ゴルフ 何でそうなるの! ②

イップス

◆遠かった1メートルのパット

リゾート地でのゴルフ場。趣向を凝らしたレイアウトが評判だった美しいコース。グリーンが速いとは聞いていた。

その時、私のゴルフ歴は15年ほど。

フェアウェイには質の良い芝生が敷いてあり、グリーンはトーナメントができそうなほど短く刈り込まれていた。

とあるホールでのこと。グリーンの端にオンした。

ホールアウトまでの組み立てとしては、ファーストパットでピン周りに運び、セカンドパットを外しても、3パットで楽々ホールアウトできるはずだった。

さて、実際は。

ファーストパットが弱く、セカンドパットを終えて、1メートル強が残った。

パットの3打目。上(のぼ)り1メートル。

ここから「なんじゃこりゃ!」を味わった。

カップインまで5打を要し、パット数は7と相成った。

何が起きたのか。

上りのパットだったので、ほんの少し強めに打ち出した。

ほどよく打てたように思えた球は、まるで下り坂のような転がりで、スルスルと、いや違う、スルースルスルスルと緩やかな上り傾斜を3メートル半も駆け上がって行った。

これまで何千回、いや何万回とパットをしてきた体験に照らし、どう考えても物理の法則に反した玉の転がりだった。

上りだが、芝目が順目だったのかもしれない。

あるいは上り傾斜と下り傾斜の見間違いか。そんなはずはない。

おまけに、最終パットのはずの6打目の10センチほどの短いパットもカップの縁(ふち)を舐めてしまった。

パットを舐めちゃいけない。

ああ、遊びのゴルフで良かった。プロでこうした経験をすれば、選手生命にかかわるところだった。

◆イップス

イップス(yips)という症状がある。プロの世界でも往々にして起こるもので。異常な緊張のあまり、何でもない動作が出来なくなってしまうことだ。ゴルフではドラコンを狙うようなドライバーショットではなく、何でもないはずのパッティングで起こる。

特に、優勝のかかったプロゴルフではそうだろう。短いパットを外せば、優勝という名誉を獲り損ない、何千万円という優勝賞金も逃げていく。かつて連戦連勝中のジャンボ尾崎が優勝のかかった短いパットを前に、手が痺れて打てなくなり、仕切り直した場面を思い出す。

実際、イップスでプロの世界を引退してしまった選手も多い。宮里藍然り、丸山茂樹然り、帝王ジャック・ニクラウスに代わり「新帝王」と称されたメジャー8勝のトム・ワトソンもそうだ。

この症状は真面目で完璧主義者に多く出るという。

◆本番前の過度な練習 

サラリーマンのアベレージゴルファーは、コンペでみっともない球を打たないように、何週間も前から入念な練習を繰り返す者も多い。私もその一人だ。

しかし、事前の練習を入念に行えば行うほど、本番では筋肉が硬くなるようだ。

スタートのホールの第一打目。

「あれだけ練習したのだからうまくいかないはずはない!

うまくいく筈だ。」

こう思った時点で、もういけない。

すでに身体は相当硬くなっているのだ。

案の定ミスショットが出たら、「これまで積み上げてきた練習は、一体何だったのか。」

と悔やみ、落胆の度合いは大きい。

◆ビジネスイップス

このイップスは仕事でも出ることがあるという。「ビジネスイップス」だ。

この症状は責任感が強く、他人の評価を過度に気にし、自分をよく見せようと自分を追い込むタイプがかかりやすいそうだ。

ひと昔前の典型的な日本人にありがちな症状のような気もする。

しかし、最近は日本人も若者も相当変わってきている。

オリンピックのような大一番でも「楽しんでくる」と言い、負けても「楽しかった」という。

自己暗示でもいい、負け惜しみでもいい。

それくらいでないと、イップスに負けるかもしれない。

(学23期kz)

歴史ノート 木戸孝允①

◆幕末の三傑 

幕末から維新にかけて活躍した長州人には有名人が多い。吉田松陰と言えば松下村塾、東京にも松陰神社がある。高杉晋作と言えば奇兵隊、伊藤博文と言えば初代内閣総理大臣、大村益次郎と言えば医師で兵学者、靖国神社。乃木将軍と言えば203高地、ステッセル、殉死、乃木神社。

