ゴルフ、なんでそうなるの! ⑤真冬のゴルフ

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年3月トピックス】

ようやく春が巡ってきた。

それでも北風が冷たく、厳しい朝を迎える日もある。

いつぞや真冬にやったゴルフを思い出した。

◆冬場の朝一番

北関東では、ティーが地面に刺さらないほど地面が凍っている場合が多い。

白い息を吐きながらティーグラウンドに立つと、凍てついたティーグラウンドにティーを刺す穴あけ器(ティー・ボーリング)が置いてある。

右手で鉄の取っ手を持ち上げ、凍った地面に振り下ろすのだが、取っ手も凍っており右手に痺れが残る。

右手に手袋が欲しいところだが、グローブをしているのは左手。何ともチグハグ。

左手で穴を開けようにも今一つ力が入らない。

やはり頼りになるのは利き手の右手だ。

◆真冬特有のゴルフ

真冬のプレーでは面白いことが起きる。

池に打ち込んでもボールは氷の上を跳ね、グリーンに出てくる。

「こいつはいいや!」

結構、トクをした気分になる。

しかし、そのあとに落とし穴が待っている。

グリーン近くから寄せに入るが、凍ったグリーンの上ではボールが止まってくれないのだ。

とてもスコアにならない。

鏡の上とは、まさにこのこと。

凍ったグリーンで特に困ったのは、かなりの段差があるパー3の打ち下ろしのホール。

グリーンを捉えたと思った打球はマジックボールのように2~3度強く飛び跳ね、大きな弧を描きながらグリーン脇の林へ消えた。

次のプレーヤーも同様。

一緒に廻ったパートナーの打球も全てロストボールになってしまった。

凍ったグリーン、恐るべし。

プレーヤーの予想や願望を、ことごとく打ち砕く。

◆止せばいいのに

凍てつく真冬にはゴルフを止めておけばいいのに、そうはいかない。

ひと月もふた月も前から、仲間と楽しみにしていたゴルフ。

仕事に段取りをつけ、家族を納得させ、プレー代の捻出にメドを付けて、仲間とのプレーを楽しむことに専念する。

そしてプレー後には特別の楽しみが待っている。

乾杯だ。

若い時は、雨が降ろうが、雪が降ろうがゴルフを決行!

仲間との無謀な初志貫徹の契り。

ああ、今となっては懐かしい。

(学23期kz)

穴あけ器(ティ・ボーリング)

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料理教室デビュー

写真を添付し再掲載

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【2023年3月トピックス】

(2月トピックス投稿の前号「家電ご相談センター勤務」に続く)

料理教室に行くきっかけになったのは、ある日、電子レンジを使って調理をしているお客様から問い合わせが入って、即、答えを求められたことでした。
相手のお客様は料理中で待ってくれない、そんな悠長なことは言っておれません。
このことがきっかけとなって電子レンジを使いこなし、ひとつでも得意な分野をつくるきっかけにしたいと思いました。

さっそく、料理学校をあたりましたが、男の料理教室を希望しましたがなくて、渋谷のTクッキングスクールの入門コースに通いました。
殆どが女性で5~6名毎のグループ編成がその都度行われ、先生のひととおりの講義の後、グループ毎に実践の料理を作る。
最初は、意気込んではみても、包丁を握ったこともなかった私は、いつの間にか安住の地の皿洗い場にいた。(笑)
誰かが、意地悪して追いやっているというのではなく、いつの間にかそうなっているのである。
入門コースといっても、経験に差があり、積極的な人はどんどん前面に出て料理を手がけていく。
最後は、グループ毎に試食するが、約1名の得体の知れないオジさんがいて、何とも場違いで恥ずかしい。
相手は何も思っていないのかもしれないが、私が勝手に自意識過剰なだけかもしれません。

英会話の教室にはいろいろと通いましたが、すぐに世代を超えて女性とも友達になりましたが、料理教室デビューは溶け込めずに失敗に終わった。
それでも、このクッキングスクールのレシピは素晴らしく、「料理は技術」というだけあって美味しい。
私は、「焼きそば」、「塩、胡椒のステーキ」、「グラタン」は今でも得意中の得意です。
グラタンは感動ものである。
といっても、レシピ通りに作っているだけですが。

料理教室に通った時の感想として、通っている人の殆どが女性で、その上、性格は手に取るようによくわかるので、若い男性には伴侶を見つけるには料理教室が絶好の穴場であると事ある毎に吹聴しています。
女性の性格は駆け引きなくわかり、お見合いなんかより余程いいと思う。
お見合い雑感のテーマになりそうです。

