米谷雅之・山口大名誉教授が瑞宝中綬章を受賞

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【2022年12月トピックス】

令和4年11月3日付けで令和4年秋の叙勲が発令され、山口大学経済学部 米谷雅之名誉教授が瑞宝中綬章を授与された。
今回の受賞はたいへん嬉しいことである。
私が学生時代、先生は「現代企業のマーケティング行動の分析」を主たるテーマとするゼミを担当されていた。
演習計画を紹介させていただきたい。
【テーマ】「現代の企業や市場の特質、企業と市場の関連の態様、市場行動の次元、市場行動の次元、市場行動の現代的特質、価格と非価格競争の問題などについて、経済学、経営学、及びマーケティングの領域における諸研究を基礎に検討を加えていく
 市場と企業の中間面現象を扱うために、経営学のみならず、経済学(特にミクロ経済学)の知識ないしそれへの勉学が必要。

学生間での先生のゼミの評判は最良だった。
また、授業は火曜日の3コマ目と金曜日の2コマ目に「商学総論」を開講されていた。
先生は1941年福岡県生まれ。1964年山口大学経済学部を卒業。1971年神戸商科大学大学院経営学研究科修士課程修了された。
山口勝裕 1992年卒 (学40期)

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忠臣蔵考③魅力の神髄

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【2022年12月トピックス】

◆海外でも人気

明治天皇も忠臣蔵を好まれたという。天皇は明治元年10月、満16歳で東京に遷るが、間もなく泉岳寺に勅使を遣り大石内蔵助良雄を追弔せしめたとされる。この時陛下は山岡鉄舟等の武士出身の侍従はおらず、読み物で親しまれていたようだ。

山鹿素行の中朝事実では「天下の本は国家にあり、国家の本は民にあり、民の本は君にあり」と尊王思想が説かれ、君への忠誠、忠義があるべき姿としており、明治天皇は主君へ絶対の忠誠を尽くす乃木希典などの臣下を好ましく思っておられたようだ。

外国では忠臣蔵はどのような評価がされているのだろう。

幕末には日本通の外国人も増えたようで、海外にはかなりの数の日本文学の外国語訳が出回っていたとされ、忠臣蔵は百人一首に次いで人気が高かったという。

26代セオドア・ルーズベルト米大統領は新渡戸稲造の武士道の愛読者で忠臣蔵の英訳を読んでおり、非常な日本贔屓であったことが知られている。このため彼は日露戦争の仲介役をとして名乗りを上げ、ポーツマス条約の立役者となった。

◆武士道と騎士道

武士道と騎士道は似て非なるものだ。

騎士道は武士道と忠誠、武勇、礼節、名誉などは共通するが、人間として立派であることを求めるもので、主君への忠誠心の優先度はさほど高くないようだ。要はジェントルマンたれ、ということか。