では木戸孝允といえば・・・すぐに出てこない。考えてもなかなか出てこない。

それでも、あえて言えば・・・幕末時は「桂小五郎」、「逃げの小五郎」、連れ添いで器量よしの「幾松」。

活躍した場面を切り取りにくい人物だ。

木戸の足取りを見ると、若い時には長州藩内で尊王攘夷派の指導者格となり、藩政の要職に就く。

維新後は五か条のご誓文、版籍奉還、廃藩置県など、封建社会からの脱却・近代社会への制度構築のほとんどすべてに関わり、主導的役割果たす。憲法制定、三権分立の確立を主張した啓蒙派であり、資本主義の定着とその弊害是正にも動いている。

ただ、こうした活躍は調整役として、また抑え役として動いた場面が多い。

多方面での調整役の重鎮として活躍したことは間違いないが、他方その分、個性が表面に出にくく、影が薄くなるのは否めない。

口を付いて出てくるような木戸の残した言葉や歴史上の有名な場面は出てこないのだ。

しかし、木戸孝允は長州人として、西郷隆盛、大久保利通と並び、長州からはただ一人、幕末の三傑に選ばれている。

◆名家生まれ

実父は萩の医者・和田昌景。和田家の先祖は毛利元就の七男天野元政であり、名家である。

後妻との間に生まれた長男であったが、既に嫡子がいたために次男扱いとなり、桂家の養子となる。

この桂家も名家であった。鎌倉時代の初代政所別当(行政長官)大江広元(おおえのひろもと)の子孫である。大江広元とは、平城(へいぜい)天皇の皇子・阿保(あぼ)親王の落胤である大江音人(おおえのおとんど)の子孫で鎌倉幕府の開府に尽力した人物で、テレビドラマ「鎌倉殿の13人」にも出てくる頼朝の側近として仕えた重要人物だ。この大江広元の広大な所領のうち、広元の四男毛利季光(すえみつ)が神奈川県厚木市の毛利庄(もうりのしょう)の地頭となって毛利季光と名乗ったのが「毛利家」の始まりだ。

このため、桂家は殿様の毛利家と先祖を同じくすることになる。木戸孝允が畏まった文書には「大江孝允」と書いたとされるのはそのためだ。遡れば皇族につながる家系だ。

こうしたこともあってか、また木戸は幕末に、藩主・毛利敬親から「木戸」の姓を賜ることとなる。

◆幼少の頃

病弱であったが学問を好んだという。10歳で萩の私塾・岡本権九郎の下で漢学を学んだ後、明倫館で文武の修行に励む。

弘化3年(1846年)、14歳の時に藩主・毛利敬親の試験に応じ、即興で詩を賦し、恩賞に浴したという。また、孟子の解説でも殿から褒賞を受けている。

筆も巧く、幼い時に筆の師が木戸の字を大層褒めたという話も残っており、早熟の器用で利発な少年だったようだ。

(学23期kz)

安倍元総理のご冥福を祈る

 昨日、安倍元総理大臣が亡くなられた。

山口大学にとっても、大変悲しく、残念なことである。
 安倍元総理から、2015年の山口大学創基200周年記念式典に、お祝いのお言葉をいただいた。
 式には、山口県や山口大学出身の 林芳正参議院議員、岸信夫衆議院議員、河村建夫衆議院議員、山際大志郎衆議院議員、下村博文文部科学大臣(代読:吉田大輔文部科学省高等教育局長)、村岡嗣政山口県知事がご列席され、祝辞をいただいた。
 山口大学の源流は、現在の経済学部であり、山口大学経済学部は地域や社会に貢献していくために、発展していく責任があるとあらためて思った。
 安倍元総理大臣のご冥福をお祈りいたします。
(大40期 K.Y.)