当時デビューしたばかりの無名の十代の松本まりかさんが同じクラスにいましたが、今や「どうする家康」にも出演している人気の女優さんです。

写真1枚目は講師陣の先生方と

写真2枚目は松本まりかさん



(学22期 Y・Y)

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【お詫び】

先に送信したトピックスには写真が添付されていませんでした。

お詫びいたします。

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防長回天史 末松謙澄という男①

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【2023年3月トピックス】

幕末や明治維新を描いた作品に原典として引用される防長回天史。

対象年は嘉永6年(1853年)のペリー来航から明治4年(1871年)の廃藩置県による中央集権確立までの長州藩の歴史を記した著作である。

回天とは時世を一変させることを指す。毛利家の史料から描かれた明治維新史である。山岡荘八や司馬遼太郎も作品を書くに際し用いた貴重な一次史料である。

これを編纂した男がいる。小倉藩出の末松謙澄(けんちょう)だ。

末松謙澄とは何者か。

小倉藩と言えば関門海峡を挟んだ長州藩の対岸。馬関戦争では長州の敵であった。薩摩と共に長州閥が主流となっていた明治時代にあって、東京に出てきた小倉藩出の若者が筆の力で出世を果たし、長州藩の明治維新史を纏めたところが、新しい明治の世を象徴しているように思える。

末松について歴史辞典で調べてみると、「明治大正時代に官僚となり、法制局長官、逓信大臣、内務大臣を歴任した政治家で、伊藤博文の娘婿」とある。

◆地元での出会い、東京での出会い

時は明治。末松は地元で漢学の師と出会い、漢学を十二分に修めた後、17歳で上京し、多くの人と出会う。

  • 元での師・村上仏山との出会い

行橋、小倉藩で庄屋の四男として生まれる。父・七右衛門は国学を修め、和歌を好み、地域の行政にも関与しており、地元では中心的な人物であったのだろう。

1865年10歳で郷土の漢学者・村上仏山に漢学を学ぶ。第二次長州征伐が起こった余波で、高杉晋作の兵が小倉藩に攻め込み、小倉は混乱状態になり、この時起きた百姓一揆で末松家が焼かれる。しかし、これがきっかけとなり謙澄は村上仏山に預けられることになる。

この時仏山から習った漢学、文章力が末松の持ち前の見識、鋭い洞察力と相まって、優れた表現力を備えた若者に育ち、才能を開花させるに至る。                                                                                                                                                                                                                                                                                    

  • 橋是清との出会い

 九州から東京に出てきた末松謙澄は書生として学者の下を転々とするが、佐々木孝行の下で書生をすることに落ち着く。土佐藩士で公爵の佐々木は大政奉還の建白に関わり、また岩倉使節団の関係で司法制度調査を目的とした渡欧歴もある大物で、明治天皇の信任も厚かった人物だ。

末松は佐々木の次女・繁子が、英語の教え方が上手いとされたオランダ系米国人宣教師・フルベッキのところに英語を習いに行く際のお供役であったが、フルベッキ邸で書生・高橋是清と出会う。末松は高橋是清とたちまち意気投合し、高橋から英語を教わる代わりに、末松が高橋に漢学を教える仲になる。

  • 地源一郎との出会い

高橋と共に外国の新聞を訳出し、新聞社に売ることで生計を立てていたが、その縁で、記事を買ってくれていた「東京日日新聞社」(後の毎日新聞)に入社する。

翌年、同新聞社に主幹として迎え入れられた福地源一郎(長崎出身)と出会う。福地は使節団の一員として渡欧経験を有し、各界に人脈を持ち、西郷隆盛、伊藤博文、山縣有朋とも交流のある人物だ。この福地との出会いも末松が世に出る窓を大きく開いた。

福地は末松とウマが合ったのだろう。福地は末松の才能を買っており、若い末松を執筆陣に加えている。その時、末松は何と19歳。

この時から末松は新聞に「元老院批判」や「教務省廃止論」など大胆な社説を書くが、鋭い論評で、正鵠を射ていたのだろう。こうした活躍ぶりが、当時の陸軍卿・山縣有朋の目にとまり、給料を2倍出すから陸軍省へ来いとの誘いを受ける。結局、末松は西南戦争時、山縣の秘書官として九州へ従軍。山縣の要請で、西郷へ宛てた降伏勧告文を起草した。