他方、武士道は主君への高い忠誠心を求める。しかし盲目的な絶対的忠誠心を求めるのではなく、そこに義がなければならないとされる。ここが厄介だ。

これに照らせば赤穂浪士の行動はどうなるのだろう。

赤穂浪士の行動を測るに、主君・浅野内匠頭の遺恨の在り処はよくわかっていない。こうしたまま根拠が定かではない「主君の無念」を晴らす形になっている。

そうなれば、赤穂浪士の行動は武士道を通り越したものといえるかもしれない。

主君が即日切腹を申し渡されたのに比べ、吉良上野介は咎めのないまま隠居した。

赤穂浪士が行ったことは、「喧嘩両成敗」とは言えないまでも、この不公平な処分に対して、実力行使で格差を埋めようとしたのではないか。

無念というのは主君の無念ではなく、家が取り潰しとなったことで、大石以下浅野家の家臣たちが寄るべき藩地を亡くしたことの無念であり、恨みではなかったか。

◆魅力の神髄

しかし、忠臣蔵を理詰めで追っていては面白くない。

いじめられた主君の意を継いで、殿の家臣がいじめた上役に天誅を下す。

ここには主君への愛と忠誠心と愛があり、「悪」を懲らしめる勧善懲悪がある。

陳腐なストーリーだが単純明快で、とても後味が良い。繰り返し、聞いても、読んでも飽きない面白さがある。

この図式に日頃虐められている庶民が自己の感情を移入して、憂さを晴らす。

忠臣蔵の主人公の半分は大石内蔵助、あとの半分はいじめられた自分が主人公だ。

これが忠臣蔵の神髄であり魅力なのではないか。

こうなれば、問題の「遺恨」は、本筋としては大した問題ではなくなってくる。

しかしストーリーを面白くするには、味付けが必要だ。

悪役をとことん悪者にし、主君がとことんいじめられるような構図でないと大きな爽快感差が出ない。

このために割りを食った可能性がある吉良公。

そうであるなら、謹んで吉良公のご冥福を祈りたくなる。

(学23期kz)

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山口再訪 出会いし市井の優れ者②

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【2022年11月トピックス】

◆大内塗りの達人

京の町を手本に山口のまちづくりをした大内弘世。その弘世と京から招き寄せた姫君をかたどったのが殿と姫、一対の大内人形だ。

大内人形造りの名匠・小笠原貞雄氏を訪ねた。

12月で96歳になる。

もともとは広島県皆実に実家があった。原爆が落ちた際、小笠原さんはたまたま実家にはおらず、幸運にも直接被災はしていない。しかし実家を失ったため、山口にいる親戚の桑原家に移り住んだ。

桑原家では主(あるじ)と娘の喜美子さんが大内人形作りを家業としており、桑原家に引き取られた小笠原さんは喜美子さんに手ほどきを受ける形で大内人形作りを始めたそうだ。大内人形造りの共同作業をしているうちに喜美子さんとの愛が芽生え、結婚と相成った。

小笠原さんの作る大内人形は評判がいいという。

仕上がりの美しさでは群を抜いており、人形の表情が優しいとの評判だ。

大内人形は夫婦円満の守り神。

昭和34年の皇太子殿下のご成婚の際は大内人形を献上したそうだ。

その関係からか、皇族との縁もあるようで、著名な皇族も道場門前裏手の店舗兼工房を訪ねてこられたことがあるようだ。

大内人形は下地塗り‐中塗り‐上塗り‐絵付け、という工程を辿りどんなに小さな人形でも完成までに最低3~4か月はかかるため価格も立派な値段がする。

◆人生の達人

小笠原さんは本業のほか、多方面でご活躍されており、また多彩な趣味をお持ちだ。

被爆地広島について証言されたものがCDの形で残っている。

またかつてはボウリングでプロを任したことがあるという。ハンデを付けての話かと思ったが、そうではない。

勝った時のスコアは269。男子プロボーラーの平均がスコアは220程度とされるため、立派な勝ちっぷりだったのだろう。

毎日の日常生活も95歳にして若々しい。

今でも朝はドロップハンドルの自転車でサイクリングを楽しむという。

身体も健康そのもので、頭脳もクリアー、会話の受け答えも機敏で、足腰は丈夫、目も衰えておらず、耳も「遠くのひそひそ話が聞こえる(本人の言)」ほどで、補聴器要らずだという。

この先もお元気でご活躍されることを祈る。

(学23期kz)