安倍元首相から山口大へのエール

昨夜、安倍元首相が逝去された。

平成27年5月30日(土)に山口大学創基200周年の記念式典が山口市で行われたが、式典の中で当時の安倍晋三内閣総理大臣からビデオを通じ、メッセージが届けられている。

ここで改めてご紹介したい。

この中で安倍総理は、明治維新を成した長州の気風を受け継ぎ、日本そして世界の発展に貢献する人材が、地域の「知の拠点」である山口大学を通じて育成されることに期待を寄せられた。

15060409_200th_abesori_shukuji.pdf (yamaguchi-u.ac.jp)

なお、式典の模様については山口大学ホームページ、2015年の欄に収められている。

(鳳陽会東京支部事務局)

大学正門前 今は昔 ②

◆正門を背に右手に行けば・・・

吉田寮に向かう路だ。

撮影時は20135月となっており、「サビエルセンター・寮」の看板が見える。

むかしは「サビエル教会」と出ていた記憶がある。

当時に比べて、敷地も広くなっているような気もする。

◆神父さん

この施設はカソリック・イエズス会の施設のようで、2008331日で閉館となった。。

「平川サビエル学生支援センター」は19704月に建設、私の入学が昭和46714月入学なので、私の入学からちょうど1年前に建ったことになっている。

何もかもが新しかった。その中に茶室「一心庵」があり、入学したての男女数名がお茶をいただいた。お茶を入れて頂いたのは、ここの主人(あるじ)。

横に控えた奥様も笑顔の絶えない柔和で穏やかな方だった。

この主人の名は神父・プロットさん。

プロットさんはチェコ出身のドイツ育ちで1963年に来日し、上智大学で神学や英米文学を学んだ後、19717月に山口大でドイツ語と英文学を教える講師として山口氏に移住してきたという。

そういえば、しばらく後に、シラバスにはドイツ語講師欄に「プロット」と出ていたような気がする。

しかしその時、私は既にドイツ語の単位を取り終えていたため関心を寄せることはなかったが、いまから考えれば、このプロットさんだったようだ。

画像をよく見ると「サビエルセンター・寮」の掲示板には、ガラス越しに「37年間ありがとう」の文字が見える。

◆山大正門前  今は昔

前稿でも触れたが、山大正門前界隈は山大通りの右手も左手も当時から変わり、何だかよそよそしく、ふらりと店に立ち寄りにくい気がする。

なぜだろうか。

車での来客用に駐車場が店の前にあるため、店の入り口が通りから奥まったからかもしれない。

ひとつ残念なことに、大学のある街につきものの古書店がない。

かつて一番の繁華街であった道場門前や米屋町あたりには古本屋があった。教育学部や経済学部の平川移転に伴い、古本屋の一つや二つ、正門前に移転してきてもよさそうなものだが。

我々が入学したての時、大学が平川に統合移転という形で集まり始めて5年しか経っておらず、「大学」という古ぼけ、苔むしたイメージからほど遠く、校舎の隅々まで光っていて、施設や備品も新しかった。

50年前の当時、授業が終わって平川の正門を出た時の風景を思い浮かべるたびに、3人のおばちゃんを思い出す。

◆文榮堂のおばちゃん

正門の正面にあったのは本屋。店にはかなり大きな看板が出ており、確か赤の地に白で「文榮堂」と出ていた。

店を切り盛りしていたのは色白で頬がぽっちゃりのおばさまで、彼女が店主であったのか、店長さんだったのか。穏やかで物腰の柔らかい方で、注文にもソツなく対応してくれた。

山大に生協ができたのが199612月。それまでは大いにはやったはずだ。

現在の文榮堂には昔に比べて文房具のほかコミック類が増えたと聞く。

現在も山大正門前にも店舗はあるが、本店は道場門前になっている。このほかに郊外の総合ショッピングセンター・ゆめタウン(本店は広島)にも出店しており、それなりに繁盛しているようだ。

◆徳光のおばちゃん

いまでいうコンビニのような雑貨屋・徳光商店であった。いつも男女を問わず、若い学生で混み合うっていた。この店の名物が「徳光のおばちゃん」。愛想のいい世話好きなおばちゃん。年の頃は「おばぁちゃん」だったような気がするが、「徳光のおばちゃん」と呼ばれており、客あしらいがうまく、人気の絶えない店であった。

