室だったという。二人は濃密な時間を過ごしたのだろう。

作田は河上を追うように東京帝国大学に進学する。

東大卒業後、明治45年(1912年)に山口高商の教授に就任した。しばらく山口高商で教授職を務めていたが、大正10年(1921年)には既に京都帝国大学の教授に就任していた河上の推薦で京都帝国大の助教授を兼務することになる。京大でも研究室が隣同士で交流が密であったようだ。

作田は京大兼務となった2年後、京大が本務となり、昭和5年(1930年)京大教授に就任する。河上が京大教授になって15年後の京大教授就任だったが、もともと相当な底力があることが認められ、翌昭和6年には経済学部長を務めている。

作田は思想的には河上とは違っていた。後に文部省が国体に関する正統的な解説書作成のために立ちあげた「国体の本義」編集委員を務めたように、マルクス主義に傾いていった河上とは思想的には真逆の立場だった。

作田は昭和13年(1938年)に開学した満州国務院直轄の国立大学である満州建国大学の副総長となっている。満州建国大学の校長は国務大臣が兼務することになっており、実質的な総長は副総長の作田が務めていた。事実上の校長だ。

建国大学では「五族協和」のスローガンのもと、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアから、極めて優秀な若人が集い、寄宿舎で学んだ。

建国大学が開学した昭和13年とは日中戦争が始まっていた時にあたる。盧溝橋事件が起きたのが開学の前年にあたる1937年だ。時は日中戦争に突入していた。こうした中、ある時憲兵隊から反日の嫌疑を掛けられ中国人を中心とした多くの学生が憲兵に引っ張られるという事件が起きた。

人情に厚い作田は学生の釈放を求めて憲兵隊の庁舎に何度も足を運び、熱心に掛け合うが、学生の釈放は叶わなかった。

これを苦に作田は副総長を辞任している。

◆柴田との交流

作田はこのシリーズで取り上げた世界的な経済学者・柴田敬とも山口高商つながりで関係が深い。

作田が京大助教授を兼務した年に、柴田が山口高商に入学している。柴田は山口高商から京大に進学し、京大卒業後の身の振り方についても作田に相談していた模様だ。

結局柴田は京大に残り、同大学院を経て講師、助教授と階段を登っていき、昭和14年(1939年)に教授に就任する。

柴田は教授就任になった翌年に満州に出張し、作田が実質的な校長を務めて3年目の満州建国大学で講演している。

京都帝国大学経済学会は作田の還暦を祝す書籍「作田博士還暦記念論文集」(昭和14年)を刊行しており、柴田敬も「資本主義と支那事變」というタイトルで執筆陣に名を連ねている。

河上肇と作田莊一、それに柴田敬。

この三人を山口高商の三碩学と呼ぶ人もいる。

(学23期kz)

作田莊一

「君の名は」(1953年松竹映画)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

2015-10-30mixi日記投稿分の引用です。

レンタルDVDを借りて観ました。
1952年からNHKで放送されたラジオドラマの映画化されたもので、3部作からなっています。
ラジオドラマの放送が始まると、女湯がカラになるという伝説を生んだメロドラマです。
美男の佐田啓二、美し過ぎる岸惠子。
佐田啓二は中井貴一、中井貴惠兄妹のお父様で若くして交通事故で亡くなっています。
(享年37歳)

誰が悪いのでもなくこれは運命で悲恋なのであろう。
還暦過ぎてではなく、もっと若い時に見たかったなあ。
空襲下の数寄屋橋でそんな出逢いがあったとは…。
岸惠子が首に巻いた真知子巻が流行ったなんて知りませんでした。
小学生の頃、クラスに「真知子」っていたなあ。お母さんが、「君の名は」のファンだったのだろう。

原作 菊田一夫
監督 大庭秀雄
音楽 古関裕而

キャスト
岸惠子
佐田啓二
淡島千景
川喜多雄二
月丘夢路
野添ひとみ
笠智衆
北原三枝

(学22期 Y・Y)

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