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忠臣蔵考②山口つながり

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【2022年11月トピックス】

◆浅野公の賭け

格下の伊達公の前で、いじめと叱責を受け続ける浅野公。そこで浅野公はこれ以上のいじめや叱責を避け、吉良公に敬意を表し、軋轢を緩和せんがために賭けに出る。

吉良公にある逸品を「進物」として差し出したのだ。

ものは何か。香合(こうごう)だ。

茶道具で香りを収納する蓋つきの容器で、交趾(こうち)とは、ベトナムの意。

内匠頭はこの大亀は曽祖父が二代将軍秀忠の側近として仕えた時、人知れぬ功あって、秀忠公が日ごろ使っていた香合を下賜されたものと説明する。

この大亀は重要文化財に指定されており、安政2年(1855年)刊行された茶道具番付本ではかなりの値打ちものとされている。

吉良公はお茶に通じており、当然喉から手が出るほど欲しい「大亀」。いくら金を積んでも欲しい逸品であった。

しかし、吉良公はこの受取りを拒む。

これを受け取り、態度を軟化させれば、浅野への態度が賄賂欲しさのための単なるいじめとなるからだ。

◆藤田コレクションの主、長州萩の藤田傳三郎

香合大亀は藤田博物館のコレクションとなっている。

その主は藤田傳三郎。

藤田傅三郎・・・山口・萩出身の豪商で、藤田財閥の創始者だ。明治2年に藤田商会を設立し、軍靴で大もうけしたという。今でいう靴の「リーガル」の創始者でもある。

格式高いホテル椿山荘。もとは山縣有朋の屋敷があったところで今は藤田観光が経営している。

藤田傳三郎は事業で成功し美術品の蒐集を始める。美術品が海外に流れるのを押さえようとの意図があったとも言われている。

藤田も茶をやる。藤田の最後の蒐集品となった交趾大亀香合。

2017年東京国立博物館で茶道具の名品を集めた展覧会が開催され、名品そろいの展示品の最後を飾ったのが交趾大亀香合だった。

(学23期kz)

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湯田温泉・水野旅館

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【2022年11月トピックス】

二十二歳の頃の学生時代に水野旅館で布団敷き(現在のベッドメイキング)のバイトをしました。
手配師役の経済学部の友人がいて、人がいない時の代打要員でした。
バイトをしていた時に一緒に仕事をしていた文理学部の物理学専攻の友人から、お嬢さんが大関豊山関の所に嫁入りされたと聴いた記憶があります。

大関豊山関(後の時津風理事長)は新潟県新発田市の出身で山口県とは遠く離れていて縁はない筈と長年に亘り大相撲ファンとして不思議に思っていました。
今回、投稿に際して、時津風部屋関係者の方(大横綱双葉山の孫娘で舞台女優の方)に確認をしましたら、現役ではなく親方になられて水野旅館のお嬢様と結婚されたとのことでした。
山口県出身の佐藤栄作さんが大関豊山関の大ファンで、新潟県出身の田中角榮さんが媒酌人だったそうです。   
私の長年の知りたいことが50年の歳月を経て漸くクリアになりました。

豊山関は東京農大出身の初の学卒力士で、長身で人気がありました。
その後、名門時津風部屋は不祥事が続きましたが、最近では大関に昇進した正代関もかど番が多く、今回の九州場所も5回目のかど番で、11日目が終わった段階で、5勝6敗です。
今場所は何とか勝ち越して、名門復活を目指して来場所以降に繋げてほしいです。

写真1枚目は現役時代の豊山関、2枚目は大関昇進時の正代関と元理事長だった内田勝男さん
(学22期 Y・Y)

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ハンガリー小話

東西冷戦時代のハンガリー、1989年の民主化までは、ソビエトの強い影響下に置かれた衛星国であった。

ハンガリー国民が西側を覗き始めた頃の小話。

電車の4人掛けの席に、アメリカ人、フランス人、ロシア人、そして、ハンガリー人が居合わせた。

しばらくすると、アメリカ人がカバンからマルボロの箱を取り出し、封を切ると、1本取り出し、煙草に火をつけた。そして一服すると、その開けたばかりの箱ごと、窓から外へ投げ捨てた。 それを見た3人がいかにももったいないと言いそうな顔をすると、そのアメリカ人は、

「アメリカにはこんないい煙草は有り余るほどある」

しばらくすると、フランス人がカバンからワインボトルを取り出し、栓を抜いてグラスに注ぎ、一口、口に含んだと思うと、ワインの瓶ごと、車窓から外に捨てた。それを見た3人が、高級なフランスワインを捨てるなんてもったいないと言うと、フランス人は、