徳光のおばちゃんのご主人の話がある。

最近友人から聞いた話だが、その彼が魚屋でアルバイトしていた時に山口刑務所に何度か出前した時、届け先の刑務官が徳光のおばちゃんのご主人だったという。

刑務所の位置を調べてみると、山口刑務所は湯田温泉駅の近くにある。当時は刑務所の存在すら知らず、友人の間でも話題にならなかった。

◆上高地のおばちゃん

KEY COFFEEだかUCCだか、大きな看板のあった喫茶店「上高地」。

この店の女主人もそうであったが、このおばちゃんは、徳光のおばちゃん同様おばぁちゃまに近かったが、徳光のおばちゃんと違い、あまり笑わなかった。

ここの名物、上高地のカレーについては稿を改める。

(学23期kz)

文榮堂本店(道場門前)

優が2つだけの大学生活

優が2つの大学生活
バブル世代1989卒の私は、ご多聞にもれずバイトとテニスサークルと合コン三昧の大学生活を謳歌しました。授業を受けに毎日学校に行ったのは教養部のひと月くらい。あとは代返(代理返事)とテスト前にノートのコピーをもらって一夜漬け。
それでも3年生までに卒業単位を取得できたのは、友人、後輩ネットワークの賜物です。
そんな私でも、2つだけ優をいただいた講義があります。
一つは 欧米経済論、確か河野教授の担当でボーイングやATT、IBMといった当時の最先端企業がMilitaly industrial complex 軍産複合体によって生まれてきた事例を紹介して頂き、毎回目から鱗の講義内容でした。もう一つは、菰田教授の経済統合論。未来学者として著名なアルビントフラーの第3の波(残念ながら絶版)を教材として使い、農耕(第一の波)、製造業(第二の波)そしてその次はデータ、情報(第三の波)が世の中の主流になるという事を1980年に予測したもので、300ページを超える本を何度も読み返した記憶があります。こちらは2単位、しかも試験はなくレポートのみだったのですが、優をいただきました。

優2つの成績でしたが、時代はバブル、売り手市場、たくさんの企業から内定をいただけるような良い時代でした。あれから30数年、外資系数社を渡り歩き、55歳になった今年からは、イスラエルのコネクテッド自動車向けサイバーセキュリティー、ソリューションプロバイダーのスタートアップ企業の日本法人立ち上げをやってます。
イスラエルのサイバーセキュリティー技術はまさに、軍産複合体で産出されたもの、そして第三の波のど真ん中で、目から鱗の日々を送っています。イスラエルの同僚(といっても娘と同じくらいの年齢もたくさん)は男女共に徴兵を経て軍のサイバーセキュリティー部門の精鋭部隊経験者。年齢問わず心身共にタフで、ついていくのは大変ですが、改めて日本が平和であることの有り難さを感じています。
日本語版のサイバーセキュリティーレポートを作成しましたのでご興味のある方は
こちらから無料でダウンロードできます。
https://nam12.safelinks.protection.outlook.com/?url=https%3A%2F%2Fupstream.auto%2Fresources%2F%23research-reports&data=05%7C01%7C%7C386301d5255241c57e9108da55b3deb6%7C84df9e7fe9f640afb435aaaaaaaaaaaa%7C1%7C0%7C637916528282282750%7CUnknown%7CTWFpbGZsb3d8eyJWIjoiMC4wLjAwMDAiLCJQIjoiV2luMzIiLCJBTiI6Ik1haWwiLCJXVCI6Mn0%3D%7C3000%7C%7C%7C&sdata=pdxXSWrvsXl3i9udl9GV7s3FsIy7Eu%2Bl9HFvq3ktKuo%3D&reserved=0

大学37期 上野 啓 鈴木ゼミ

大学正門前 今は昔①

大学が平川にできたのが昭和41年(1966年)。「君といつまでも」や「バラが咲いた」、歌謡曲では「星のフラメンコ」がはやり、ビートルズが来日した年にあたる。経済が高度成長を続けていた時で、2年前に東京オリンピックが開催され、人口が1億人を突破し、「坂の上」を登っていた時代だ。