・・・続く

(学23期kz)

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春帆楼にてふぐを食らう

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【2023年2月トピックス】

冬。ふぐのうまい季節だ。

おいしいふぐを食べたい。

そうだ。下関に行こう。

向かうは名店、春帆楼(しゅんぱんろう)。

羽田空港から飛行機に乗る。妻とふたり旅だ。

 山口宇部空港に着いた。小型バスで下関へ。

関門海峡を望む下関グランドホテルに宿泊する。

◇歴史を誇る名店

 夕方、黒いコートを着てホテルを出る。宵闇迫る海峡沿いの道を歩く。

風は強い。寒い。そうとう寒い。だが、寒ければ、寒いほど、ふぐの味は増すというではないか。

 春帆楼に到着した。関門海峡を見渡す丘の中腹に建つ。煌々と明かりが灯る。

 春帆楼は明治時代の創業。130余年の伝統を誇る。

明治21年、初代総理大臣、伊藤博文公がこの料亭でふぐを食し、

ふぐ料理公許1号店となったそうだ。

明治28年には、日清戦争の日清講和条約(下関条約)締結会場となった。

 学生時代の思い出。寒い冬の夜、山口・道場門前の酒場「大万」で日本一安いといわれたふぐ鍋(私の記憶が正しければ580円)を友と囲み、熱い酒を飲んだものだ。

あのころから、人生で一度は春帆楼のふぐを食べてみたいと願っていた。

◇念願のふぐ

玄関を入る。格調高いたたずまい。壁には長州・山口出身の政治家ら歴代の名士たちの書が掲げられている。3階の部屋に案内された。

畳敷きの個室。窓の向こうに関門海峡が見える。

 和服姿。品のいい女性が接待してくれる。

「お飲み物はなんにいたしますか」

 メニューには山口の銘酒が並ぶ。迷う。

宇部の「貴(たか)」。究極の酒といわれる銘柄を選んだ。

きれいなグラスに清らかな酒が注がれる。

妻と乾杯。

 さあ、いただきます。

 まずはふぐの薄造り。箸ですくう。薬味を入れたポン酢にそっとひたす。

口に運ぶ。うまい。かみしめる。おいしい。

 「素材と味にこだわり、感動を提供する」(総料理長)

 熟練のプロが新鮮で良質なふぐを1匹、1匹目利きして 選び抜き、

歯ごたえ、うまみを最高の状態で調理しているという。

 お椀は、ふぐ真丈すまし仕立て。

 焼き物は、ふぐの香草焼き

 揚げ物は、ふぐ唐揚げ

 メインはふぐのちり鍋だ。熱々の鍋をふうふう、いいながらいただく。

 酒が進む。下関の「天美」に切り替える。

 〆(しめ)は、ふぐ雑炊。これがまた、うまい。

 よく食べた。よく飲んだ。ふぐを堪能した。至福の時が流れる・・・。

  窓から夜景を眺める。

関門橋が光を浴び、夜の海に浮かび上がっている。

 (鳳陽会東京支部 S)

春帆楼

関門海峡を望む部屋

見事なふく料理

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メシヤ、我が想い出 ⑤上高地

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【2023年2月トピックス】

気分を変えたいときには、たまにお婆ちゃんの喫茶店に行った。大学正門前、今は無き長門館の並びにあった「上高地」。

上高地・・・いい響きだ。

当時、新開地の平川地区で喫茶店といえば上高地くらいしかなかったような気がする。

店の入り口にはKEYコーヒーだったか、UCCだったか、大きな目立つ看板があったが、ここでコーヒーを飲んだためしがない。

注文するのは決まってカレーライス。

お婆ちゃん煮込んだ、こってりカレーが気に入っていた。

興が乗った時にはカレーのお供にチャーハンを注文した。

カレーとチャーハン。炭水化物の2丁拳銃。

インドと中国の両大国で古くから受け継がれてきた伝統の調理。

どちらも銀のステンレスの皿に盛られており、匙一本で交互に口に運ぶ。

納得のいく旨さに、時折こぼれそうになる笑みを独りこらえながら、黙々と完食に向かって匙を運ぶ。

最後のひとすくいを終え、まなこを閉じる。

そして、周りに悟られないよう小さく合掌。

このうまさ、この歓びが、抱えている様々な痛みや悩みを溶かす特効薬になってくれた。

ありがたや。

上高地のお婆ちゃんは物静かな上品な方であった。

小柄で、顔の作りはやや下膨れ。おっとり型で、右の口元に上品なイボがあったような気がする。ショートカットの髪には上品なパーマがかかり、淡い草色のワンピースが良く似合っていた。