「フランスにはいいワインはどこにでもたくさんある、捨てるほどある」と。

突然、ロシア人が立ち上がり、足元にあった大きなリュックから、ウォッカの瓶を取り出し、一気にラッパ飲み。そして、窓から外へ投げ捨てながら、

「心配するな!ロシアにはウォッカは腐るほどある」と。

さて3人は、残ったハンガリー人が何をするかじっと見ていたところ、ハンガリー人が突然ロシア人を抱え上げ、窓から外に一気に放り投げた。

ハンガリー人曰く、

「心配するな、ハンガリーにはロシア人が腐るほどたくさんいるから」

 

学23期  倉田一平(ペンネーム)

鎌倉殿の13人
伝 大江広元氏の墓を探し求めて

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【2022年11月トピックス】

ゴールデンウィーク後半の5月7日(土)の東京は雲の多い小雨交じりの天気でした。

午前中は急遽、平塚で所用が発生。

伝大江広元氏の墓は五輪搭で地元では本来の広元氏の墓であるとの言い伝えがあります。
12時5分にJR鎌倉駅に到着し、東口から京急バスで金沢八景行きのバスに乗り、10分で泉水橋で下車。
ここ迄は完璧でしたが、バス停から徒歩20分の目的地への入り口がわからず、コンビニでアイスを2つ買って、店員の男性にスマホの地図を見せたが、愛想なく「わかりません」の連発。
こりゃあ、駄目だ。

次に近くの商店の店主に助けを求めたら、伝大江広元氏の墓は初めて聞きましたと。
スマホの地図を見せると引き返しての入り道は親切丁寧に教えて頂きました。
徒歩20分位で漸くスマホのナビで目的地到着ですと音声案内。
やったぁ。
しかし、この絶壁をどうして登ろうかと。
子供の頃は絶壁を登り渡るのを得意にしていましたが…。💦

悪戦苦闘し、諦めていると絶壁の前の家のおばぁちゃんと妙齢の女性が「何か探しておられますか?」と。
「50年前に引っ越して来たが、伝大江広元氏墓なんて聞いたことがない。あなたは歴史家ですか?」と。
「いいえ、ただの素人です。(笑)」
先の登り口も探したが、見つからず断念。

この後、引き返し、大河ドラマ館を1時間見学。
最後は立派な鳩サブレーの豊島屋本店に寄りました。
この日2時間半位歩きました。
地元の方々とコミュニケーションが取れて大満足で、帰りには晴れ間が広がっていました。

伝大江広元氏の墓は2枚目でネット検索写真から。

(学22期 Y・Y)

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忠臣蔵考①遺恨の在り処

◆吉良邸訪問

第3回長州歴史ウォークでは本所の吉良邸を訪ねるところから出発する。

吉良上野介は地元三河国を中心に飛び地も含め知行4200石の高家旗本。お国では新田開発、塩田開発、堤防新設を行い、名君として通っていたとされる。

最近では吉良上野介を「弁護」する歴史家が増えている感がある。

◆闇の中の「遺恨」

忠臣蔵には分からないところが多い。

これは浅野内匠頭公がしかるべき弁明をすることなく、またお上も十分な取り調べをすることなく、即刻切腹処分と相成ったためだ。

「この間の遺恨、覚えたるか!」

その場に居合わせた第三者の日記に残る、浅野公が発したとされる言葉、斬りかかる際の迸った感情が伝わる。

しかし「遺恨」が何かについてについて、分かるようで分からない。

ここに様々な憶測が乱れ飛ぶ。

松の廊下事件の謎解きをするのに、ピースを繋ぎ合わせパズルを完成させようと各人各様に試み、事件を整合的に解き明かすような筋立てがあれば得心が行く。

ここで必要なのが想像力だ。しかも説得力のある想像力であり構想力でなければ面白くない。

この刃傷事件は赤穂事件の始まりであり、前半の一つのヤマ場となっている。

「遺恨」の中身を巡っては、実の多くの書き手が筋立てを試みており、ミステリー小説の巨匠と言われるまでになった森村誠一も分厚い小説「忠臣蔵」上・下を出しているほどだ。