学生時代に映った正門前の風景は、いまどうなっているのだろう。山口を再訪する機会があっても、大学正門前まで足を伸ばすのは難しい。

そこでGoogleストリートビューで覗いてみた。

◆正門前再訪

山大正門前からまっすぐに湯田に伸びる山大通り(県道61号線)を再訪してみよう。

その画像を見ると、撮影時は202110月と表示されている。

その昔、正門の真正面にあった本屋・文榮堂のところが小公園に置き換わっていることに軽く驚いた。正門の真正面の一等地だ。人が入れるような公園ではないようで、立ち退いた店舗にあとに、「かたちづくり」の小公園を造ったような感があり、広さも中途半端のようだ。もっと良い土地の活用の仕方はなかったのだろうか。

それはさておき、画像に沿って通りを眺めると、今風の店が出ている。

◆山大通りの左手

まずは正門を背にして左手側からみてみる。

小公園の先には居酒屋「一番どり」の看板が見える。その隣には大手携帯電話ソフトバンク・Yモバイルの店舗、コンビニのファミリーマート、次に24時間営業の食品スーパー・アルク(本店は岩国)があり、アルクには全国チェーンの「やよい軒」も入っている。またその先には山口銀行の看板も見える。

ここでハタと気付いたが、長門館がなくなっている。何度見直しても、跡形もなく蒸発している。どうやらフトバンク・Yモバイルがある店舗の駐車場と化したようだ。

◆山大通りの右手

次に右手。

先ず山陽種苗がある。昔からあった店だ、その隣には西中国信用金庫(本店は下関)が出店している。実は昭和61年に当時の津和野信用金庫が山口大学前に支店を出店したが、平成19年の西中国信用金庫との合併で、看板が西中国信用金庫・山口大学前支店に変わったという。

信用金庫の先にはローソンがあり、その隣にはかつて正門のまん前にあった文榮堂が移転している。その少し先には交番も設置されており、このほか弁当のHotto Mottoも出ている。弁当に対する学生諸君の需要は大きいのだろう。

さらに湯田方面に進むと、高架でJR山口線の上を超えたところに、とんこつラーメンの博多金龍の看板を見つけた。私が学生だった昭和の時代、とんこつラーメンと言えば湯田温泉街の「おそ松」しかなかったが、この出店は嬉しい。

◆正門から左手に・・・小郡方面へ

通りのすぐ左手、小公園の隣には全国展開の学習塾があり、その左隣にはカレーの「CoCo壱番屋」ができているのはありがたい。みんなカレーが大好きだ。味もさることながら、匙1本で食べられ、使う手も片方で足りる。空いた手でググることもでき、メールも打て、読み物もできる。時間が無く、忙しい若者にはありがたいのだろう。

カレー屋の隣にはドコモショップが出店している。

その隣にある洋風のかわいらしい家があるが、いまだ健在だった。その昔、この新築の家で小さな子供さんを抱えた若奥さんが切り盛りする定食屋がオープンしたが、今では「油そば研究所 特濃豚骨油そば」と、大きな看板が出ている。当時の若奥さんがまだやっていることはないだろう。年のころ傘寿に近いはずだから。子供さんが大きくなり、お母さんの店を継いだのかもしれない。

いや、待てよ。若奥さんが傘寿なら、子供は50前後だ。店を継いだのはお孫さんかもしれない。

若奥さんの店の真向かい、山大の敷地内に「学生会館」なるものができている。昨年3月にできたもののようで、備え付きの家電があり、食事も出してくれるという。大学の独法化に伴い、大学も自前の資金を稼ぐ必要が出てきた。大学の土地を貸し出し、民間企業が生協と組んで構内に学生マンションを建てている。調べてみると家賃は3.75万円~4.25万円、食費は1.7万円との説明が載っていた。

通りを下ると、大きなディスカウントショップが出店している。やはりこういった店があれば、学生諸君には何かと便利だ。

その先には「ひらかわ朝市」の看板がみえる。どうも当時と様子が異なる。当時はJAの大きなショッピングセンターができたばかりで、惣菜コーナーでコロッケをよく買ったものだ。

「ひらかわ朝市」は平川地区で採れた新鮮な農産物の直売所で、その奥にはJAの事務所になっているようだ。

時代によって事業内容も変わり、店舗もあり方も変わるのだろう。

当時の断片的な思い出については別稿で稿で触れる。

皆さまも当時の大学正門前の思い出やエピソードを語ってみませんか。

(学23期kz)