これまでどのような人生を歩んでこられたのか。

もともと山口の方なのか。

待てよ。

お婆ちゃんだったが、当時、年の頃はいくつくらいだったのだろう。

当時二十歳の私からみたお婆ちゃん。

今思えば結構若かったのではないか。

長門館の双子のお嬢さんと同様、上高地のお婆ちゃんとも、世間話ひとつ交わすこともなかった。

(学23期kz)

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カメルーン

1983年2月3日、初めてカメルーンの地に降り立った。当時の首都はドアラ。

当時カメルーンと日本とは国交がなかったが、幸いにもロンドンのカメルーン大使館にて半日でビザを取得。

ハマターン(Harmattan/サハラ砂漠からの砂塵を含んだ貿易風で、太陽がかすみ、空気中に砂塵が漂う)、トカゲ、羽を広げると20cmはあるカブト虫、町中どこを見渡しても黒人ばかり。町の隣はすぐそこがジャングル。

日本とは国交がない国(当時)だから、日本のTOYOTAと描かれた車を見かけても現地の人はフランス車と言う。ほとんどの輸入はフランスからの輸入に起因するからだろう。

客先との面談時間に遅れないように到着。客先から出かけようとした対向車をよく見ると面談相手が、正に出かけようとしている。

「来たのか?」と一言。

アポなんて存在しない国のようだ。

夜、支店長宅に立ち寄った。門番が家の前で倒れている。

てっきり死んでいるのかと思うと、支店長がまたかと呟き、クラクションを鳴らす。

むくっと起きて、普通に門を開ける。

暑いから、地面に寝た方が涼しいとの理由らしい。

不思議な体験だった。

学23期  倉田一平(ペンネーム)

ういろう② 薬

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年2月 トピックス】

お菓子の「ういろう」の源流となった「ういろう薬」、これに興味を持った。

外郎家(ういろうけ)の自前の万能薬、いわゆる「透頂香(とうちんこう)」のことだ。

仁丹にも似ている。

◆成分

「ういろう」薬の主な成分を調べてみると、龍脳、タンニンを含んだ阿仙薬、桂皮となっており、芳香の成分としてムスクが使われている。

◆薬の効能

この薬は万能薬であり臭い消しとしても使われ、時の天皇から透頂香(とうちんこう)」という名前を賜ったが、これにはいわれがある。

薬の外側がはげると、芳香を発する。このため、朝廷では冠の中に留め置くと、時の経過とともに芳香が漂よった。また兜の蒸れによる悪臭予防の意味もあり、身体を守るお守りの意味も込めて、武士の間でも兜の中に忍ばせていたという。

透頂香(とうちんこう)」は何に効いたのか。

痛み、頭痛、歯痛、胃痛

消化器系では、胃痛、下痢、胃腸炎、食欲不振、嘔吐

気管支系では痰のつかえ、気管支炎

循環器では心臓病、そのほか、酒の悪酔いや日射病にも効くらしい。

◆コロナ禍で

コロナはどうか。

コロナに効けば申し分ないのだが。

効能の中にはまた、伝染病にも効くと書いてある。漢方でのコロナ退治。

また、ういろう菓子も分包してあり衛生的。コロナの時代に合っており、甘さも控えめで身体に優しいかもしれない。

◆400年の長寿企業

意外にも、身近な方も、カバンに、またハンドバッグに忍ばせていることが分かり、これには驚いた。根強い人気があるのだ。

薬と菓子の外郎家100年続く「センテナリアン企業」どころか、スーパーセンテナリアンの400年企業だった。

(学23期kz)

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ういろう① 菓子

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2022年2月 トピックス】

小田原に勤めていた友人から「ういろう」菓子を頂いた。菓子の箱には「小田原銘菓」、「室町時代から受け継ぐ食感と風味」とある。

山口にも、蒸し菓子の「ういろう」があり、山口土産として郷里に買って帰ったことがある。

◆「ういろう」・・・そうだったのか

その昔、中国元王朝の時代のことだ。浙江省で医術に通じ、薬も調達する「大医院礼部員外郎」という官職に就いていた陳延祐なる人物がいた。

しかし、仕えていた元王朝が明に滅ぼされたため、二朝に仕えることをよしとせず、陳延祐は筑前博多に渡る。いわゆる亡命だ。その際、彼は名前を「陳外郎=ちん・ういろう」と名乗る。辞書をみると外郎の「外」の読み「うい」は唐音とある。すなわち「ういろう」とは、元を辿れば中国の官職名の一部だったようだ。