◆説得力ある「構想力」

こうした読み物の中で、最近「その日の吉良上野介」(池宮彰一郎著)を読む機会があり、問題の「遺恨」について、「事実のかけらを想像力で結び合わせる」作業をうまく行っているような印象が残った。

以下参考までに筋書きを紹介する。

吉良公が元禄14年春に京都からの勅使を饗応するが、その年の正月、吉良公は京都へ年賀の挨拶に向かった。しかし京で食あたりをおこし、江戸に帰るのが遅れに遅れる。

この間、浅野公(5万石)は格下の伊予国吉田領主(3万石)・伊達左京亮宗治公と、指南役たる肝煎・吉良公を欠いたまま饗応の準備を進めていた。

吉良公がようやく江戸に着くが、饗応の手配をする残された日にちはわずか数日という様であった。

浅野内匠頭は18年前、17歳の時に最初の饗応役を務め、これが二度目の饗応役であり、前回のしきたりを知るがために、最近になって変ったいくつもの重要なしきたりの変更を踏まえていなかったのだ。

そこで浅野公が手配した饗応の準備に目を通した吉良公は「違う」と苛立ち、浅野公を格下の伊達公ほか関係者の前で幾度となく叱責が続く。

時間が無い中で吉良公が指示を出すが、日がないこともあり、吉良公は気が急いている。また年寄りになると気も短くなるし、饗応の仕方が18年前と少しずつ変わってきた経緯を浅野公に詳しく説明している時間が無い。

自ずと吉良公の言葉も荒くなり、吉良公からきつい叱責がいくつも飛ぶ。

◆吉良公の述懐

松の廊下の事件があったその年の瀬。

翌年早々に江戸を離れることが決まり、知人との惜別の茶会の準備をしている時、当時を振り返って「浅野は悪くない」、と側近に述懐する。

饗応する相手の公家はわがままだ。毎年好みを少しずつ変えてくる。

18年前は間違いのない手配であっても、年々手配の中身が先方の好みに応じて変り、今では間違いとなっている。18年の好みの変化の蓄積は大きいと。

浅野公は若手の伊達公の前で叱責を浴びながら必死になって吉良公の指示に振り回され、恥をかく日が続きながらも必死になって指示に従う。

浅野公が必死なら吉良公はもっと必死だった。なぜなら、吉良公は高家肝煎。朝廷からの使者の饗応に問題があれば、高家の立場そのものが危うくなる。吉良公の方がはるかに必死だったと。

それなりにリアルな筋立てだ。(つづく)

(学23期kz)

山口再訪 出会いし市井の優れ者①

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【2022年11月トピックス】

◆観光資源としての山口の史跡

山口での町おこしイベントに参加し、ついでに史跡巡りをしてみた。

学生時代といえば、学業はさることながら諸事に熱中しており、街中に残る史跡は私の目に映らなかった。

史跡の多く残る長州・山口。

ここ数年、県や市では史跡にスポットライトを当てた観光客誘致に本腰を入れているようで、市民もボランティアのガイドなどの活動を通して、歴史が凝縮された街・山口のPRに努めている。

◆観光コース

私のような「足のない」県外から観光客が史跡巡りをする際に、便宜が図られていることはありがたい。

例えばJR山口駅に着き、観光案内所で500円の「観光周遊1日乗車券」を買えば、コミュニティバスと周遊タクシーが1日乗り放題で使えるのだ。ただし、秋の観光シーズンの9~11月の土日祝のみではあるが。