教養課程の授業の想い出①

ドイツ語

矢儀先生

結構な年配の先生であった。頭は白髪交じりで、顔には結構深いシワが刻まれていた。どちらで、またどのような経緯でドイツ語を習得されたのか伺えばよかったが、今となってはもう遅い。

高校まで外国語としては英語しか習っていなかった私にとってドイツ語は新鮮であった。

英語と同様、Aで始まりZ で終わる26文字ながら、英語とは似て非なるものだ。辞書なしでは簡単な文章も分からないものが多い。

発音の仕方も子音をあまり利かせず、ダッ・ダッ・ダダダッダと、一語一語克明に発音し、あいまいさを残さない。聴きようによっては九州訛りにも似た男性的な響きがある。

語尾まで克明に発音し、あいまいさを残さず、機関銃のような響きのドイツ語。

この点、フランス語とは異なる。

子音をよく利かせ、リエゾンあり、発音しないサイレントあり、洒落っ気のあるフランス語。

柔らかく、情緒的でささやくようなフランス語。あいまいなところを残すところが奥深く、広がりが出る。

国民性が如実に出ており、隣国でありながら両国民がなかなか理解し合えないことも分かりそうな気がする。要はゲルマンとラテンの違いということか。

◆ドイツとフランス

就職後、両国の名のある新聞や雑誌(経済誌)を読み比べる機会があったが、明らかに違いがあった。

ドイツの方は事実に基づく分析的な記述が中心で、憶測記事、予想記事、評論が少なく、ウイットもない。面白みに欠けるが、非常に冷静に、論理的に書かれており、分析的なものが多い。

他方フランスの方は情緒的に書かれており、修飾語が多く、難解だ。事実がストレートには記述されておらず、憶測記事や論評が勝っており、事実を拾うことに苦労した。

やはり私はドイツ派だ。

◆ドイツ語授業の代返

学生時代に戻るが、私はドイツ語の授業を楽しみにしていた。毎回出席していたが、私の友人の中には、部活が忙しいことを理由に私に「代返」を頼む者がおり、私は気前よく引き受けていた。

第二外国語の授業は選択必修となっており、出席しないと単位に響く。矢儀先生は毎回授業を始める前に出欠をとっていた。一人ひとり名前を読み上げ、学生の返事で出席確認をとるやり方だ。

出席できない場合、代わりに返事をする代返という技がある。私の親友のA君は私に代返を頼んでいた。

代返するにあたっては結構勇気が要る。自分の名前が呼ばれた時には、先生の目を見て胸を張り、存在感を過分に振りまきながら、声高らかに「はい」と返事をする。しかし、代返の時には先生と目を合わせず、下を向き、声色を変えて点呼に応じるが、自ずと声は内にこもる。周囲の同僚への憚りもあり、声も小さくなる。

一度、こういう事が起きた。

代返で「はい」と答えたものの、先生には声が小さくて聞こえなかったからか、再度名前が呼ばれた。

心臓が高鳴り、急に喉が枯れた。返事をする勇気はなかった。

友人には悪いことをした。

もう一度は、先生の出席確認に、私ともう一人の代返者がおり、二人揃って「はい」と返事をした。この時先生が、再度の出席確認の点呼の声がしたが、二人とも沈黙。

親友のA君、私の他にもう一人別の友人に保険を掛けていたらしい。

(学23期kz)

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皆様からのご寄稿をお待ちしています。

アルバイト、サークル活動、同好会、ゼミ、旅行、就職活動などの学生時代の想い出や最近の出来事などについてお寄せください。

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空手部哀歌 NO.2 地獄篇

灰色の高校生活を脱し、「君と~よく~この店に来たものさ~♪~♪」さあ薔薇色の大学生活がはじまるぞーのはずが、空手部に入部。わが身の不幸を呪うひ弱な1回生でした。

1. なんと理不尽な

この世の中、理不尽だらけ。でも、これほどとは・・・。

頭は坊主刈り。冬は詰襟黒服、夏は部の刺繡入りシャツ着用、革靴又は高下駄。

先輩への挨拶、返事は「オス!」「押忍!」のみ。

訳はーハイわかりました。全て従います。何も考えません。

新人が街で見た3回生に「押忍!」の挨拶をしなかった。「指導が悪い」と2回生が体罰を受ける。

(100m離れていても聞こえる大きな声で「押忍!」)