陳外郎氏は医者としての腕も良く、調合した自前の薬も、苦みはあるが「万能薬」のように良く効いた。

医の腕と薬の評判は京にも届き、時の将軍・足利義満からお声が掛かり、外郎家二代目の時外郎家の居を京都に移す。

この薬、いわゆる外郎氏の「ういろう薬」は、薬としての効能だけではなく、冠の中に忍ばせておけば薬の表面が溶けて芳香を放つ効能もあった。このため、時の天皇から「透頂香(とうちんこう)」という名を賜ったという。

◆ういろう菓子

京にあって、外郎家では朝廷の典医を務めると同時に国賓等の饗応の役回りもこなすうちに、薬の苦い味を消すために菓子を作ることを考えた。

苦い薬と甘い菓子。

この菓子は、薬とのつりあいが良かったようで、「外郎(ういろう)氏の菓子」として評判になり、「ういろう」菓子が誕生した。

その後、五代目の当主の時、北条早雲が小田原にを築くにあたり外郎家が招かれることになり、城下小田原に移り住んだという。

小田原の外郎家では、外郎家の自前の万能薬である「ういろう薬」=「透頂香(とうちんこう)」と共に、お菓子の「ういろう」を売っている。

◆山口の銘菓に

ういろうは各地の土産になっている。早いところでは尾張・名古屋でも1600年代には、ういろうが作られていたようであるが、名古屋より山口の方が少し早く創業している。

なぜだろう。

中四国の覇者になった第24代・大内弘世公が京に魅せられたことが影響しているかもしれない。弘世公は京に似た街づくりを始め、正室を京の三条家から迎えるが、その時すでに姫は菓子「ういろう」を口にしていたかもしれない。

弘世公は姫君孝行だ。姫が淋しがらないように源氏ボタルを取り寄せて喜ばせ、また屋敷中を人形で埋め尽くして楽しませた。大内人形の起こりだ。

そうしてみると、姫を喜ばせるために、弘世公がいち早く京から菓子職人を呼んだのかもしれない。あるいは姫がねだったのか。

外郎と豆子郎

九州にはあまり見ない菓子で、読みにカナが振ってない。

ふざけ半分に「げろう」、「まめごろう」と読んだ友人がいた。

この外郎、山口では江戸時代から御堀にあった福田屋が作っていたが、先の大戦で後継者がいなくなり、福田屋の職人が「御堀堂」を立ち上げたという。

また、豆子郎の方は外郎の改良版で昭和23年の創業。創業者は外郎が好物のエンジニアだったようだ。参入した菓子業界では「しろうと」のため、「しろう」をつけ、「新参者で幼い」意の「豆」をつけたという。

小田原の土産の話に戻るが、頂き物のういろう菓子を早速食べてみた。

いかん。

差し歯が抜けかかり、健康な歯も持っていかれそうになった。

小田原の外郎はかなり粘着度が高いようだ。

学生時代、山口で食べた外郎で、こんなことはなかった。

若い時と違って、私の歯が情けなくなったのだ。きっと。

(学23期kz)

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家電ご相談センター勤務

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【2023年2月トピックス】


電機メーカーに勤務していた私はサラリーマン時代の最後の職場(49歳~1年7ヶ月)が異動で、本社組織ではありましたが、世田谷区桜新町にあった家電のご相談センターというところとなりました。

サラリーマン時代の大半を広島とか横浜の支社(店)で過ごした私は、家電以外の官公庁や一般産業向けの電気設備やエレベータ等の重電、半導体、コンピュータ関連製品等を取り扱う営業の最前線のスタッフを長く経験しましたが、販売ルートの異なる家電の分野は全くといっていいほど未経験でした。

具体的には、全国のお客様からの家電製品のフリーダイアルでのお問い合わせに対して、電話で応対するコールセンターのようなところでした。
その為、電機メーカーに勤務していたものの、時代に背を向けた(笑)私の自宅には家電製品らしきものは殆んどなく、買い込みました。