JR山口駅から1時間に1本コミュニティバスに乗れば、史跡巡りのベースポイントである香山公園・瑠璃光寺五重塔までの間、車内でボランティアガイドの説明が付く。

五重塔前に着くと、付近の史跡のスポット巡りをガイドしてくれる。

また、五重塔を見た後では常栄寺雪舟庭が見てみたいものだ。そういう場合は、30分間隔で走っている周遊タクシーが購入済みの「1日乗車券で」利用でき、雪舟亭を見た後は山口駅、湯田温泉まで行けるコミュニティバスの停留所がある八坂神社近くの菜香亭まで運んでくれる。

一時は観光タクシーを半日借り上げて史跡巡りをしようかとも検討していた私にとって、格安で使えるこうした周遊乗車券が大変ありがたい。

◆優れ者ガイドさんとの出会い

史跡巡りをしたいが、史跡をただ観て回るだけでは薄っぺらな観光地巡りにしかならないと考え、史跡に詳しい方のガイドをお願いしたいと思い立った。

ウェブ検索したところ「維新策源地ウォーク」というガイド付き観光コース(有料)があることを見つけた。

事前に申し込む際に、私の興味あるスポットを伝え、申し込んだ。

有料といっても一人500円だ。

二人以上の観光客から引き合いがあればガイド成立となるが、私一人だったため、千円を払うことでガイド案内成立となった。

当日私をガイドしてくれたのが古谷眞之助氏(昭和52年・山大経済卒)で、どうやら「やまぐち萩往還語り部の会」の重鎮のようだ。

今から思えば、案内を申し込む際に山口大学の学祖「上田鳳陽」先生にも詳しい方とお願いしたので、大学同窓の方を当てて頂いたようだ。

この古谷さん、山大ワンゲル部OBの会長を務めていたという。

また著名人が山口を訪ねる際、地元の史跡を紹介する役として抜擢され、テレビにも何度か出演したというちょっとした有名人だ。

また古谷さんは多才で、40を過ぎてグライダーの魅力にはまり、操縦免許を取得しているほか、歴史ものの著作物も多い。

また、萩往還をガイドした際の風景をイラスト画にしている。

古谷さんのイラスト画はウェブで検索するとみることができ、構図といい、筆使いといい、色使いといい、立派なもので、弟子入りしたいくらいだ。

古谷氏から丁寧な解説付きの史跡巡りを終えた後、帰り際に書籍のお土産まで頂いた。

彼のグライダーについて書かれた分厚い著作物、私が興味を持っている山口十境詩の解説本や絵写真だ。

それにもう一つ。

彼が描いたオリジナルのイラスト画が入った手ぬぐいが添えられていた。

自宅に戻り、古谷さんから頂いた手ぬぐいを私の部屋の中に広げ、毎日眺めている(文末写真参照)。

それは萩往還を一人往く武士(もののふ)の後姿が描かれたイラスト画で、松陰江戸送りの際の「涙松の詩」が書き添えられている。

「かえらじと 思いさだめし 旅なれば 一入(ひとしほ)ぬるる 涙松かな」

益々のご活躍を祈念したい。

(学23期kz)

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第3回長州歴史ウォーク開催

山口大学経済学部同窓会、鳳陽会東京支部は令和4年12月3日(土)、第3回長州歴史ウォークを開催します。赤穂義士ゆかりの両国、泉岳寺を基軸に歴史の現場を巡ります。

【開催要項】

《日時》

令和4年12月3日(土)

午前10時、集合。雨天決行 

《集合場所》

東京都墨田区 JR両国駅西口

《行程》

両国駅―回向院―安兵衛公園―吉良邸跡―両国駅

昼食休憩(分散して各自食事)

両国駅―都営両国駅(地下鉄で移動)―泉岳寺駅―泉岳寺・赤穂義士墓所参拝

午後3時ごろ、現地解散

《参加費》

赤穂義士墓所線香代(300円)各自負担

《応募方法》

参加希望の方は鳳陽会東京支部ホームページの「連絡・お問い合わせ」窓口から応募してください。

お待ちしています。