ある幹部の最悪のつぶやき

「彼女は作るな。強くなれん!」えエッ!うそでしょ。

(この幹部がもてないだけで、実は皆さんそれなりに頑張っておられました)

2. 虎の穴

 タイガーマスクにも出てくる欧州に本当にあったプロレスラーの訓練道場。

稽古は柔軟体操、腕立て腹筋背筋、アヒル歩き、うさぎ跳び。永遠と続きます。

腹筋仕上げは仰向けに寝て、上級生が腹に飛び乗る。踏むんでなく三段跳びのジャンプ。

次は亀山外周ランニング、最後はダッシュ。竹刀を持った鬼が後ろに迫る。

肥満の私は毎回、大変でした。

ボカボカ日和の亀山公園、皆さん楽しい公園デートの横で基本稽古。

週に一度は女子短までマラソン。玄関で気合い入れて突き蹴り、ご迷惑かけました。

アッちっちアスファルト、砂利道、ガラス片も何のその、ずっと裸足・・・。

3. 変身

東大出の体育担当若手教授がおりました。

稽古以外はなるべく休憩を心掛け、必修の体育も稽古に備え仮病見学。

なんと、その日に教授が空手部の稽古を見学に。

翌日お呼び出しあり、教授の特別トレーニング実験生に指名を受けた。

稽古だけでも青息吐息なのに、飛んだり、跳ねたり、持ち上げたり。

お陰で20kg減量、入学時2千mだった12分間走は3千mに。

4.こんなこと、あんなこと事件

空手部第一期黄金時代の幹部、勉強が好きで5回生でした。

稽古中、相手の歯が折れて拳に入り骨まで損傷、ギブスして道場門前闊歩。

チンピラ数人に絡まれ、ひと騒動。運悪く、現場に学生証を落としていた。

ある日、下宿の周りに、報復隊が押し寄せているのを発見。その後、各所を転々と・・・。

それでも無事に卒業され、会社の副社長で活躍されました。

新入生は苦しい鍛錬と上級生のサンドバック状態、うっぷん晴らしに酒でも飲んで暴れるしかなし。

ある日のコンパの後、大勢で車道をふらふらしていたら、黒塗りベンツが急停車。

運転手が怒って何か言った。大騒ぎになった。( 私は見てただけです。 )

その後、夜の街を報復隊が我々を探しまわってしたという彼らは広島から応援に来ていた同業の方たちだったらしい。

翌日、主将より「1年生は1週間謹慎、稽古なし!」ラッキー!!

 

(ストーム、お出入り禁止事件)

合法的にうっぷん晴らしするには、寮のしきたり、ストームが好都合。

深夜寮生をたたき起こし仁義切る。上級生下級生に関係なく、ご挨拶受けたほうは布団たたんで正座で返答。礼を失した者は制裁受けてもやむなし(と教えられた)。

ある夜、同級生が吉田寮でちょっとやりすぎ全寮集会でつるし上げ騒ぎとなったが、付き添い主将の一喝で終焉。条件はストームお出入り禁止。

鳳陽寮でも鍵を閉めてマージャンしていたかわいそうな上級生。鉄下駄はいた連れがドアをけ破り、部屋主は震え上がった。(そのあとは酔っぱらっていて記憶にありません)

その前年、1年上も同様事件で鳳陽寮お出入り禁止。

なんとも懲りない面々でした。

そんなこんなで波乱の1年があっという間に過ぎました。

ボオーッとした肥満児が心も体も剥けました。

エッ!学業?そんなもんはとうの昔に捨てました。でも、卒業もしましたよ。

  (山口大学経済学部卒業生 N)

※注 以上はフィクションで、実在の人物、組織とは関係ありません。―ということにしておきます。不適切な表現もありますが、作者の意図を尊重し、ほぼ原文のまま掲載しております。