洗濯機は全自動ではなく、二槽洗でした。
全自動洗濯機、電子レンジ、クリーナー、ビデオ、DVD装置、CS放送機器、文字放送、除湿機、ホームベーカリー等の新製品を一気に買い込んだ。
何しろ使ったことがないので、お客様がご使用の商品の問い合わせやお買い物相談にもまともに答えられない。
いくら電話対応とはいえ、受け応えがいくら丁寧でも、商品知識とかが備わっていないと話にならないし、ある程度自社の商品を使いこなしていないと相談にもならない。
ベテランの相談員の人など一日に80~90件の電話相談をこなすような人もいたが、平均でも40~50件位はこなす人が多かった。

私も一生懸命に取り組んではみましたが、せいぜい20数件で30件を超えたのは一度くらいでほとんど記憶にない。
目に見えない、誰からかかってくるかわからない電話というのは、私のようなものは勿論、ベテランの人でも緊張を強いられる。
中には、保証期間を数日過ぎた頃に故障したが、どうしてくれるといったものまで含まれる。
商品知識がないので、取扱説明書を見て自力で対応しようとするが、時間がかかり、結局、グループリーダ的な人に個々の案件ついて相談することになり、電話応対に時間がかかる。
ビデオ操作上のこちらの説明上のミスでトラブルになって、1件の問い合わせに半日かかったこともありました。

「料理教室デビュー」の次号に続く

(学22期 Y・Y)

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大学授業料に思う④

【学生へのエール】

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【2023年2月トピックス】

我々は少なくとも授業料の面で、今の学生諸君よりも恵まれた世代であったことは述べたとおりだ。

こうした状況でのコロナ禍。

求人数も減り、学資を稼ぐアルバイトに就くのも難しく困窮学生も出た。

◆恵まれていた世代、今もなお・・・

こうした学生に恵まれた世代はどう向き合うべきか。

一般的に、現役世代はフロー(所得)が中心でストック(資産)が少ない。

年金中心の高齢層は逆で、フローは少ないが、これまでコツコツと蓄えた貯蓄に加え、なにがしかの退職金もあり、資産リッチになっているはずだ。

こうした場合、貧富の差の調整、すなわち、恵まれた層から恵まれない層に富を移転させる再分配装置の一つとして税がある。

しかし現在の税制はフロー(所得)に税を賦課するのが中心だ。所得税、法人税然り。消費税でもそうであり、そうであるならば、この下では所得を多く稼ぐ若者が税を多く負担し、逆に所得の少ない高齢者の負担が軽くなる。

では、高齢者が多く保有する資産への課税はどうか。

資産への課税は薄い。

先ず、国税にはストックに課税する資産税や財産税はない(相続税については後述)。

固定資産税は不動産というストックに課税されるが、国税ではなく地方税だ。

すなわち国の懐には入らないため、国の所得再配分の財源としては使えない。

また株や投信などの高齢者が多く保有する金融資産の利子や配当に対しては優遇的な分離課税が適用されており、高齢者に優しい税制になっている。

財政支出についてみても、年金・医療・介護など各種福祉の施策は手厚く、これまた高齢者に有利になっている。

要は高齢者はシルバー民主主義の恩恵にたっぷり浴しているということだ。

すなわち、国として恵まれた層から恵まれない層への富の移転にはあまり期待はできない。

しかし、こうした中で、恵まれた層の思いが直接届くような若者支援、しかもピンポイントで効果が生じる個人的な富の移転行為として寄付という手がある。

◆身の丈に応じて

我々の子どもたちは我々の現役の時とは異なり、所属先の会社の各種福利厚生が削減され、親としての我々に頼ることが増えている。また、孫が居たら居たで出ものも多い。

話はそこから先だ。

こうした家族・親族支援もさることながら、最近は生活苦にある後輩の山大生諸君を少しでも応援できないかと思うようになってきた。

もちろん、身の丈に応じ、できる範囲での話だ。

◆相続税をにらんで

平成27年以降相続税の基礎控除が引き下げられ、相続税を払う例も多くなっている。しかし納めた相続税の分はどこに使われるか不透明だ。恵まれない学生に効率よく向かうとは限らない。

相続税が出そうな場合、何がしかをピンポイントで学生支援に回す、すなわち寄付も望ましい選択肢の一つだと思うようになった。一回限りの思い付きでもいいのだ。

高齢者と若者。

若者への丈に応じた小さな支援。

運命共同体という言葉は大げさだが、高齢者と若者が共倒れにならないためにも、配意しないといけないなという気がしてきた。

大学卒業50年。

歳のせいかもしれない。

・・・完

(学23期kz)

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